6 寂光寂光身体のバランスを欠いて精神が彷徨する。 そんな数日を送っていました。 「流石に藤村操は」と苦笑いされました。 『死』を思う精神状態を心配してくれたようです。 肉体と隔絶された精神は自然、「死」に向けて先鋭化してしまうようです。 本人は自覚していないことでしたので少し慌ててしまいます。 脳出血で死の淵を彷徨いながら自らを問い直そうとした辺見庸氏の『審判』に影響されて、「うつ」の観点から己を見つめ直そうという試みを続けていますが、人から見れば「死」に対する側面が強調されていたようです。 私の勝手な見方ですが、吉本隆明氏の『転向』は、かつて安保闘争の精神的支柱であった『自己の思想の死』とそれでも未だ民衆の力を信じていたい思索を捨てきれない『新たな自己の創生』が見られます。 理想としては非常に面白いもので、私も事ある毎に参考にさせてもらっています。 しかしながら、矢張り『転向』です。 学生の熱烈な支持を得た巨人『吉本隆明』の思索としては物足りなさが感じられます。 無いものねだりかも知れませんが。 しかしながら辺見庸氏の『審判』は血を吐きながら、生涯のどん底に陥り、そこから抜け出すでもなく、その位置から、自己批判を行う、非常に残酷なものです。 氏の精神的な強さに、その雄叫びに心が揺さぶられてしまいます。 ですから「うつ」というものの中にドップリと浸かっている状態の中で、『如何いう思索が出来るのか』ということは私にとって何にもまして実践してみたかった命題です。 ネットでの心中事件が多発しているのを忘れていた私は少々後悔していますが、別に『死』に憧れている訳ではないことをお断りしておきます。 「うつ」の状況に置いては、妻もそうですが、動けない身体に反するように、思索は先鋭化します。 彼女の場合は、それを言葉にできないくらいのスピードで頭が回転してしまうそうです。 私は彼女ほど頭が良くないようで、如何にか文章にする位には鈍っています。 それでもこの数日の思考の彷徨には、辟易してしまいます。 何処を向いて走り出すのか自分でも理解できない状態が続きました。 フリーページにも追加した『盲獣の咆哮する声』から『天蓋』までを振り返ってみると、荒れ狂う精神が少しずつ落ち着いてくる、でもそこには『死』の影が常に纏い付いている、そんな感想を持ちました。 社会から隔絶された、そして再び社会から隔絶される恐怖が書かせたのか。 「うつ」という虚構が『自己の死』という実態を求めるのか。 今の段階では良く判りません。 今日は、久しぶりに出勤して社会との接点を取りました。 散文的な状態に自分を置くことでの『安心』が得られます。 結局、私の『うつ』とは、その程度のものだったのか。 少し哀れに感じます。 泥水を啜りながら行き場所を失い咆哮していた精神もまた『虚構』だったのかも知れません。 「うつ」症状が見られた、この数日の妻の優しさ、上司の温かさ。 それだけで、荒くれた精神が凪いでいきます。 『寂光』が見えます。 遍く照らす『陽光』は、私には眩し過ぎます。 薄暗がりの中、手探りで彷徨する『寂光』に救われます。 ほんの僅かな『温かさ』や『優しさ』が私を優しく包んでくれています。 そこからは『血を吐くような心の叫び』は生まれることはないでしょう。 『泥水に塗れた自己批判』に浸ることもないでしょう。 自分の弱さに嘆き、そして救われています。 『寂光』の僅かな光を手探りに精神が歩き出しました。 |