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2007年05月19日 楽天プロフィール Add to Google XML

ブログを引っ越します。



ブログも新たな時代になってきました。そこで、私もブログを引っ越すことにしました。
新しいブログでは、ブログの可能性を追求。さまざまな実験をしたいと思います。

何故、ブログを引っ越すかについては、追々語っていくことにしますが、端的に言えば、次。

ブロガーが搾取される時代の終焉。


そして、楽天ブログの欠点は、次。

・アマゾンにリンクが貼れない。

・ユーチューブをリンクできない。




ネットでの、ロム者たちが、閲覧しているだけで、情報の只取りをしていると考えるのは、アクセス数で広告料が決定する時代に、正しくない。

同様に、無料ブログのブロガーたちも、只でブログ環境を提供されているから、環境を只で利用しているとはいえぬ。


YouTubeでは、巨大なアクセス数を稼いだ投稿者に報酬を支払うという。

私・スポンタも、私なりのウェブ2.0を始めようと思う。

引越し先は、シーサー・ブログである。

http://sponta.seesaa.net/



リアルな私と、ネットな私。

それらが混在するブログ空間に迫ろうと思っている。

勿論、様々な混乱があるだろうし、批判も受け止める。

今後とものお付き合いをお願いいたします。


07sponta

Last updated  2007年05月19日 18時40分27秒


アルゴリズムの時代13:アルゴリズムの分類によるメディアの違い。
[ アルゴリズムの時代 ]    


神奈川新聞がメディアジャムというニュースサイトをスタートさせたということなので、さまざまなメディアのアルゴリズムの違いを明確にすることで、ことの本質を探ってみたいと思う。

【既存メディア・オーマイニュース韓国版・市民参加型ジャーナリズムのアルゴリズム】

argo_simin.gif

*

Regacy Mediaとは既存メディアのことである。ダン・ギルモアの講演会で、時事通信社の湯川氏が、Old Mediaという言い方ではなく、Regacy(遺産)という語を使ったのを鮮明に覚えている。

既存メディアのアルゴリズム(代表決定・意思決定のシステム)は、ヒエラルキー型である。下部組織の構成員が提出した情報は、上部組織の構成員の承認がなければ、オーソライズ(外部に発表)されることはない。

*

真ん中に位置するのは、オ・ヨンホ氏が韓国で成功させたという市民参加型ジャーナリズムのオーマイニュース韓国版である。
大統領選の行方にも影響を果したと伝えられるオーマイニュースだが、その記事はオ・ヨンホ氏自身と専従記者たちが作り上げたものであって、市民記者が関わることはなかったという。

つまり、オ氏は、メディアとしての影響力を強めるために市民記者を利用したに過ぎず、かのメディアが大統領選出に影響を与えたといっても、市民の声がジャーナリズムを通じて、国政に影響を与えたということではない。

*

一番右に、CGM(ユーザー参加型メディア)と書いたが、それは市民参加型ジャーナリズムの理想の形である。

フラットな構造をしているが、市民記者たちの合意において記事が提出されている訳ではない。

市民記者は単独で記事を書くのであって、同僚の市民記者たちとの合意のもとで記事がオーソライズされるのではない。

そのあたりは、以下の図で示されるフラット型アルゴリズムの弊害を眺めていただければ理解していただけるだろう。

【フラット型アルゴリズムの弊害:クレーマーの野放しと、ボピュリズムの発生】

アルゴ_3フラット.gif


インターネットの登場により、世の中がフラットになっていくという言論がある。
それは、アメリカ一極集中を終焉させるものであり、南北問題の解消につながるとでもいうような好意的な論調でもある。

だが、フラット型のアルゴリズムがそのような理想とは程遠いことを気がつかなければならぬ。

フラットな領域が広がっていくことは、それまで、小会議室で打ち合わせを行なっていたのが、突然、日本武道館のようなところで会議をしなければならぬような事態である。

小会議室であれば、忌憚のない発言ができる。対話の中からお互いの気づきが生まれ、有効な結論が期待できる。
だが、日本武道館のようなところで、大勢が集まったとしても、対話は促進されない。
発言するものは、目立ちたがり屋であり、採決をとってもポピュリズムに陥った結論しか出ない…。

たとえば、いくつもの小会議室での結論を持って、それぞれの代表者が会議を積み上げていって、大集団の結論を導き出すとしよう。ひとつひとつの会議は密室であり、そこに信頼を寄せられない人もいるのかもしれぬ。
だが、発言数や対話の数を合計すれば、日本武道館でやる会議のようなものとは比較にならぬコミュニケーションが実現していたはずである。

インターネットで広がっているフラット感は、日本武道館である会議のようなもの。
私は、そんなことを感じている。

07sponta

argo_Mjam.gif


追記:05.20

アルゴリズム14は、シーサーブログで、続けています。

アルゴリズム14:メディアのアルゴリズムを総覧する。

…です。

ご高覧いただければ幸いです。


Last updated  2007年05月20日 08時57分11秒

2007年05月18日

アルゴリズムの時代11:記事をオーソライズするのは読者である。
[ アルゴリズムの時代 ]    



