テーマ:短歌(33)
カテゴリ:駄歌凡歌
聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生が、18日に永眠なさいました。 数カ月前まで医師として診療を続けておられ、名実ともに日本の医療界をけん引してきました。 享年105歳。 ご本人は、とりあえず110歳までのスケジュールを組んでいたそうなのですが、人生をやり遂げた未練なき大往生であったと思います。 日野原先生に関しては、以前取り上げさせていただきました。 僕の尊敬するメンターの一人でした。
今回は、代表する著書でもある『生き方上手』を振り返りながら、駄歌凡歌を詠みたいと思います。 いつものように青字が引用です。
『生き方上手』
きりのない願望が、あなたをしあわせから遠ざけます。 「希望」はあまり多くを望みません。いわゆる身のほどを知ったうえで望むのが希望というものですから、希望はほどほどのところで満足することを知っています。今あるもの、あることに感謝し、「その半分でも満足です」と答える控えめさをもっています。それでいて、どんなに小さな希望も、十分に幸せを与えてくれます。 同じ「望む」というものでも、ないものを無理にでも手に入れよとする「願望」とは大違いです。 病や事故、災難に見舞われても、あるいは人と比べて能力や財力が劣っていても、自分に与えられた現実を受け入れることができたなら、それはなかば希望を手に入れたようなものです。身のほどを知ることは、希望を手にする第一歩なのです。
漆黒の 闇の世界も 足元を ほのかに灯せ 希望のあかり
健康とは、数値に安心することではなく、自分が「健康だ」と感じることです。 健康を維持するのは、めいめいの努めです。健康診断を活用するのも結構です。からだの状態を客観的に把握できますし、自覚症状のない病気を早期に発見できるかもしれません。けれど、検査データに一喜一憂する必要はありません。もっと大雑把でいい、アバウトでいいのです。 きのうのあなたと今日のあなたがちがうように、健康もあなたとともに姿を変えます。環境の変化を読む熟練した舵取りは、医師ではなく、あなたのことを一番よくしっているあなたが摂るべきだということを忘れないでください。 老化によるからだの衰えや、不幸にして治る見込みのない病に見舞われても、私たちは、「欠陥があるにもかかわらず健やかである」という生きかたをもとめていくべきだとおもいます。
一生の つきあいとなる この身体 内なるちからを 信じてさする
老いとは衰弱ではなく、成熟することです。 75歳をすぎてもなお多くの人が健康でいられるのは、若いときに粗食を余儀なくされたおかげであり、なおかつ豊かな時代になってからも飽食に走らなかったからです。結果として、いわゆる生活習慣病と総称される、高血圧、脳卒中、心臓病、糖尿病、肝臓病、肺がんなどを回避できたのです。 健康な長寿は、若い日からの積み重ね。好きなものを好きなだけ食べているいまの若い人たちに、私たちと同じような、健康な長寿は望めません。現代医療の力を借りても、寝たきりの長寿が関の山です。 粗食こそが健康の基本。新老人は、その生きた証であり、新老人の長年のライフスタイルは、若い世代のモデルになりえます。
歯止めなき 欲にのまれて 見失う 甘い習慣 命を削る
年齢は勝ち負けではありません。謙虚に、そして存分に味わえばよいのです。 年齢に臆して引き下がるような生きかたを、私はしたくありません。私たちのなかに隠された無限の才能は、毎日、引き出されるチャンスを待っています。そのチャンスに気づかず、行きちがってばかりいる人生で終わりたくはありません。 自分を信じて挑んだ結果が失敗に終わることもあるでしょう。それでも、チャンスに賭けた勇気ある行動には、大きな意味があります。決してむだでもなければ、後退でもありません。精一杯生きた足跡は、意義深い「過去」となります。「過去」は過ぎて失くなるわけではなく、「過去」として続けるものだということを忘れないでください。 一瞬が連なって一日となり、一年となり、一生となるのです。昨日と同じように過ごした今日であっても、きのうはきのうの一度きり、今日も一度きりの今日なのです。これほどかけがえのない今日を、失敗を恐れて無為に過ごすのは、あまりにもったいないではありませんか。
一瞬を あなどる者の 危うさよ 今が大切 今に感謝
人はいくつになっても生き方を変えることができます。 人生は一言で言えば習慣です。習慣に早くから配慮した者は、おそらく人生の実りも大きく、習慣をあなどった者の人生はむなしいものに終わってしまいます。習慣は日々の積み重ねですから、それが習い性になってしまえば、その後はつらいとも面倒だとも感じなくなります。よい習慣をからだに覚え込ませればよいのです。 鳥は生まれついた飛びかたを変えることはできません。動物は這いかた変えることはできません走りかたをかえることはできません。けれど人間は生きかたをかえることができます。それは、人間だけがいのちに終末があることを初めから知っているからです。かぎりあるいのちをどう生きようか、と生きかたを考えることができるのは人間だけに許された特権なのです。
太陽と ともに目覚めて ともに眠る 無理はしないが けじめはつける
