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「杉の花粉」の独断と偏見に満ちた愛読書紹介コーナー

「杉の花粉」の独断と偏見に満ちた愛読書紹介コーナー

16 『鬼畜米英』への考察

「うつ」人の考察:『中東問題』について考える。

 平成18年7月31日の朝刊を見ています。
 第一面トップ記事に「イスラエル軍空爆、子供ら54人死亡」という記事が載っています。
 イスラエル軍機が、レバノン南部の村『カナ』を空爆したそうです。
 記事によると、イスラエル軍は、1996年4月にも『ヒズボラ(イスラム教シーア派民兵組織)』の掃討作戦中に国連レバノン暫定軍の基地を砲撃し、批難していた百人以上の住民が死亡し「カナの虐殺」と呼ばれたとあります。

 10年くらい前に、私は独り「イスラエル」や「ヨルダン」を彷徨ったことがあります。
 4年前の『新婚旅行』は、「未だに何を考えているのか良く判らない『妻』の希望」により「シリア」に行きました。

 「イスラエル」「アラブ」共にとても気に入った処です。
 其々の人々は、温かく、そして明るく接してくれます。

 ただ、「エジプト」を除く中東諸国から隣国「イスラエル」に入国することは、殆ど不可能です。(稀に「ヨルダン」からウェストバンク経由で、バスが走ることがありますが、今は如何でしょう。)
 また、「イスラエル」のベングリオン空港で、パスポートに「入出国印」が押されると、「エジプト」を除く中東諸国には入国できません。

 『妻』は、今でも「もう一度行く!!!」とセガミますが、国際情勢が許してくれません。

 あんなに良い人々が如何してお互い殺し合うのか。
 非常に哀しい思いです。

 それには訳がありそうです。

 『鬼畜米英』とは良く言ったもの。
 この2つの大国が、テメーの利益ばかりを考えて、今の哀しい情勢を引き起こしました。

 『英国』の無責任な『二枚舌外交』。
 「パレスチナという同じ地域」に、「アラブ人」と「ユダヤ人」其々の国家建設を約束するなんて『非常識極まりない』、否、正しく『鬼畜の発想』としか思えない『外交』です。
(「アラブ人の国家建設」を約束した『フサイン・マクマホン協定』・『マクドナルド白書』と「イスラエル国家建設」を約束した『バルフォア宣言』・『チャーチル白書』など)

 そして「米国大統領トルーマンの馬鹿が、テメーの次の大統領選挙に有利だからという理由だけ」で多数派工作を謀り、無理やり決議させた『国連決議181号』。

 『大国の身勝手さ』が今の中東情勢の元凶です。

 詳しく調べようと、検索サイトに「イスラエル建国」と入力したら、「詳しいサイト」が現れました。
 まとめようと努力したのですが、少し長くなりましたので、私の雑文には珍しく結論から書かせてもらいます。

 これからの文章を読んでいただければ、「何故に私がここまで怒っているのか」判っていただけると信じます。

 「ある大学の研究室」に在籍されている「サイバー・ユーゴスビアの住人」相良義陽氏が主催するサイトのようです。

 「一部の引用可」とありましたので、『抄』として活用させてもらいました。
 冒頭ですが、相良義陽氏のサイトから引用する旨、明記すると共に、氏の温情に感謝いたします。

◎『最初のユダヤ人の移民』(1882年~1904年)
 当時、オスマン帝国の支配下にあったパレスチナ地方に、最初に移民したユダヤ人は、ロシアの政情不安に伴って頻発した反ユダヤ暴動を恐れたロシア系ユダヤ人が中心だったそうです。
 この時期のユダヤ人入植は、地主から土地を買い上げ、新しい地主となり、相変わらずその土地はアラブ人が耕していたそうです。

◎『労働シオニズム』の台頭(1904年~1914年)
 この時期のユダヤ人の移民は、ユダヤ入植者自身が自ら労働を行い、共同社会を建設し土地所有を正当化するもので、後の「イスラエル建国」に繋がっていくものでした。