私は、ブログ普及後のインターネットは、オルタナティブメディア(相互補完的媒体)ではないと指摘している。

ならば、ネットvsリアルではない。

そして、新聞・既存マスコミ vs ネット言論ではない。





Paper_Crowd_01.gif

新聞社は新聞発行において、記事の内容の真正性に責任をとる。
私は、それをオーソライズという語を使って表現している。

とはいえ新聞社も神ではない。

ときとして、間違うこともあるから、訂正をしたり謝罪したり、無実を主張するために法務部を設けたりしている。

*

だが、インターネットの時代になると、情報は多様になり、新聞社がリリースした情報が真正かどうかが、極めて疑わしいことが露呈してきた。

新聞社は神ではないのだから、ことの真正性を突き止めることは不可能である。

また、真正であるかどうかと離れて、現状を批判するにしても、その批判の元になる思想が、民意を反映してのものかどうかも疑わしい。

そもそも、新聞社が「事実性を保証して新聞を発行する」などという行為が欺瞞に満ちていたのである。



インターネット時代の読者たちは、「新聞は、真実とあまり関係なく、固有集団が接した情報をリリースしているに過ぎない」と、看破している。

だから、読者たちは、新聞社が導き出す言論が極めて主観的であっても、それに踊らされるというよりも、それらが恣意的なものであることを楽しんでもいる。

*

たとえば、サヨク系な言論を提示する新聞社に憤懣やるかたない読者がいる。
そのように怒っている所作も、楽しんでいる風景のひとつといえないだろうか…。

私は成人するまで、我が家は、その新聞しか取っていなかった。両親は内灘闘争で知り合ったサヨクの残党だったので、幼い私は、その新聞の言説が左翼的な偏見に満ちたものであるとは予想だにしなかった。そのような時代こそ、まさに危うかった時代であり、幸いなことに、現在は、その危うさから逃れられている。

*

たとえば、新聞には、詐欺まがいのビジネスをしている広告が大きく掲載されている。
たとえば、自費出版系の出版社の悪性がネットでは話題になっているが、その出版社は新聞には大きな広告を載せ、悪行を続けている。出版社の名前をグーグルで検索すれば、当然のことながら、さまざまな事案を通じて、被害者の声に接することができる。

新作の映画だと思えば新新宗教の布教映画だったり、ヒット本だと思ったら教祖の説教本を信者が大量に購入しているに過ぎない。そんなことが紙上にまかり通っている。

記事で何かが批判されていると思ったら、新聞社・記者の私怨に基づく批判だったり…。

*

テレビも同様である。

かつて、芸能人を自殺させる原因にもなった中小企業向けの金融会社が報道番組にCMを出していて、問題になったことがある。
最近でも、解約に問題があることが司法で判断された英会話教室は、一切の弁明もなく、CMを連発している…。

*

読者たちは、そのようにあからさまな裏事情を知りつつも、新聞やメディアを楽しんでいる。

ウサギのCMを楽しみながらも、別の英会話学校に通うだけのこと。
私も、ペプシのコマーシャルで沢尻嬢を愛でながら、コカコーラを飲む…。

それが現実である。

メディアはメディアとして楽しまれている。不満を表明する鑑賞者たちも、イジって遊んでいるに過ぎず、それは必ずしも悪いことではない。

東京スポーツのように開き直る必要もない。とはいえ、真実を伝えるなどと言われては、世の中の空気を読んでいないなどと思ってしまう。

受け手たちが、裏事情を知りつつ、メディアを楽しんでいるということは、メディアが真実性を決定しているのではない。

つまり、新聞が発行されることは、とりあえず真実性が新聞社によって確認されることでしかなく、それが最終的な真実性を保証しない。

*

オーソライズするのは、新聞社ではなく、読者・情報の受け手なのだ。



Paper_Net_01.gif



さて、ガ島通信さんによると、神奈川新聞が、メディアジャムというのを始めたという。

「優良なサイトを自動巡回してニュースをタグで分類するサービス」で、ニュースには一言コメントを書き込むこともできます。新聞社系の会社が運営するものとしては、初のニュースアグリゲーターサービスかもしれません。(ガ島氏評)

ガ島さんの分析によると…。

気になるのは既存の新聞社サイトの記事をインデクシングすること。自動巡回と言う意味では、Googleニュースと同じですが、自社コンテンツのようにコメントが書き込めるようになっているところに、インデクシングされる側がどう反応するのか…


ガ島さん、情報ありがとうございます。

…そうなんです。

いままでは、読者が自分の中で、新聞記事の真偽を図っていたに過ぎない。だから、それが発信・流通するにしても、口コミに過ぎなかった。

いま、それがネット上で流通することになる。

そのメディアを、よりにもよって同業者・競業社が作成する。

これこそが画期的なことであり、業界再編を大きく進めることを予感させる。



私は、湯川さんがIT潮流でビデオ番組を始めることについて、その先見性を次のように指摘している。

早くも永遠のベータ版宣言。

そして、不特定多数に対する、プレリリース版の存在の告知。

これこそが、次世代のメディアの形だと思っています。

あとは、別場所による、重要度の勘案サイト(リモート・タグ)でしょうか…。

もちろん、重要度勘案には、「複数のアルゴリズムの並存」を期待しています。


今回の神奈川新聞のメディアジャムの凄いところは、競合他社の記事の重要度をランク付けすること。

つまり、同じ業界社が、リモートタグをつくったこと。

たとえ話をすれば、その画期的なことが分かる。

ナベプロが、ジャニーズ事務所のタレントの魅力ランキング表をつくること。

森永製菓が、グリコのお菓子の人気ランキング表をつくること。

それらは、神奈川新聞が、朝日新聞や読売新聞の記事の魅力・重要度のランキング表をつくることと等価である。


そして、記事にはコメントが書き込める。

コメントによっては、ナベプロがつくったサイトの上で、ジャニーズ事務所のタレントが批判されることは必至だし、森永製菓がつくった掲示板で、グリコのお菓子が批判される可能性もある。