失うことを恐れるより、与えることで喜びは生まれます。 見返りを期待せずに与えるという行為は、かつては身近にいくらでもありました。日本人がいまより謙虚であったころ、つまり人間のひよわさを自覚していたころには、ごく自然に肩を寄せ合い、助け合っていました。国が豊かになるにつれ自らの力を過信し始め、サービスはもっぱら金で買うというようになってから、社会は少しおかしくなってしまったようです。 与えることで失うのではなく、心は以前にも増して満たされます。ごちそうなら食べ過ぎれば胃もたれを招き、ふくらみすぎた財産は不安を生みますが、心は満たされれば、どこまでもすがすがしく爽やかで、生きていることの喜びを実感できます。
与えれば 与えるほどに 富む心 生きる喜び 人あればこそ
ほのぼのとした善意だけでは、ボランティアはつとまりません。 他人のために役に立てたということは、つまり自分という存在が生かされたということであり、生きている実感をこれほど強く感じられる瞬間はありません。人生の後半は、自分に与えられた知恵やセンスや体力を、今度は社会にお返ししていく段階です。その自分を生かす場は、自分で探し求めるのです。 私にはいつもこんなイメージが目に浮かびます。地獄の入り口で天秤を手にしてエンマさまが問うのです。 「自分の寿命を、自分のためだけでなく、他人のために使ったか」 と。もし、天秤棒が”自分のため”の重さのせいで垂直に跳ね上がったりしたら、エンマさまはひと言、 「極楽は無理だね」と言うに決まっています。 人生のぎりぎりまで考え、感じ、働ける人間でありたい。そのための努力を惜しまず、ときに耐えて、授かった知恵を若い人に与えたい。それが私の生きがいであり、私という存在に意味を与えてくれるものです。
審判を 受ける地獄の 入り口で 悔いなき人生 信じ来た道
ミスをおかしてミスに学ぶ。だから成長できるのです。 どんなに最新の医療機器、医療設備を用いようが、医療も所詮「人が人になす行為」なのです。だからこそ、そこには相手を思いやる「心」があってしかるべきですし、また反面、「絶対」や「完全」はありえない。つまり、病気を治せないこともあるし、医療上のミスも起きるものなのです。 私たちはどんなに努力し、注意をしても、完璧ではありえません。それは求めても詮ないこと。むしろ謙虚に、おごらず、まずわが身を含めて、人間のいたらなさ、弱さ、不完全さを、つねに自覚することからはじめなければなりません。 私たちは、この先に起こりうるすべてのミスや突発的な事故を予測することはできないのですから、おかしたミスに謙虚に学ぶよりほかありません。実は、それが最短にして最良の道なのです。医療ミスはゼロにはできませんが、減らすことなら私たちにもできます。
失敗は 学びがあって 役に立つ 教えいただき のぼる階段
よいかかりつけ医との出会いを偶然にまかせてはいけません。 長いつきあいになるかかりつけ医は、あなたと相性がよいことが何より。見立てがいい、腕がいいという周囲の評判に頼るより、実際に医者にかかってみて、あなたの勘を働かせるほうが確かです。 相性のよしあしは人それぞれですが、患者の話をよく聞く医師を選びたいものです。よい医師は、その対話から診断に有効な手がかりをつかむことに長けています。あなたが医師の前で緊張して、からだの状態をうまく説明できないときにも、「まあ、ゆっくり思いだしてごらんなさい」と声をかけてくれるような医師なら、おおいに信頼がおけます。 「大丈夫、よくなりますよ」と、医師があなたの肩に手を置いてくれたら、あなたの心は晴れるでしょう。あなたに備わっている回復力もからだ中に湧いてきます。治りのよさも断然違います。そんなさりげない行為も、医師の技の一つだと私は思っています。
藪医者に 命を委ねる せつなさよ 巡りあわせで 運が尽きるか
多くの人の期待に反して、医師が治せる病気というのは、実はそう多くありません。この先どんなに医学が進歩しようとも、「治せる病」はひと握りにすぎないでしょう。「現代医学をもってすればどんな病からも救われる」という錯覚に、医師も患者もとらわれ過ぎているように私には思えます。 患者さんに検査や注射、手術という苦痛を与えておきながら、 「病気を治すためだから、苦しくとも辛抱しなさい」 と我慢を強いてよいものでしょうか。 完全に治せる病のほうが少ないばかりか、人間はいずれ死ぬのです。そうであるなら、許された年限をできるだけ快適に、苦しみが少なく、不安にさなまれずに生きていくことのほうがはるかに問われてしかるべきです。
神の手に 命あずけて 声を待つ 今日を良き日に 死ぬも生きるも
尊敬する先人が、次々とこの世を去っていきます。 自分も歳を重ね、いつのまにかお迎えを待つ列に並んでいます。 何かを残すということに固執するのは良くないでしょうが、考えたこと、思ったこと、解かったことを言葉に託すことは、生まれてきた値打ちでしょう。 人生は”自分を知ること”。 教えてくれた師に感謝。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年12月12日 22時00分57秒
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