テーマ:昭和映画落書(10)
カテゴリ:昭和日本映画
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作品の評価は微妙ですが、いろいろな意味で僕に強烈なインパクトを与えた映画です。 まず語らなければならないのが、監督の長谷川和彦。 昭和21年生まれ、『太陽を盗んだ男(昭和54年)』公開時は33歳。 デビュー作でキネマ旬報ベストワンに輝く『青春の殺人者(昭和51年)』の公開時は、なんと"30歳の新進映画監督登場"と騒がれました。 両作品とも数々の賞を獲得し、次回作が待たれる監督のアンケートでは常に上位に名を連ねていました。 多くのファンが待っているにも関わらず、『太陽~』以後は一本もメガホンを取っていません。 本人は撮る気満々なのですが、色々な事情で今日まで実現しませんでした。 事情の一番は、プロデユーサー(依頼主)の言う事を聞かない。 いつも威張っていて態度がでかい。 こだわりが多く、スケジュールどおりに進まず、役者やスタッフの契約期間が守れない。 それもあって予算がどんどん膨らんで、多少のヒットでは資金を回収できない。 等々で、監督依頼は縁遠くなり今日に至ってしまいました。 愛称の「ゴジ」は怪獣の「ゴジラ」からきており、図体のでかいのと、現場でガオガオわめいている様から付けられました(巨人・ヤンキースの松井秀樹が出現するまでゴジラといえば長谷川和彦だったのです)。 結局、監督としての作品はこの2本だけなのです。 しかし、キネマ旬報創刊90周年の記念に行われた、映画評論家・作家・文化人による投票「オールタイム・ベスト映画遺産200」で『太陽~』が第7位に選ばれました(『青春~』は36位)。
あの頃の僕にとって、長谷川和彦はヒーローで、映画志望青年の希望の星でした。 昭和54年(1979年)といえば僕は23歳、毎日シナリオをせっせと書いて、計画性の無い人生を歩んでいました。 そんな時、古い体質を撃破して若い世代に道を切り開くカリスマとして登場したのが彼でした。 ただ、今考えてみると、彼の映画手法はたいして斬新なわけではなく、古いシステムの中で単に無遠慮でめだっていただけかもしれません。 映画界は古い体質が好みのようで、デジタル化が進んだ現在においても、なぜか根本は旧態已然が心地よいのです。 映画マニアは、その空気感が好きなんだなあ。
シナリオはレナード・シュレイダーというなんとアメリカ人。 マーティン・スコセッシ監督『タクシードライバー(1976年)』の脚本家であるポール・シュレイダーは実兄です。 兄弟で脚本を書いたシドニー・ポラック監督『ザ・ヤクザ(1974年)』は全米でセンセーションを巻き起こします(東映ヤクザ映画のオマージュなんですが、主演も高倉健だし)。 もともとは、1969~73年に来日、同志社大と京都大で英文学の講師をしていました。 この間東映ヤクザ映画に触れ、日本のアンダーグラウンドに興味を抱き、研究を始めます。 『太陽~』の原案持込はレナード・シュレイダーのほうからでした。 もともとは、さえない若者が原爆を作り、政府をゆすって大金をせしめるというギャングストーリーでした。 ところが長谷川は、自分が被爆者であることもあり(広島の胎内被曝児)、主人公が実験中に被曝してしまう悲劇もつけ加えることを提案し、手直しされた原稿はいきなり社会性を帯びたものでした(課題『名前のない道』、暗!)。 これを長谷川が引き取り、大幅に書き加えていった結果、なぜかアクション映画になってしまいました。