ならば、神奈川新聞がつくったメディアで、朝日新聞批判や読売新聞批判が起きて当然である。




神奈川新聞は、「メディア・ジャムというソシアルブックマーク」をつくっているに過ぎぬと思っているのかもしれぬ。

だが、それは明らかにリモート・タグであり、ソースにも影響を与える。

リモートタグによって何が起きるかといえば、同業他社である通信社や新聞社がオーソライズした情報に対して、同業者が再度のオーソライズの機会を設けることになる。

それは、期せずして、新聞が発信する情報のベータ版化を意味する。


*

さすがにnewsingのように、ニュースに○×をつけるようなことはないが、神奈川新聞が、diggや、newsingを参考にしたことは、想像に難くない。

ネットが新聞に突きつけていることは、

1. 永遠のベータ版

2. 対話

3. ログを残すこと

であると、指摘してきた。


*

だが、ネットが新聞に突きつけるのではなく、新聞業界の中で、それが突きつけられている。

ガ島氏が懸念されているように、神奈川新聞の快挙に、他社が対応しないはずはない。

ならば、絶望とも思えてきた新聞が突きつけられている3点への対応も、予想外に早くなされるのではないかと考えている。

本来は新聞社が単独で有するべき「多様なアルゴリズムの並存」であるが、新聞業界全体で、「多様なアルゴリズムの並存」を確保することもできる。

ならば、「単一のアルゴリズムさえ持たぬ」ネット者たちに勝ち目はない。

否、新聞業界が多様なアルゴリズムをつくるならば、ネット者が自主運営でアルゴリズムをつくる必要はないし、それが自然な成り行きという気もする…。


07sponta


Last updated  2007年05月18日 07時35分28秒

2007年05月17日

アルゴリズムの時代10:新聞天国。
[ アルゴリズムの時代 ]    

日本新聞新聞労働組合連合会のシンポジウムが近づいている…。
主論は、アルゴリズムではあるが、新聞について考察している。



ご存知のように私は、作画ソフトを使いながら、考察を重ねている。

前回は、既存メディアとインターネットという図を描いた。

【既存メディアとインターネットの概念図】

Paper_Net_01.gif


描いたものを、時を置いて見ていると、2点の欠点が気になる。
それは、

1.メディアとオープン社会のサイズが、1:99であることが表現されていない。

2.メディアはピラミッド型のコミュニティーであり、オープン社会はアメーバ状である。


あの図の主旨は、メディアが単一のアルゴリズムで成立していて、オープン社会は複数のアルゴリズムで成立していることを表現しているに過ぎない。

今後、改訂を加えることにする。



さて、インターネット登場以前の新聞について、作図してみた。

【伝統的メディアと大衆の概念図】


Paper_Crowd_01.gif


作図の主旨は次…。

1. オープン社会は、個の発信はおろか、意志決定・代表選択のためのシステムを持たない。

2. 上記を補完するために、メディアは、オープン社会の意志決定したり、代表選択の機能を果す。


2007年、市井の個でもブログがあれば、意見を発信することができる。

ならば、オープン社会の意思決定・代表選出を代行してきた既存メディアが、いままでどおりの所作を行なうことに合理性はない。

そして、市井の個の発言がインターネットで把握するようになると、いままで既存メディアが提出してきたオープン社会の意志や代表選択が、必ずしも、オープン社会の意志・代表を反映していないことが明らかになってきた。



たとえば、公立学校卒業式の国旗・国歌報道は、その典型的な例といえるのではないだろうか。

オリンピックやサッカーワールドカップで、スタンドにはためく日章旗は圧倒的である。また、試合開始時に起立し、君が代を斉唱することは、日本国籍を持っているならば、当然の行為である。

仄聞するに、記者席に思想信条的な理由で、起立しない人がいるという。だが、その数はスタジアムを埋め尽くす人数と比べるべくもないだろう。
もし、日本国籍を持っていない人でも、他国の国歌に礼儀を示すことは国際社会にあって、当然行なわなければならないことに違いない。

そのような、国民的総意の明確な状況があるにも関わらず、NHK「クローズアップ現代」をはじめとして、テレビ報道の国旗を軍国主義と過度に結びつける言論は、どう考えても民意を反映したものであるとは思えない。

私は、そうした現象の裏に、既存メディアがかつて、左翼言論によって成立していた時代の尾てい骨を見る。




かつて、言論は、体制(保守)に対抗するために成立してきたという歴史がある。

専制主義を引きずっていた時代、議会制民主主義も専制のイメージの延長線上で形成されていたに違いない。

ならば、代議制民主主義は名ばかりのものになり、代議員や官僚たちは、自分達が新しい王様のように振舞う。

とはいえ、群雄割拠の時代のように武力で戦うことはできぬから、言論で、新しい時代の王様たちの専横を妨げるべく活動をしたに違いない。

きっと、専制を引きづった民主主義の時代には、ジャーナリズムとは野党的であることが極めて当然のことだったろう。



時事通信社の湯川氏は、「ブログがジャーナリズムを変える」(NTT出版)の中で、私のコメントを引用してくれた。

それは、「野党的ジャーナリズムから、与党的ジャーナリズム」というものである。


専制時代を引きずっていた民主主義の時代では、ジャーナリズムが野党的になるのは、極めて健全なことだろう。

だが、民主主義が新しい時代を迎えている今、いたずらに野党的言論に拘っていることに合理性はない。

否、野党的がリベラリズムと訳されるならまだしも、野党的が左翼的との意味ならば、批判されてしかるべきである。

ベルリンの壁が崩壊し、北朝鮮の拉致が発覚した今、それらの言論を既存メディアで擁護してきた過去を一切の反省しない人たちが、果たして誠実なる人たちなのか…。私は極めて疑問である。



インターネットで何が変わったかといえば、個が発信できるようになったことである。

だが、まだまだ不備があり、その不備を解決していくことこそ、インターネットの新たなる課題である。

その課題こそが、「多様なアルゴリズムの並存」によって、個が発信した情報を、インターネットの膨大な情報量の中に埋没させぬことを実現できる。


私は、インターネットの膨大な情報量の中に埋没している存在なので、その立場でできることをやっている。

だが、そのような不備をまったく勘案しないで、若者たちに、インターネットにいらっしゃいと煽る人たちがいる。

インターネットで発信したにも関わらず、無視され疎外感を感じた人たちがどのような行動に走るか…。

そのことを考えて欲しい。

*

もし、佐賀のバスジャック犯の反応予告に誰かが反応し、諭しかけることができていたら…。

そして、長崎の小6の少女の異常さにネット上な誰かが気づき、対話することで、少女の思いを受け止めていたら…。

たしかにインターネットで対話ができたとしても、犯罪そのものを制止することはできなかったかもしれない。

だが、もしそのようなことが出来ていたら、殺人事件が傷害事件、未遂事件になっていたと思えてならない。

そして、悲しいかな、事件が起きてしまったとしても、犯罪者を怨み、社会の呪うのではなく、心を痛めた・心を病んだ人たちに対して何も出来なかった自分たちを深く反省する。

