■会社は誰のものか、あるいは、社長の器論■
この間、必要あって、いろいろ調べていたら、頭の悪い経済学者のウェブサイトに行き当たった。以前から、頭が悪いと思っていた池田信夫だ。まあ、池田が言ってることはひとつひとつ論理のつながりが弱いし、経済学者にはありがちの、たぶん歴史的視野から持論ののっかっているパラダイムを相対化するってことができていないからだろうが、言ってることのほとんどに説得力を感じない。(このことに関しては、気が向いたら書くかもしれないが、そこまで池田に興味がない。)ところで、なんで、池田信夫の名を挙げたかと言えば、たまたま行き当たったところの池田の議論はどうでもよかったんだが、その主題のところについてちょっと書いとこうと思ったからだ。つまり、池田はただのダシなんだな。■会社は誰のものか池田や、現代の社会構造を全く疑う目を持たない知的体力の無い人間たちは、会社は株主のものだという。おそらく、多岐に渡って議論でき、そのすべてで、上の意見を否定できると俺は考えるのだが、なによりもまず考えなければならないのは、会社なるものが成長するということだろう。今回は、面倒臭いので、ここだけに軽く触れる。所有権論からの、上の意見批判に関しては、所有権の立つパラダイムについての批判と、所有権の適用対象に関する運用実体に関しての批判があるが、これは誰かに任す。今回は、単純で素朴な議論をしようと思う。■資本って?会社は株主のものだと考える多くの者が、無意識のうちに大企業を想定していることは想像に難くない。ここも細かい議論があるが、捨てる。だが、資本ということを考えるとき、会社において重要なのは、そのスタートだ。資本がある。会社ができる。そして、うまくいけば、それは成長する。資本を出した人間がいる。会社を立てた人間がいる。これをこの会社の持ち主だと呼びたくなる。これもわからなくはない。だが、ある会社の企業価値が1,000倍になったとき、それはその出資者の力だろうか? 中小企業を観察すれば、その成長は出資者(多くは社長)の力で大きくなったとは言い切れないことなどすぐにわかる。言うまでもないことだが、従業員の頑張りなくして、会社は成長しない。成長に貢献した従業員たちも、株がなければ、その所有権に与れないというのは、なかなか奇妙なことではあるまいか。■社長の器論社長の器論というのがある。いわく、企業は社長の能力以上は大きくならない、というものだ。もちろん、これは中小企業を指してなされる議論だ。社長は、会社を自分のものだと思っているから、すべてに関わりたがる。そして、それゆえに、社長の能力を超えては会社は大きくならない、と。まあ、これも観察すればわかると思うが、大企業にまでなる中小企業の社長と、中小企業で終わる中小企業の社長は、一目で違いがわかる。いや、長年中小企業の社長をやっている人間と、大企業の社長とを見比べてみればわかる。(もし後者に会えればだが)えばりたがる「万年中小企業」の社長と、しっかり成長する企業の謙虚な社長。自民党は、前者に支えられているから、経済政策がおかしいことになる。■けつろんまとまらんかったが、とにかく、池田みたいな阿呆は、会社が株主のものでなければ、法律がおかしいことになる、って言うが、法律がおかしいということで何が悪いんだ?こういうところに、基礎法学や歴史学的知見の無い人間の、適当さが出てしまうんだよな。また、従業員は企業の効率化を拒否するとまで言い切る阿呆さは、現実知らずと言わざるをえない。多くの中小企業(税務申告で約8割が赤字決算を提出する)の「非効率」は、完全に経営者のせいだと俺は観察していて思う。どうしてそんな風に、学者なのに直感だけで語れるのかね。まあ、池田の阿呆は置いといて、現実社会が捨てたもんじゃないなって思えるところは、会社は(ある程度)従業員のものだって考えているマネジメントを持つ会社しかちゃんと育っていかないってことを、見られるところだろう。もちろん、例外はけっこうあるだろうが、俺の知る限り、一代で一部まで上場させちゃうような社長は、会社は従業員のものでもあるって考えているんだよね。