主役は当時人気絶頂の、ジュリーこと沢田研二。 昭和52年『勝手にしやがれ』でレコード大賞、翌年『憎みきれないろくでなし』『サムライ』『ダーリング』『LOVE抱きしめたい』とヒットを飛ばし続け紅白歌合戦のトリをつとめ、年間テレビ出演700本、ラジオ300本、取材300本、地方公演100日という強行スケジュールという、いったいいつ映画を撮っていたのだろうかと思います。 役者としての実績は、昭和50年にTBSドラマ『悪魔のようなあいつ(脚本・長谷川和彦)』で3億円強奪犯を演じています(主題歌は『時の過ぎ行くままに』)。 その演技が認められてというより、営業的に集客力のある顔と言うことが重要課題でした。 この選択がこの映画の成功であり、失敗でした。 どんな荒唐無稽な話でも、絶えずリアリティを追求するのが映画です。 冒頭、教室の窓辺でガムを噛みながらぼんやりしている長髪のジュリー、これがやる気の無いさえない物理の高校教師にはとうてい見えないのです。 本来、『青春~』でコンビを組んだ水谷豊がやればよかったのだろうけど、彼は46.7%の最高視聴率を出したTVドラマ『熱中時代(教師編)』の真っ最中でした。 では、ジュリーのライバルであり、神代辰巳監督『青春の蹉跌』で長谷川が脚本・助監督として接した萩原健一ではどうだったか。 ショーケンなら、さえない高校教師も、社会に不満を抱くアナーキーな人間も演じることが出来るので、かなり質の高い映画になっていたでしょう。 しかし、長谷川は"花"が欲しかったんだろうなあ、たぶん。
僕にとって、ジュリーとショーケンは、常に前方に輝くスターでした。 団塊の世代の有名人は数多くいますが、このふたりは別格です。 僕はショーケン派で、ふらふらっと料理人を目指したのも『前略おふくろ様』の影響が少なからずあります(同時に脚本家の倉本聡にも憧れたのですが)。 ジュリーもタイガースの頃からまねをしたりして(「♪君だけを~」といポーズ)、クラスの人気者(お調子者)でした。 今でもカラオケで一曲はジュリーを入れます。 でも好きとかではなく、ふたりとも特別な存在と言う感じでした。 本人の努力も無いわけではないのでしょうが、ジュリーはやはり神に選ばれた人の雰囲気があり、どの映像でも常に浮いた存在になってしまうのでした。
もうひとつ語るべきは音楽の井上堯之。 「ザ・スパイダース」「PIG(ジュリーとショーケンが合同したスーパーバンド)」「井上堯之バンド」とグループサウンズ時代をリードし、ジュリーとも特に深い仕事関系がありました。 『太陽にほえろ』『傷だらけの天使』の音楽で評価を受け、『愚か者』で日本レコード大賞(作曲)、映画『火宅の人』で日本アカデミー最優秀音楽賞を受賞するほどになります。 しかし、この時はスランプでした。 ジュリーの殺人的なスケジュールに帯同し(バックバンドだったため)、加えて音楽家としての成功に多忙を極め、かねてから付き合いのあった長谷川からオファーが来たとき、「俺、今、空っぽだから」と言って初めは断りました。 それでもと無理やり頼まれ、搾り出すように作った曲が予告編のバックに流れている曲です。 中でも一番好きな曲は、菅原文太のテーマ曲「YAMASITA」。 本人はまるで自信が無かったようですが、素晴らしい出来栄えです。 ある意味この洗練された音楽が、盛りだくさんで方向がまとまらない映像をしっかり繋ぎとめていました。
菅原文太と長谷川和彦は飲み友達で、新宿ゴールデン街で飲んでいるときにオファーを出して決まってしまいました。 この配役で刑事のウェイトが断然重くなり、ふたりの対決シーンが延々続くはめになったのでした。 上映時間147分はやはり長い。 最後のアクションシーンはやめて(どうせ規制の多い日本では満足なものは撮れないのだし)、当初のねらいである"被曝"をもっと表に出せば、歴史的傑作に成れたかもしれない。 あの美しいジュリーの髪の毛が抜け落ち、皮膚がただれて崩れていけば、放射能の恐さが若い世代にも焼き付けられていたことでしょう。 そうすれば、こんな無謀な原発依存のエネルギー政策も生まれなかったかもしれない。 福島の悲劇も避けられたかも・・・。 もっとも原発村の圧力から、映画製作自体が止められただろうけど。
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最終更新日
2013年09月14日 09時05分38秒
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