そのような社会ができあがるのではないか。

おきてしまったことを批判するのではなく、社会全体が自分たちの出来事として深く反省する。その道筋からしか、悲劇的な事件を再発を防ぐことはできない…。

*

インターネットは、すべての個に傍観者であることを許さなくなったのである。



インターネットは、孤独を癒すメディアであるが、孤独を煽るメディアでもある。

対話が成立しない悲しみをこのサイトで実感して欲しい。

孤独な者たちは、対話を拒絶されて、どこへ行くのだろうか。

対話をせぬものよりも、対話を拒絶されたものたちの感情は深い…。




進化論は現在と過去を考察できねば有効なものはできぬ。フューチャーは、今起きている問題を棚上げにすることではない…。

私は苦々しく思っている。

07sponta

Last updated  2007年05月17日 14時14分23秒

2007年05月16日

アルゴリズムの時代09:新聞vsネット
[ アルゴリズムの時代 ]    



5/25の日本新聞労働組合連合会のイベントにパネラーとして参加することになっている。

そのサイトから、「スポンタつーのは、誰やねん」とやってくる人のことも考えつつ、書き進めることにする。



安心して欲しい、歌川先生には失礼になるかもしれぬが、「新聞のなるなる日」はこないと思う。

「ネットは新聞を殺すのか」といえば、湯川氏に失礼になるかもしれぬが、消費者たちは、新聞を抹殺・根絶やしにはしない。何故なら、新聞がまったく世の中から存在しない不都合を感じるから…。

勿論、それが、いまの新聞社の組織や新聞人の給料を保証するわけではないが…。






さて、ネットがリアルに太刀打ちできないのは、当然のことである。

リアルなパワーは、当事者(ステークホルダー)のパワーである。

当事者とは、生産者であり、NIMBYでない人・直接被害者である。

だが、日本のコミュニティーにおいて、殆どの事象における、当事者の割合は、99:1以下だろう…。

たとえば、日本の人口が一億三千万人。その1/10が新聞の消費者として1300万人。その1/100はといえば13万人。新聞従事者の数は把握していないが、無理のない数字かもしれぬ…。

どちらにしても、数的に圧倒的に劣る生産者が消費者に勝てるはずはない。

では何故、いままで、生産者が消費者に勝ててきたか。

その理由は、次の三種である。



1. インフラ格差

2. 情報格差

3. スキル格差


1.に関して…。

たとえば、板ガラス業界。
寡占状態になっているのは、あまりにガラス工場の建設に関わる費用が高いからである。

*

2.に関して…。

たとえば、けちなラーメン屋のオヤジは、スープの出汁の中身を教えない。
何故なら、駄目なラーメン屋のオヤジは、レシピ以上のスキルを持たないからだ。レシピで伝わるようなスキルが料理人のスキルでないのに…。

*

3.に関して…。

アマチュアとプロでどちらがスキルがあるかといえば、それは何ともいえない。
アマチュアよりもスキルが劣るプロもいるし、プロよりもスキルが高いアマチュアもいる。
私は映像のプロだが、予算の範囲以上の仕事をしないことをモットーにしている。だから、アマチュアの作品よりも、手数が少ない。それをして、私の作品が手抜きであると断ずることもできる…。



さて、表題の「新聞vsネット」である。

新聞をおおまかに捉えて報道機関・情報産業としても、答えは同じだ。

要約すると、次のよう…。


1. インターネットの登場により、情報生産者は、消費者に対してインフラ格差を誇ることはできぬ。

2. インターネットの登場により、情報生産者は、消費者に対して情報格差を誇ることはできぬ。

3. インターネットの登場により消費者発信が可能になったので、個別の消費者のスキルの低さは、そのひとつひとつのスキルを繋ぎ合わせた集団としてのスキルとして、生産者のスキルを上回る。



1.に関して…。

インターネットでは、ほとんど費用ゼロで情報発信できることは言うまでもない。

*

2.に関して…。

新聞社は独自のネットワークで豊富な情報を得ている。一方の消費者の持っている情報は社会全体が持っている情報と等価である。
その情報がインターネットによって、ネットワークでつながれるのだから、新聞社は太刀打ちはできぬ。

その上、新聞社には、社会的影響力を勘案しなければならないため、未確認情報を発信することはできぬ。また、公官庁からの縛りもある。
ならば、情報ディーリングの自由度について、消費者に劣るのは当然のことだ。

*

3.に関して…。

新聞人は専門教育を受けて、文章修行をする。モラルにおいて、知識において、技術において、そのスキルは消費者の追随を許すものではない。
と、百歩譲って考えたとしても、それは個としての場合だけである。