◎第一次世界大戦
 ○『フサイン・マクマホン協定』
 ヒジャーズの有力者、ハーシム家のフサインは、『英国』のエジプト高等弁務官マクマホンと書簡を交わし、アラブ人の独立国家建設の約束を取り付けました。

 ○『バルフォア宣言』
 ユダヤ金融資本の支援を取り付けようとした『英国』は、外相バルフォアのロスチャイルドへの書簡という形で、ユダヤ人国家を作ることを約束しました。

 ○『サイクス・ピコ協定』
 『英』仏の統治領と勢力範囲(国際連盟の委任統治という名目)を決める協定です。
 仏国がレバノン、シリア。
 『英国』がイラク、クウェート、トランスヨルダン、パレスチナ。
を其々が委任統治下に置きました。

◎第一次世界大戦後
 ○「イラク」と「トランスヨルダン」
 アラブ人の反発により『英国』は妥協して、ハーシム家の王を置きます。

 ○「サウジアラビア」
 ネジェドのサウード家が台頭し、ヒジャーズに侵攻しハーシム家を追い出します。
 そしてサウジアラビア王国を『英国』の支援により建国します。

 ○「パレスチナ」
 『英国』は、ユダヤ系・親シオニストのサミュエルをパレスチナ高等弁務官に任命し、『バルフォア宣言』の履行を暗に示します。ユダヤ移民が急増しました。

 ○『チャーチル白書』
 『英国』は、1922年に『チャーチル白書』を発表し、『バルフォア宣言』に基づいて、パレスチナにユダヤ人国家を建設することを改めて宣言します。

◎第二次世界大戦直前
 ○『マクドナルド白書』
 アラブの「反ユダヤ」という立場が、ナチスドイツと協調する恐れを感じた『英国』はロンドン円卓会議を開催し、『マクドナルド白書』を発表します。
 「ユダヤ移民の規制」、「ユダヤ人の土地取得の規制」、「ユダヤ国家樹立を認めず、10年以内にパレスチナをアラブ国家として樹立する」という内容で、『英国』が「親ユダヤ」から「親アラブ」へと方向転換を図った瞬間です。

 この『マクドナルド白書』のため、「ユダヤ虐殺から逃れようとしたユダヤ難民」は、「パレスチナ」への流入を「拒否」されます。

 『英国』に絶望したユダヤ人は、その活動の中心を『米国』に移し、圧力団体として急速に成長して行きます。

◎第二次世界大戦後
 『英国』に「イスラエル建国」を要求し、拒否されたユダヤ人は、武力闘争という手段を選択します。
 1947年、これ以上の「パレスチナ」の委任統治は困難と判断した『英国』は、「国際連合」に介入を要求します。

 ○『国連決議第181号』
 翌年の大統領選挙にユダヤ人票が必要であった「トルーマン米国大統領」が、「パレスチナ」を「アラブ人とユダヤ人の其々の国家に分割する」という「分割案」を、多数派工作を謀って決議します。
 人口31%のユダヤ人が、領土の60%を占めるというアラブにとって不公平なものでした。
 
◎第一次中東戦争
 緒戦で苦戦を強いられ、「エルサレムの東半分(旧市街)」を失いながらも、「西半分(新市街)」を辛うじて保持しつつ、『英国撤退』に照準を合わせ攻勢に出たユダヤ人は、1948年「イスラエル」の建国を宣言します。
 アラブは敗走し、その年末に第一次中東戦争は終結します。

◎「ヨルダン」と「イスラエル」の密約(1950年)
 「ヨルダン」は、「イスラエル」と秘密裏に交渉し、「東エルサレム」を含む「ヨルダン川西岸地域」を正式に併合します。

◎「エジプト共和制」を樹立(1952年)
 「ナセル」率いる自由将校団が王朝を廃止、「エジプト共和制」を樹立します。

 ○『バグダード条約』
 「対ソ封じ込め政策」の一環です。
 「イラク」・「トルコ」で締結され、後に「イラン」、『英国』が加入します。

◎第二次中東戦争(スエズ戦争)
 「ナセル(「エジプト」)」は、「サウジアラビア」と「シリア」の支持を受け、『バグダード条約』機構に反対します。

 『英国』の「アラブにおける覇権の温存を危惧」し、「イラクに変わりアラブの盟主を目指した」ナセル(「エジプト」)は、米ソの中間に位置する非同盟主義を貫こうとしますが、『米国』が武器提供に躊躇したため、「チェコスロバキア」製の武器を輸入します。

