【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

フリーページ

2003年08月05日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
昨日、昼休みに同級生のR子さんから電話がかかってきました。
「もしもしtetywest君、昨日の朝日新聞にな、清(きよ)っさんが載っとんで」

清君は、これも高校時代の同級生です。R子さんは幼稚園時代からの幼馴染で、「私はな、伸夫君と清っさんと両手を繋いで幼稚園に通うたんやきんな」と言うくらい深い関係なのです(笑)。まさか清君が事件を起こして新聞に載るわけはないと思ったのですが、
「何の記事で載っとん?」
と訊きくと、
「落語の話やけどな、新聞の4分の1くらいに大きに載っとんで。顔写真も載っとるしな」
と、あまり要領を得ません。
「それなら、後でFAXで送ってよ」
と頼んだのですが、昼寝から覚めてみると郵便受けにその新聞が置いてありました。入れてあるケースには「A明高速印刷」のロゴが・・・・

R子さんは、同級生のM石君をメッセンジャーにして、tetywestに「清君の記事を『観一21のメールリスト』に流せ!」と言うわけです(笑)

昨夜は、この記事のインプットに時間をかけてしまいましたので、HPにも同じものを掲載します(汗)

8月3日(日曜日)朝日新聞21面のトップ記事です。
---------------------------------

上方落語の祖・露の五郎兵衛没後300年

今に生きる「辻咄」の伝統

ちょうど300年前、元禄16年(1703年)は芸能史にとって大きな意味をもつ
年だった。

2月4日は赤穂の浪士たちの切腹。5月7日からは道頓堀竹本座で「曽根崎心中」が上演された。この作品の発端、生玉境内の場で、お初を連れ出した田舎客が見に行ったのは、当時生玉神社で落とし咄(ばなし)や物真似(ものまね)を演じていた米沢彦八の芸であった。近松玄作に彦八の名は出てこないが、絵本の挿絵にははっきり彦八が描かれている。

彦八を大阪落語の祖とすれば、京都の落語家の祖が露の五郎兵衛であった。彦八よりやや早く活躍した五郎兵衛は、この年の秋に没した。今年は、没後300年に当るのである。

     ○     ○     ○     ○     ○     ○

彼の落とし咄は、数種の種本となって残っており、その内容の概略をうかがうことができる。最も著名な『軽口(かるくち)露がはなし』は、京都誓願寺の僧、安楽庵策伝の『醒睡笑』から採った咄が3分の1ほど占めている。このことは、彼の創作能力を疑うことにもなるが、裏を返せば、普遍的な笑話を当世風に作り替え、平易で根元的な笑いを重視したということにもなろう。

文字で残された咄本からは、彼のしぐさや口吻(こうふん)は伝わりがたい。しかし、京都における人気の高さから見て、簡略な文体からはうかがえない話術の魅力があったにちがいない。

元禄2年(1689)の浮世草子『都名物男』には「今の京に物まねを業として世をわたる者おほき中に、露の五郎兵衛が軽口、幸男が人まね、権兵衛が江戸万歳・・・」と、京都で活躍した諸芸人の名人の名が列挙される。その第一に、彼の軽口があげられているのである。

彼はもともと日蓮宗の談義僧であったが、還俗して芸人になったといわれる。晩年、再び法体して「露休」を名乗った。

没後出版された『露休置土産』をみると、今日の落語につながる咄がいくつかみられる。

新鮮な猪(いのしし)肉を求めにきた買い手に、猟師は今撃ったばかりの猪を見せるが、買い手は弾の跡が見えないので古いのではないかと疑う。二人が言い争っているうち、気絶していただけの猪が逃げ出したため、猟師が「あのあたらしさを御覧ぜ」と言う咄(「池田の猪(しし)買い」)。

酔って帰ってきた息子に酔った親父(おやじ)が、おまえのようなやつにこの家は譲れないという。息子はこんなぐるぐる回る家はもらわなくてもいいという。怒った親父がおまえの面は二つに見えると言う咄(「親子酒」)。

ほかに「辻占(つじうら)茶屋」「四人癖」「道具屋」など、五郎兵衛の笑術が一席の落語となって、今日の高座にしばしばかけられているのである。

     ○     ○     ○     ○     ○     ○

江戸時代の落語家に共通して言えることだが、彼も落とし咄だけを演じていたのではなかった。判じ物という謎も得意としていたらしい。紙に「い」の字の半分を白抜きにして書き、何と読むかと客に問いかける。答えられない客に、これは岩井半四郎(「い」は「い」、半白)と解いてみせるという類である。

また、歌舞伎を物真似で演じるという芸も演じていた。役者評判記『役者口三味線』には、吝嗇(りんしょく)な人が歌舞伎見物は贅沢(ぜいたく)と思い、露の五郎兵衛の「辻放下(つじほうか)」で歌舞伎を見覚え、それさえ銭を出さずに見逃げするという話が出てくる。今日いうところの芝居咄を演じていたことがわかる。

同じ頃、江戸では鹿野武左衛門が座敷で、筋のある咄をじっくり聞かせていた。その座敷咄に対して、五郎兵衛の咄は「辻咄」と呼ばれる。時に貴人の席に招かれて座敷で演じることもあったが、平素は北野天満宮境内や祇園真葛(まくず)ヶ原、四条河原などで床几(しょうぎ)に据(す)わって、道行く人の足を止めて演じていた。

そうした場所では、笑いの多い短い咄でなければ受け入れられがたい。聴衆の歓心を買う努力も惜しまなかった。辻咄の伝統は、親しみやすく賑(にぎ)やかで笑いの多い上方落語に、今日も色濃く残っていると思われるのである。

---------------------------------
O田清
(梅花女子大教授・近世芸能史)
大阪大学大学院博士課程単位取得退学。著書に『上方板歌舞伎関係一枚摺考』(清文堂出版)、論文に「咄家の流行唄」「上方落語の特質」など。
---------------------------------






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2003年08月05日 12時21分52秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

お気に入りブログ

TALKING TALKING ROSE 鎌倉ROSEさん
アジアン雑貨屋店主… エナエナさん
まゆんの旅日記 mmayunさん
飲茶天国 cherry-kuroさん
カガワちゃんの毎日。 ぐわぐわさん

コメント新着

 鶴亀彰@ Re:50年前のビデオ(2)(08/08) 突然のメールで失礼致します。私はカリフ…

バックナンバー

2024年04月
2024年03月
2024年02月
2024年01月
2023年12月

© Rakuten Group, Inc.