世の中には、消費者を「衆愚」と捉えて、自らの優越性を保とうとする人たちがいる。

だが、果たして、世の中には、「衆愚」しか存在しないのだろうか…。

*

何故、日本軍が負けたのか。何故、外務省は伏魔殿と化したのか。何故、霞ヶ関が自己矛盾を解消できずにいるのか。

戦前の日本軍の首脳は、日本の大エリート集団である。
戦後の日本の官僚機構も、日本一のエリート集団である。

それらが一応に、巷間の愚者(消費者)に見えている問題たちを解決できていない状況は、公愚・エリート愚とでもいうものではないのだろうか。




結論をいえば、公愚・エリート愚とでもいうものを発生している原因は、単一のアルゴリズムでしか、意思決定・代表決定ができぬ組織構造で営まれているからである。


アルゴ_02.gif



たしかに、1:99のパワー差はある。

だが、それは言っても仕方のないことだし、世の中のすべての人が新聞人になる時間的余裕などないのだから、言うべきではないだろう。

ということで、新聞vsネットという図を作成した。

図は諸要素を書き込んだつもりであるが、総覧的になってしまった。

Paper_Net_01.gif

この図に示されていることで重要なことは、新聞は、一つの事件をさまざまな視点から一つの記事(言論)に仕立てる。

しかし、ネット言論は、一つの事件からさまざまな言論を生むということ。

つまり、新聞はツリー状。
ネットは逆ツリー状。

ひとつの言論しか提出できぬ言論機関。
そして、複数の結論を提出するネット。

制止した言論を提出する言論機関。
たえず動いている言論を提出するネット。


その差は大きいのである。

07sponta

Last updated  2007年05月16日 06時30分36秒

2007年05月15日

アルゴリズムの時代08:「紙かディスプレイか」が、問題ではない。
[ アルゴリズムの時代 ]    


インターネットの登場によって、既存の言論空間も変化を余儀なくされていることは、いうまでもないだろう。

2007年に起きていることは、既存メディアがネット情報を引用するところまでである。

それは、自己都合によって、既存メディアがネット情報を引用することが許される時代ともいえる。

…だが、それは過渡的な現象に過ぎない。

*

ひと頃は、YouTubeがテレビの著作権の侵害が取りざたされたが、時事通信の湯川氏などは、「再放送しない地上波は、ユーザー・ニーズにこたえていない」と指摘している。
著作権侵害を指摘されているが、視聴者ニーズを補完する役目をしてもいる。

すでに、ネットでは、既存メディアが自分達に不都合なものを引用しないことに対する批判が起きている。

次第に、ネットと既存メディアの立場は逆転し、自己都合の言論を連発する既存メディアたちを誰も信用しなくなる。
テレビはテレビとして、今後も成立しつづけるだろうが、視聴者がそれを信じて行動することはなくなるに違いない。



これからも、既存メディアとインターネット言論の戦いは続くのだろう。

だが、既存メディアに勝ち目はまったくない。と言って、私は憚らない。

*

ことの本丸は、「紙かディスプレイか」という問題ではない。

もっとも重要な視点は、「閉ざされたコミュニティー(既存メディア)には、オーソライズを寡占する権利はない」。


…である。



事ほど作用に、既存メディアたちは、インターネット言論に太刀打ちできぬ。

何故、そうなるかといえば、根本的に2つの問題がある。

もし、その問題を既存メディアが克服できるならば、既存メディアは、今後も存続できる。
たとえネット上の言論であっても、その問題を克服できなければ、存続は危うい。

その意味でも、ことは、「紙かディスプレイか」という問題ではない。

*

2つの視点とは次である。


1. コミュニティー内の言論は、外界を語ることはできぬ。

2. コミュニティー内の意志・代表決定システム(アルゴリズム)が単独であれば、それは、多様なアルゴリズムが並存する外界の言論によって淘汰される。





新聞社は、ひとつのコミュニティーでしかなく、それ以上でも、それ以下でもない。

そのようなものが、コミュニティーの外にあるはずの世論を語ったり、コミュニティー内の規範でしかない正義を語ることに合理性はない。
そのような構造を省みず、新聞社が言論を公開すれば、批判・反論が起こるのは必至である。

*

新聞社の言論提出システム(アルゴリズム)は、ヒエラルキー型、もしくは、ツリー型である。
そして、その構成員たちは固定的であり、固有の思想に執着している。

ならば、そのようなシステムによって提出されたものは、ひとつの言論ではあるものの、それが多様な外界の風にさらされれば、特定のバイアスのかかった言論であることを提示する。
ときとして、合理性をもたぬと批判されることも珍しいことではないだろう。

*

いままで、既存メディアはオーソライズを独善的に行なっていた。

だが、インターネットの時代の情報は、ディファクトスタンダードよろしく、さまざまなネット者の関与を経て、時間をかけ、オーソライズがなされる。

ネットの場合、オーソライズされた言論といえども、それが単一の結論である場合は少ない。
2項対立のまま、オーソライズされることもあるだろう。

それらは、ディファクト・オーソライズといっていいものであり、誰かがオーソライズしたものは、必ずネット上のオーソライズという再度の試練を受けることになるのだ。


07sponta


Last updated  2007年05月15日 09時31分50秒

2007年05月14日

アルゴリズムの時代07:インターネットは民主主義の現状を告発する。
[ アルゴリズムの時代 ]    


トーマス・フリードマンは「フラット化する世界」という書物をなした。

私は、それがアメリカニズムの上に載った言論に過ぎぬと指摘している

だが、アメリカ的な考えはともかくとして、さまざまな問題を孕みつつも、日本が民主主義な制度の上で、存在していて、フラットな社会だと考えている人が多いのかもしれぬ。

確かに、フランスのように新大統領が当選後、自家用ジェットで地中海クルーズにバカンスで出かけるような国とは違う。
だが、日本の諸制度がフラットであると考えるのは浅薄である。

言語を司ることのできぬ乳児に参政権を与えることはできぬのは合理である。だから、どの年齢から参政権を与えるかについて、議論が起こるのは仕方のないこと。人間は教育によって、社会的責任を果すようななるのだとするならば、教育を終えた人間に選挙権を限定して与えるのは当然のことだろう。