 共産主義国への歩み寄りは『米国』の不興を買い、「アスワン・ハイ・ダム」への資金融資を『米』『英』から打ち切られてしまいます。
 ナセル(「エジプト」)は、『英』仏が株主の運河会社が運営していた「スエズ運河」の国有化を宣言し、運河の利用料をダム建設資金に充てようとします。

 この措置に激怒した『英』仏は、「イスラエル」と語って対「エジプト」攻撃を開始しました。
第二次中東戦争(スエズ戦争)の始まりです。

 ○『アイゼンハワー教書』(1957年)
 「アイゼンハワー米国大統領」は、「サウジアラビア」と「シリア」など中東諸国が「エジプト」寄りの姿勢を見せ、「ソ連」が核兵器の使用を伴う介入を示唆したため、『英』仏の植民地主義的行動を批難し、国連決議で停戦させます。
 そして『アイゼンハワー教書』を発表し、「エジプト」への経済・軍事的援助を約束します。

◎「イラク」のクーデター(1958年)
 この「エジプト」の外交的勝利に、これまで『英』仏の保護下で『バグダード条約』機構を形成し域内大国として振舞っていた「イラク」は大打撃を受けました。
 「イラク」では1958年にクーデターが発生し、「ハーシム王朝」が打倒され「カーシム」が政権を握ります。
 そして「イラク」は『バグダード条約』から離脱します。

◎OPEC結成(1960年)
 「ナセル(「エジプト」)」の間接的な影響ですが、「資源ナショナリズム」運動がアラブで起こり、1960年にOPECが結成されます。
 国際石油資本「セブンシスターズ」支配からの脱却が始まりました。

◎「パレスチナ解放機構(PLO)」結成(1964年)
 第二次中東戦争(スエズ戦争)に勝利した「ナセル(「エジプト」)」の『アラブ民族主義』は、難民化・離散を強いられた「パレスチナ人」に支持を得ます。
 そして、「ナセル(「エジプト」)」は、「パレスチナ解放機構(PLO)」を結成します。

◎第三次中東戦争(6日戦争)(1967年)
 「イスラエル」が「レバノン」の内戦に出兵している隙を狙って、「エジプト」は『アカバ湾封鎖宣言』を行います。
 1967年、イスラエル軍は、これを「口実」にして、「シナイ半島」、「ヨルダン川西岸」、「ゴラン高原」に電撃的に攻撃を行い、勝利します。

 「イスラエル」は念願であった「英国委任統治領パレスチナ」に当たる全域の占領に成功します。
 加えて、「ゴラン高原」、「シナイ半島」、そして「聖都エルサレム全域」を支配化に置きます。

 ○『イスラム原理主義』
 「ナセル(「エジプト」)」の敗北は、彼の提唱する『アラブ民族主義』の失墜を意味し、「イスラム」を中心とする勢力の台頭を許します。
 それが、今の『イスラム原理主義』へと引き継がれていきます。

 ○『サダム・フセイン』
 「シリア」と「イラク」に成立していた『アラブ民族主義』を掲げる「バース党」の政権は理念を失い、特に「イラク」の「バース党」内の権力闘争に、打ち勝った『サダム・フセイン』が実験を握るようになりました。

 ○「ヨルダン」内戦
 「ヨルダン」では、「パレスチナ・ゲリラ」がハイジャック機を、首都アンマンの空港で爆破させた事件を契機として、「フセイン国王」は「パレスチナ人」弾圧を開始します。
 第三次中東戦争後、「ヨルダン」に本拠を置いていたPLOは「レバノン」へと逃亡することになります。

◎「イスラエル国会での演説」(1977年)
 ナセル大統領亡き後を継いだ、サダト大統領(「エジプト」)は「イスラエル」と接近していきます。
 その成果が、彼の「イスラエル国会での演説」であり、「シナイ半島」の返還でした。



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