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カテゴリ:政治あるいは自由論
東京都教育委員会が出していた「通達」が、違憲であることが21日東京地裁(難波孝一裁判長)で確認された(読売・日経・毎日・朝日等参照)。
すこしでも近代社会に生きている自覚を持っている者にとっては当然の判決といえるが、もちろんそれがわからない人たちがいるわけで、久しぶりだけども、少し書く。 ■通達、その卑劣さについて この通達自体が大変興味深い。 あるひとつの政治的立場からの主張を強制しようとしているわけだが、それがわからない方がいるとすると、理由はふたつしかない。 一、たまたま政治的に同じ立場にいる。 二、お上が言うことには「ははぁ」となってしまうメンタリティを持っている。 もちろん、「あるひとつの政治的立場」であることを隠そうと、「学習指導要領に基づき」という文言を使っているのであるが、このおかしさについては下で触れる。 それ以外に、「校長は自らの権限と責任において」「教職員に徹底するよう通達する」とくる。これは、現場の校長に責任を押し付け、あとで「査定」するからね、といういやらしいやり方だ。卑劣と言ってもいい。語の正しい意味でパワーハラスメントでもある。組織運営がリーダーシップ無きトップダウンになっていると、こういうことが起こる(まあ、リーダーシップの意味を勘違いしてる可能性が大なんだけど…笑)。 ■憲法99条を知らない公務員 ある職員は「敗訴なんて1%も予想してなかった。そうでなければ、こんなに混乱しません」。(朝日) この判決を予想できないということは、権利に相当疎い職員なんだろうと推測できるが、都民にとって不幸なのは、そういう人が公務員をやっちゃってるという事実である。彼は憲法99条なんて読んだこともないんだろうな。 ところで、もっと重要なのは中村正彦教育長の話だ。 「我々の主張が何も参酌されず残念だ。通達は、学習指導要領に沿った式典にするために必要かつ合理的なもので、教育基本法が禁じた不当な支配には当たらない。こんな判決が判例とならぬようにしたい」(同上) 脳みそ溶けてるんじゃないかと思える発言だ。憲法19条に違反しているという判決に対して、金科玉条に「学習指導要領」とくる。 学習指導要領第一主義の根拠を述べてもらいたいものだ。言うまでもなく、学習指導要領に法的拘束力を(百歩譲って)認めたとしても、それが国家の基本法を超える根拠にはならない。当たり前ながら。 ■小泉「法律以前の問題」の二解釈 「法律以前の問題じゃないですかね、人間として国旗や国歌に敬意を表するのは。人格、人柄、礼儀の問題とか」(朝日) 「法律以前の問題じゃないでしょうかね。人間として、国旗や国歌に敬意を表すというのは」(毎日) おそらく、同じインタビューだったんだと思うが、この両者、記事の書き方は真っ二つに別れる。 朝日は「強要によらず、礼儀作法として国旗・国歌に敬意を表するべきだとの考えを示した。」と纏めたのに対し、毎日は「(判決に)疑問を投げかけた。」と纏める。 全く逆で笑える。(毎日の方が正しい解釈の気もするが。) しかし、この首相、わかってはいたが、相当に頭が悪い。というか、何も考えてないんじゃないかと思える。 近代国家という組織が「法」を前提に成立していることは高校生でも知っている。Constitutionが国家の基本法であり国家機構であることくらいは首相なんだから知っていてほしいものだ。 立憲主義によってたつ国家機構にありながら、国家への敬愛を「礼儀作法」なんていう権力に絡み取られた言葉で片付けられちゃ誠に困った事態に陥ることくらい、ちょっと考えればわかりそうなもんだけどな。 ■他人を考慮に入れなければ入れないほど、非文明的で野蛮である。 ちょっと書くのが面倒なので(大部分においてはあんまり同じ考えじゃないんだけど)、内田樹の言葉でも引くことにする。 「国益」とか「公益」を規定することが困難なのは、自分に反対する人、敵対する人であっても、それが同一の集団のメンバーであるかぎり、その人たちの利益も代表しなければならないという義務を私たちが負っているからである。反対者や敵対者を含めて集団を代表するということ、それが「公人」の仕事であって、反対者や敵対者を切り捨てた「自分の支持者たちだけ」を代表する人間は「公人」ではなく、どれほど規模の大きな集団を率いていても「私人」にすぎない。(『子どもは判ってくれない』) まあ、わかるよね。 ってか、内田氏が引いたオルテガ=イ=ガセーの「市民の責務」の方がわかりやすいかもな。 (略)文明はなによりもまず、共同生活への意志である。他人を考慮に入れなければ入れないほど、非文明的で野蛮である。野蛮とは、分解への傾向である。だからこそ、あらゆる野蛮な時代は、人間が分散する時代であり、たがいに分離し敵意をもつ小集団がはびいこる時代である。 (中略) 自由主義は(略)最高に寛大な制度である。なぜならば、それは多数派が少数派に認める権利だからであり、だからこそ、地球上にこだましたもっとも高貴な叫びである。それは、敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意を宣言する。(略) (略)敵と共に生きる! 反対者とともに統治する!(同上で紹介のガセー『大衆の反逆』) まあ、もはや言うまでもないけど、憲法19条(思想・良心の自由)ってのは、そういう観点からも保障されてるわけだな。 ■国旗国歌を尊重するのは当然というおかしな主張 もし本当に国家=Constitutionを尊重するってなら、ひとつの政治的立場から思想信条を強要することなんかできるはずがない。そもそも、国家というものが、憲法によってdesigningされるものであるという当然の理解をもってさえいれば、国家の尊重は個人の尊重をその根本に据えているものだということくらいわかる。 そして、どんなに改憲を頑張っても、その「憲法」の根拠が立憲主義にある以上、そこを外した解釈はできるはずがないのである。 「国旗国歌を尊重するのは当然」というのは、「ひとつの」政治的主張であって、それを自分が持っているからと言って、自ずと他者に及ぶと考えている人がいるとしたら、想像力の欠如という、相当な人格的欠陥を持っていると言うほかないだろう。 そうして考えると、先にみた、 一、たまたま政治的に同じ立場にいる。 二、お上が言うことには「ははぁ」となってしまうメンタリティを持っている。 の両タイプの人は、ともに、近代国家を生きるに相応しいだけの考えを身に着けていないともいえてしまう。 そういう人たちは、「戦後民主主義が悪い」と言う人たちと重なっているように思うが、そもそも民主主義を生きるだけのエートスをお持ちでない方々(つまり、野蛮)なんだと考える方が正しいようだ。残念ながら。 ■控訴 前近代的な都の教育委員会の方々は控訴すると息巻いているが、公の機関なのだから、裁判の場だけでなく、都民にも、主張の根拠を示して欲しいものだ。 まあ、次はおかしな「東京高裁」だから、原告は「最高裁」まで持っていくべきだろう。これは、なかなか楽しい戦いになるはずだ。憲法学者たちが見守っているし、さらには、世界の法学者たちが見ているわけだからね。都というところのお偉方が世界に恥をさらすにはもってこいのシチュエーションが揃った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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