だが、それだけではないことに気づかねばならぬ…。



インターネットならば、365日24時間、誰でも参加できる議論が可能だし、いつでも採決ができる。

このような素晴らしいシステムを何故、既存の民主主義の機関たちが使わないか、その理由を考えた人がいるだろうか。

すこし考えれば、答えは明らかである。

既存の合議システム・選挙システムは、民意を抽出するシステムとして、多くの欠点を持っている。

そのことをインターネットは、明らかにしてしまうのだ。




たとえば選挙である。

原稿の選挙制度は、「誰でも立候補できる」制度などと考えてはいけない。

選挙には、供託金制度があり、金銭的な余裕がない人は、選挙に立候補することはできない。

その反証として、選挙民が望まぬのに、夕張市の市長選には私財200億円の羽柴秀吉が立候補するし、東京都知事選にはドクター中松が立候補する。

そして、得票数が第一位になれば、首長になれるのかといえばそうでもない。九州の寒村は、オウム真理教の教祖が首長になることを阻止するため、住民票の受け入れを阻止した。


このようなことを想起すれば、選挙は平等の精神を理想とするが、それは、ひとつの方法に過ぎず、それが平等に近いものであるにしても、それが理想を実現しているのではない…。



制度は民意を追っており、民意が変われば、如何なる制度も是認されぬ。それが日本である。

*

日本のような異質性の低いコミュニティーでは、その共同幻想は高いが、アメリカではそうではない。

J.F.Kennedyが最初の選挙のとき、財界を牛耳っていた彼の父親は、対立候補と同姓同名の人間を立候補させ、相手候補に打撃を与えたという。
もし、同じことを日本でしたなら、そのような悪巧みをする人間に投票はできぬ。との批判が沸き起こり落選は必至だろう。だが、アメリカでは違う。

アメリカは、異質性が高いから、平等の概念よりも、機会均等を尊ぶ。
どんな奇手を使おうとも勝利者は勝利者である。敗者が、モラルをして勝者を批判しようと、それは負け犬の遠吠えに過ぎない。

日本にいる私には、ハリウッド映画のアカデミー賞の裏側などを知る由もないが、その世界が、かつて批判された日本のレコード大賞の裏側以上に、エスカレートされたものであることは想像に難くない。



そういえば、昨年、YouTubeでは、Lonely girl 15という投稿が話題になった。
話題になったのは、自らの心理状態をビデオでネットに披露することだった。キュートな彼女の容姿もあり、YouTubeのアクセス数は激増した。

だが、1カ月を待たずして、そのすべてが、「やらせ」であることが分かった。
リアルで女学生を知る人物からの投稿があり、話題が話題を呼び、アクセス数も増えた。そして、テレビ番組で、当該女学生が「やらせ」の事実を告白するに至った。

投稿をしくんだのは、制作集団であり、そのチームに女優として雇われた女学生が演じていたのである。

…だが、Youtubeでは嘘をついてはいけない。などというルールがあるわけではない。


数日前のサンケイエクスプレスによれば、YouTubeは、アクセス数に貢献した投稿者に対価を支払うことを表明した。という。

アクセス数に寄与することは、YouTubeの広告収入増収に貢献することである。

その報酬支払リストにLonely Girl 15があるという。

日本であれば、「あるある…」事件のように批判が集まったに違いない。まるでドキュメントであるかのように、ドラマを見せられたのだから、視聴者からの反発は必至である。

だが、アメリカ手は、そのようなモラル違反も、アクセス数の激増という事実の前では、捨象される。

*

同様に、莫大な資金をつかって活動を続けるアメリカの大統領選挙を、ボピュリズムだと批判するアメリカ人がいるだろうか…。



同じ民主主義でも、日本とアメリカでは、その現実はあまりに違うのである。

そして、私が指摘したいのは、アメリカ人のように「民主主義がひとつの形式でしかない」と、冷めている人たちよりも、民主主義を信じている日本人のほうが危うく、そして、不幸なのである。



日本の民主主義では、「誰でも立候補できる」というのは幻想である。
現実的には、選挙費用や、落選したときの供託金がなければ、立候補はできない。

日本の選挙では、選挙カーによる名前の連呼という、候補者の言論と乖離したボピュリズムが批判されることはない。

そして、選挙で当選し議員になったとしても、自由に言論できるのでもない。
確固たる信念と言論があったとしても、それが敵視されれば、女性関係や経済行為、身内の不始末など、言論と無関係なことを糾弾され、言論発信の機会を奪われる。

それが社会の民主主義の現実であり、インターネットでの365日24時間会議・永遠に続く採決とは、大いに異なる。

*

インターネットがなければ、既存の民主主義のシステムの不都合は、民主主義本来の持つ欠点として、けっして糾弾されない。

だが、インターネットがあれば、それは、just既存システムの不備であって、民主主義そのものの欠点ではないことが露呈する。



そのことを既存のエスタブリッシュメントたちは勘付いているから、インターネットを自らから遠ざけようとする…。



「世の中がフラット化する」などと嘯くのは、世の中を見ることを辞めた人のセリフである。

インターネットの登場で見えてくるのは、フラット化ではなく多様化(ダイバージョン)なのだ。

ブラウン管が白く映っていても、それは、光の三原色・赤緑青が合わさったものに過ぎぬ。
フラットなどという幻想に騙されてはならぬ。画像をフラットにしている原因は、対象との距離に他ならぬ。
対象との距離をつめれば、白くはない。

最近、英語ブログを作った。

英語圏で生活したことのない日本人がつくった低レベルな英語だが、英語にしてみると、考えが整理されてくることもある…。
私の長い日本語に嫌気がさしている人は、覗いてくれると嬉しい。

そこに、"Flat lead us equality"と書いてみた。

もちろん、それは幻想であるとして…。である。


07sponta

Last updated  2007年05月14日 11時32分35秒

2007年05月13日

アルゴリズムの時代06:発想の原点。
[ アルゴリズムの時代 ]    



アルゴリズムとは、コミュニティーの意思決定・代表決定の形式である。

意思決定されたものを提出すること。代表を選出したものを発表することがオーソライズである。
オーソライズされた意志・代表が、出自のコミュニティーを飛び出して流通することになる。




