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Mar 1, 2007
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カテゴリ:小説 上杉景勝
  こうした会話が交わされ、直江山城守兼続は九月から念願の定納員目録の

作成をはじめた。景勝主従は、此の年から内政の充実を最優先として力を注ぐ

ことになった。

  明けて翌年の一月十七日、上杉景勝は越後、佐渡両地の金山支配を秀吉

から命じられた。その朱印状には直江山城守を代官となし、金銀の運上額を確

かめるようにと認められていた。景勝は内心、名護屋城で大見栄をきった己の

失敗を悟ったが、後の祭りでであることを知らされたのだ。

  浅野長政より朝鮮出兵の軍事費の増大に対応するための施策の、一環との

知らせを受けた。同時に、この春に石見から金銀採掘の技術者が訪れ、石見

銀山の最新技術が伝授されるとの連絡が書き添えてあった。このお蔭で相川金

山、銀山の採掘量は飛躍的に伸びたのである。

  文禄四年となり、日本と朝鮮で数々の出来事が起こった。二月となり上杉家

にとり運命的な人物が亡くなることになる、会津九十万石の領主、蒲生氏郷が

急死したのだ。

「限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風」

  四十歳の若さで死去した氏郷(うじさと)の辞世の句である。

  彼の死は巷間(こうかん)に色々な憶測を呼ぶことになる。謀殺、毒殺死、

などなどであった、

  氏郷は織田信長の娘婿であった。彼は信長と秀吉に従って数々の武勲をた

てた武将である。

  秀吉は氏郷の器量を買うと同時に、過去の煌びやかな栄光に嫉妬していた。

これを疎ましく感じ、会津に移封されたと氏郷は思った。彼にとり左遷人事であ

った。「たとい小禄なりとも都近くにあれば、やがては天下も望めよう。会津では

遠すぎる、何が出来ようか。志は虚しくなった」と嘆いたといわれる。

  彼には大志があったのだ。会津に移ってから体調を崩し、臥せることが多く

なった。彼には奥羽守護としての大役があった、伊達、最上への牽制役としての

任務と徳川家康の監視役であった。

  彼の資質を妬んだ石田三成の讒訴(ざんそ)による、秀吉の毒殺説などが風

聞として流れたが、それを裏付ける証拠はない。むしろ秀吉と三成は氏郷の

器量を買って会津に移封したのだ、根も葉もない風雪であった。

  ともあれ、会津の要衝の地は十三歳の氏郷の倅の秀行が継ぐ事になる。


  朝鮮でも異変が生じていた。初戦の華々しい連勝も制海権を失い、

大明国が大軍を擁し、朝鮮救援に駆けつけてからの日本軍は、漢城を失い、

釜山近郊まで押し詰められていた。

  依然として朝鮮の亀甲(きっこう)水軍は優勢で、充分な物資の補給のないま

まで戦いを繰り返していた。そんな最中に日本兵の朝鮮軍への投降が激しさ

を増していた。朝鮮軍はそんな日本兵を降倭(こうわ)と呼んでいた。

  その数は数千名にのぼったと云われている。

  初めの頃は、朝鮮軍は降倭を殺害する方針であったが、練達した戦闘力と

優秀な鉄砲技術をもつ日本兵を、貴重な戦力とみて朝鮮軍は「投順軍」と名づけ

た部隊を編成し、日本軍同士を戦わせるようになった。

  その代表的人物が、金忠善(キムチュンソン)であった。忠善は加藤清正の

部下で沙也加(さやか)と云う。彼は戦況が有利な時期に朝鮮軍に投降した、

秀吉の朝鮮侵略戦争への抗議を示すものであった。こうした現状を石田三成は

正確に秀吉に報告した、秀吉の矛先は加藤清正に向けられた。

  朝鮮で苦戦する諸将達は、三成の報告に激怒したが秀吉の信任のあつい

三成の言い分が勝り、彼等は太閤から叱責をうける羽目となった。

  諸将にも言い分はあったが、三成は事実を告げることを厭わなかった。

  奉行としての立場を貫いたのだ。三成に多少の情けがあれば事は大きくなら

なかったが、彼は律儀にも一切の隠し事もなく報告した、これが石田三成という

男の性格であった。 

  朝鮮在陣の武将は、三成の讒訴(ざんそ)と感じた。彼等のほとんどが秀吉

子飼いの武将連であったことが、のちに豊臣家を不幸にする要因となった。

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Last updated  Mar 1, 2007 10:22:31 AM
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