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スピリチュアルエコロジーな人生

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2009.03.08
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カテゴリ:カテゴリ未分類

P2180128.JPG
スピリチュアル、この言葉をこんなに連発しているのはわたしにとってすごく珍しいこと。
私のことをよく知っている友人なら「どうかしたの?」と思うことだろうな。

ちまたで「スピリチュアル」ということばが独り歩きしだしてからどのくらいたつだろう?
この「一人歩きしているスピリチュアル」がわたしは好きではない。
スピリチュアル=天使、光、魂、過去世、カルマ、ヒーリング、非現実主義・・・そんなことだという感じにわたしには受け取れる。

はたしてそうなのか?
わたしは「違う」と思う。

スピリチュアルというものの本来の意味はたぶん「人の霊性、または精神性」なんだとわたしは思う。
では霊性や精神性とは何でできているか?
たぶんわたしたちが生きていくうえでのあらゆるものがそれに含まれるのではないかと思う。
目に見えないものも物質も何かもすべて。
というとすごく抽象的だから、噛み砕いていこうと思うけど・・・(若干自信ない 笑)

じゃあスピリチュアルというのはちょっと置いておいて、エコロジーについて考えてみたい。
(エコロジーっていうのもまた一人歩きしている言葉なのだけど・・・)

みなさんにとってエコロジーって何ですか?

わたしにとってのエコロジーとは「自然(宇宙)との一体感、目に見えないところを感じ取ること」なのであって、リサイクルとか低炭素社会とかではない。

大昔の人にとって、水といえばとても神聖なものであり、貴重なものであり、それを使う事は非常に畏れおおいことであったに違いない。
目に見えない神様が与えてくれるものとして認識していた、ということもあるだろうと思う。

だからこそその水を人や動物たちや植物たちとともに大切に分かち合っていたんだろうと思う。
雨が降ればそれは命の源として歓迎したし、山を登り湧き水を見つけると、それが悠久の時を経て自分たちに注がれているのだということを誰もが感じ取っていたのだと思う。

彼らは常に目に見えない「偉大なるもの」のなかの、自分たちは一部であるのだという事を普通に感じていたんじゃないだろうか?
常に目に見えないものを、ある物が目の前に来るまでの道のりを、常に見つめていたのではないだろうか?


そのことに触れてすぐに現代に話を戻すのはとても乱暴なのだけれど、あえて戻してみる。


現代ではだれでも生まれたときから蛇口をひねれば水が出る。
その水がどのように自分の目の前までやってくるのかなんて普通は考えない。
きっとものすごい工程を得て来ている。
その工程の中には目を覆いたくなるようなこともたくさんあるはずだ。
でもそこは見ない。見えない。見ようとしない。
わたしたちは自分のことで忙しすぎる。


発展が悪いのではない。
たくさんの先祖たちがいたから今のわたしたちがある。

でも明らかに現代人は「目に見えない偉大なるもの」を感じそびれてしまっているように思う。
麻痺しているというのかな。
そんな風に思う。



とてもいい洗剤が発売されて洗濯物が真っ白になってうれしい。
柔軟剤で良い香りがついてもっとうれしい。

エコロジーとは、そこで「じゃあこの排水はどうなるの?」
「この洗剤は何で出来ているの?」
「水が汚れるって言うけど、その水、植物や動物たちにも影響があるのでは?」
「わたしたちが満足できたら何したっていいの?」
という目に見えないものを感じ取ること、そういうことなんだと思う。


ここで話をスピリチュアルにもどすことにしよう。

わたしにとってスピリチュアルとは、「今この目にみえる現実の裏にある、目に見えないものはどんなことだろう?」ということだ。 

「自分はいったいどうしてこういう事態に陥っているのだろう?」
「今のこの目に見える幸せはなぜここにあるのだろう?」
そうやって目に見えないことを感じていくことではないかと思う。



そういう意味でスピリチュアルとエコロジーは似ている、という題目につながるわけなのだ!



ひとは物質的な存在だけでもないし、精神的、霊的な存在だけでもない。
すべてひっくるめた視野を常に持って生きることこそ本当の意味でのスピリチュアルなんじゃないかと思うのだ。

だから「わたしはスピリチュアル系だ」とかいう会話はおかしい。
明らかにおかしい。
ひとはみんな、どんな人であっても本来スピリチュアルな側面も持っているし、その感覚は閉じられていない。
ただちょっと、麻痺しているだけなんだと思う。


スピリチュアルという言葉、そろそろちょっと違う言葉に置き換えられないだろうか???






P.S.
こういうことを言うと「責められているような感じがする」と引いてしまう人がたくさんいる。
わたしとしてはそれは不本意であるけれど、ある意味希望が持てる。
だって「責められているような感じがする」ということは「罪悪感がある」ということだから。
「罪悪感」とは使いようによっては「ギフト」に変換できる。
「罪悪感」は「偉大なるものを感じ取る窓口」にもなる。
「罪悪感」とはあるひとつのツールかもしれない。
わたしも「罪悪感」があったからこんなコラムを書いているし、今だって罪悪感はある。
だってすべて完璧に出来ているわけでは決してないから・・・
だけどこの「罪悪感」を持っている限り、「偉大なるもの」に対する畏敬の念はあり続けるだろうし、どうやってあらゆることに取り組んでいこうかと考えられるから。

だからこれを読んで「痛いな」と思ったらその痛みをどうやってギフトに変えていこうかと、いろいろ考えるきっかけになったらいいなと思う。

書いていて一番痛いのはもしかしたら私自身だ(苦笑)。
いや、違う、一番痛い思いをしているのは地球だよ。
痛がるよりも癒やす方向をそれぞれみつけていこうではないか!






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Last updated  2009.03.08 11:05:52


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