一年ほどの間、私は、インターネットにインテグレート(統合)システムがない。と指摘してきた。

インテグレートシステムがないから、ネット上に提出された個の発言は孤立する。

個の発言が一般化すればするほど、発言総数は増える。
一切のインテグレートシステムが存在せず、インターネットがフラットのままならば、発言総数は、分母となり、個が発言すればするほど、それぞれの存在価値は低くなる。

結果、既存メディアの発言者たち(エスタブリッシュメント)の発言は温存される…。

*

インテグレートシステムは、ツリー状をイメージしていた。

だが、ツリー状の三角形が、アメーバ状の多様な言論空間をすくい取ることができないという直感があった…。



そこで、ヒントをくれたのが、グーグルである。

グーグルは、アルゴリズムによって検索結果を出すという。

SEO(検索エンジン最適化)という産業があるというが、それは、グーグルがアルゴリズムを公開していないため、そのアルゴリズムに最適なサイトの作り方を指南するものだという。

SEOというテクニックが存在することは、グーグルのアルゴリズムが恣意的であることの証明でもある。

一方で、グーグルは、「グーグル八分」をしたことで批判されている。
公正さを元にアルゴリズムを公開しないグーグルが、恣意的・自己都合な意図でアルゴリズムを作成している。

*

「グーグルは神である」と評する言論人もいる。

だが、グーグルは固有のアルゴリズムを行使しているに過ぎぬ。ならば、緒尊の中の一つではあるかもしれぬが、それが一神教的な神ではない。

ならば、アルゴリズムという恣意的な意志・代表決定システムを並存させることにより、固有なアルゴリズムのバイアスを無力化しなけれならない。

それにより、多神教的な言論空間が生まれてくる。



グーグルのような自らのアルゴリズムを秘匿するシステムは論外である。

アルゴリズムを公開し、それを多数存在し、それらを互いにリファレンスすることによって、あるべき言論空間が成立する。




インターネットの時代、情報伝達に関わる経費はゼロに限りなく近づいている。

ならば、他者を騙ることは、横着者の所作であり、一切の合理性を持たない。

発言者は自説を語ることしか許されない。

発信された個人の言論が流通するとき、感想者たちの感想や重要度勘案のタグがつくのが、インターネットの時代のスタンダードである。



そのようなインターネット時代の情報流通を考えたとき、既存メディアが変革していかなければならぬ必然があることも感じていただけるだろう。



07sponta


Last updated  2007年05月13日 13時27分37秒

2007年05月11日

アルゴリズムの時代05:アルゴリズムの概略
[ アルゴリズムの時代 ]    

アルゴリズムがプログラムに関わる難解な概念であり、素人には理解できるものではない。とのご指摘をいただいている。

たしかに、狭義のアルゴリズムはそのようなものかもしれぬが、私はあえて、「コミュニティーの意思決定・代表決定のやりかた」とシンプルに捉えたい。

そして、その意思決定・代表決定のやり方によって、意志や代表が変わってくる。
その恣意性を認識しつつ、提出された意志や代表を勘案すべきであるというのが、本論の主旨。

その恣意性を認識するには、「多様なアルゴリズムを並存」させなければならぬ。


というのが、今後のインターネットにおける重要な視点である。



さて、「多様なアルゴリズムの並存」を、私が独自に導いたと思っている方がいるとするならば、それは買いかぶりである。

私は、20年ほど前に、「多様なアルゴリズムの並存」に出会っている。

それは、他でもない、当時画期的であったヤマハのシンセサイザーDX7である。

当時のプロフェッショナルなシーンでのシンセサイザーは、イミュレーター、プロフェット5、カーツウィルなどが主流であり、いずれも、数百万という高価なものだった。

そこに20数万円という画期的な価格で登場し、プロフェッショナルも利用したのが、ヤマハのDX7である。


キボド01.gif




このキーボードの上面には、アルゴリズムの表が書かれていた。
このキーボードの音源はFM音源(周波数変調)といい、オペレータという発信・変調する回路を組み合わせることによって、音色を変えるという。



キボド02.gif




DX7では、32種類のアルゴリズムを並存させ、多彩な音色を誇っていた。
特に、金属を叩くような打撃形の音色はきらびやかで、PCM音源が主流になった今も、音源として使われている。



当時の私は、DX7のパンフレットを睨みながら、アルゴリズムについて理解しようとうなっていた。
楽器店に行って、触って音色を確かめても見た。
「欲しい」。買うと願った楽器だったが、極端な品薄で、予約しても、数ヶ月待ちという状況。せっかちな私はコルグの別のキーボードを買ってしまい、結果、DX7には縁が無かった…。
とはいえ、私の脳裏には、アルゴリズムという概念が理解できぬ難解なものとして、印象に残ったのである。



考えてみれば、コミュニティーがコミュニティーとして存在するのは、内と外があるからであり、コミュニティーがその求心力を求めるならば、何らかの「意思表示」や「代表」を選出・抽出しなければならない。

しかし、コミュニティーが、そのために有効なコミュニケーションツールを持っているとは限らない。


コミュニケーションツールの種別をアルゴリズムと私は呼んでいるが、その代表的なものは、次の3つだと考えられる。


アルゴ_02.gif

フラット、ツリー、ヒエラルキルの3種に大別されるアルゴリズムだが、それぞれに一長一短があり、どれか一つをとって理想とすることは妥当ではない。

最近では、「フラット化する世界」と論ずるアメリカ人ジャーナリストもいるので、フラットが理想であるかの幻想をもたれる人もいるかもしれぬが、フラットなコミュケーションの欠点は多い。

つまり、フラットなコミュニケーションでは、クレーマーを制止できぬし、ボピュリズムに陥りやすい。また、フラットであることにより、個の相対価値は低下し、コミュニケーションそのものが促進されない場合が多い。

アルゴ_3フラット.gif

よく教室で先生が、「みんなで話し合ってください」と言っても、誰も話し合わないが、「隣の人と話し合ってみてください」と問いかけると、みんなが話し始める。そんな状況を想起すれば、フラットなコミュニケーションの弊害を理解していただけるだろうか…。



アルゴ_01.gif

ここでは、アルゴリズムを概観してみた。

閲覧者のみなさんの理解が深まれば、幸いである。

07sponta



Last updated  2007年05月11日 21時23分00秒

アルゴリズムの時代04:メディアの存続と表現の自由の相克
[ アルゴリズムの時代 ]    

日本新聞労働組合連合会のイベントが近づいている。
そのサイトから、私のブログに来る人も少なからず存在するはずだ。
その方々にとって、アルゴリズムという言葉に興味を感じないのかもしれぬ。だが、アルゴリズムという概念が、これからのコミュニティーでのコミュニケーションを語るについて、外すことのできない概念であることを確信している…。



東京財団の「それから」研究会は、日本の新聞の未来を探るものだった。
私は、「メディアがある限り言論統制・言論弾圧から免れない」という言論を提出し、2ちゃんねるが存亡の危機を迎えていることを危惧するとともに、既存メディアも同様の危険を孕んでいると指摘した。

私のネット上の知人であるマスコミ者は、自分達に都合の悪いことがあると、同僚たちは、「言論の自由」を持ち出すと嘆いていた。
巷間、メディアが喧伝する「言論の自由」に反する事例の多くが、メディア人たちのルサンチマン(怨念)の現出ではないか。と、私は感じている。
その理由は、メディア人たちが、自らのステークホルダー(自己の利益を守る・損害を避ける)のために、軽々と「言論の自由」の理想の旗を降ろしているからである。

そのことを、インターネットは如実に現してしまう…。



la causetteさんのブログに、「diggにおける反乱」というエントリーがアップされた。

Diggとは、英語圏ではユーザーの多いソーシャルニュースサイトである。
その体裁は、私が理想としている市民参加型ジャーナリズムの形に近い。

まずトップページがあり、次に、個別の記事に飛ぶ。個別の記事は、diggのサイトであり、そこではコメントによるコミュニケーションが図られる。

記事は、外部のサイトとリンクしている。外部サイトでは、diggとアイコンがあり、ニュースサイトとのリンクを明示している。
これは、ブログにおけるトラックバックなどが果してしまう、情報の上流・下流をイメージさせない。とても、フラットなリンク関係を明確に示している。

上流は、沢山の人たちに閲覧されるが、要約されているが薄い内容。下流は、少数の人にしか閲覧されぬが、豊富な情報。二つのエレメントが対称的なパラメーターを成しているため、上流と下流はフラットである。


この精神が、日本のインターネット市民記者メディアには欠落している。

*

仔細は、la causetteさんのエントリーに行っていただければ分かるのだが、私が要約すると次のよう…。

diggに、HD-DVDのコピープロテクトを打ち破る暗号キーの情報が掲載された。
この暗号と何らかのプログラムを使えば、コピイプロテクトがかかった市販HD-DVDソフトをコピイすることができるのだろう。

当然のことながら、HD-DVDの業界から情報の削除依頼が来る。そして、diggの運営者・管理者も即刻削除する。だが、一度、掲載されてしまった暗号キーは、多くのユーザーたちにすでに保管されている。
コピイプロテクトは、著作権者にとっては必要不可欠なものだが、ユーザーにとっては窮屈なものである。
それは、コピイ&ペイストが専らなインターネットの現実とは遊離しており、インターネットの理想とは相容れない。
著作権者の存亡を危うくする大量コピイや大量流通は許されないが、ソニーの盛田氏がカリフォルニアの法廷で戦って勝利したような、「私的な利用においては認められるべき権利」ではないか…。

そのようなユーザーの思いは、diggの運営・管理者が何度も暗号キーを削除しようとも、再度、暗号キーをdigg上にアップするという行為になって、現れた。

diggの管理・運営者は、サービスの停止をするか、巨額の賠償金を負うという2者択一を迫られている。
だが、ユーザーたちは、そのよなコミュニティー存亡の危機とは無縁である。
ユーザーにとって、ニュースサイトは無数にあるし、diggが無くなれば、代替物を探せばいいだけの話である。


この状況こそが、「表現の自由」の名のもとに、メディアが崩壊する事例である。

そして、そのことは、既存のメディアたちがなぜ、存続できてきたかを暗示する。
そもそも、既存のメディアは、「表現の自由」とは無縁なのである。



そのように、メディアが存在することが、著しく「表現の自由」「言論の自由」と乖離さぜるを得ないと悟ったとき、メディア者たちの存在を唯一肯定できるものは何かといえば、それは、ユーザーにとって納得できる「表現の自由」の制限であり、「言論の自由」の制限である。

奇しくも、運営者は、「いままでも、ポルノや暴力・憎悪に関する言論については言論を制限してきた」と明かしている。
それは、そのような制限を肯定してきたユーザーが、こと「表現・言論の自由」に対して、拘泥する論理矛盾の指摘かもしれぬ。



根本的な原因は、diggというサイトが、フラットなアルゴリズムによってユーザーを扱っていることにある。

これにより、ユーザーコミュニティーは集団的合意が成立せず、個の意見が孤立したまま、漂ってしまう。

結果、どんなに管理・運営側が禁忌情報を削除しようとも、匿名の個たちが情報をアップするということが続いてしまうのである。


あるべきは、集団的合意をもとに管理・運営をなすことである。

その合意がないから、メディアは終末を強いられる。

*

ならば、フラットなユーザーコミュニティーのアルゴリズムを変革しなければならない。

ツリー状。または、ヒエラルキルなアルゴリズムの並存によって、ユーザーの集団的合意を形成させなければ、diggは消滅してしまうに違いない。

*

diggのビジネスモデルは、現時点で考えうる理想のニュースサイトの形態である。

だが、それが問題を孕んでいることが、今回明らかになった。

これは、単にニュースサイトの問題ではなく、CGM全般についての問題であることは言うまでもないだろう。

07sponta




Last updated  2007年05月11日 10時38分12秒


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