|
カテゴリ:カテゴリ未分類
「やっと、帰ってきましたね、おとうさん」
「うん、やっと帰ってこれたな、かあさん」 特急サンダーバード号が吉田学・光子夫婦を加賀温泉駅のホームに降ろして走り去った。 「行こうか」 夫の学さんは全身に力を入れなおすと、改札口に向かった。 迎えの紅柿荘の女将が運転する車のリアシートの窓から食い入るように見る景色は、30年前と何一つ変わっていない気がする。 「加賀は始めてですか」 にこやかにほほ笑む女将が話しかける。 「いや、住んでおりました。もう、30年も昔の話になりますが」 紅柿荘に着いてお湯をつかって食事の間に座った吉田夫妻の前で女将が越前ガニを焼く。 「はい、食べごろに焼けましたのでお召し上がりになってくださいませ」 「おとうさん、さあどうぞ」 「いや、蟹はかあさんの好物だから、かあさんが先に食べたらいいよ。私はこの焼き魚と刺身が好きなんだ」 学さんは刺身を口に入れると盃を傾けフッと溜息をついた。 「ああ、うまいなあ」 「先程は車の中で30年前加賀にお住まいだとおうかがいしましたが」 「はあ、近くの村の役場に勤めておりました。そこで公金が紛失しまして、経理をやっておりました私に疑いがかかりましてねえ」 「あら、まあ、いやだわ、それで、疑いは晴れましたの」 「いえ、私の机の引き出しに覚えのない一万円札がはいっていまして、それが決め手だと言うことで逮捕されました。業務上の横領ということで懲役刑になりました」 「なんということでしょう。楽しいお食事の時にいやなことを思い出させてしまいましたわ」 「いいんですよ。すべては私が招いたことだと思っていますから。それより、そうなるまで妻とはチグハグな生活をしていたのですが、私の服役中には家庭をしっかりと守ってくれまして、今では仲良く暮らすことができておりますので、幸せだと思っています」 「その後、別の横領事件が発覚して主人の無実が証明されましたのよ。で、一度は復職の話もでたんですけど、もう役所に戻るのはいやだと主人が申すものですから」 「それから、関西、関東、東北とあっちこっち転々といたしまして、今は札幌に落ち着いています」 「それは大変な想いをなさったんですねえ」 「私のように冤罪(えんざい)で服役していらっしゃる方が多くいらっしゃいますので、そういう方々の無実を証明する調査活動とご家族のカウンセリングをボランティアでさせて頂いています」 「そうなんですか。だけど、なかなか出来る事じゃありませんわ」 「いえ、女将さんにこんなことまで申し上げるつもりはなかったんですが・・・実は私の服役中に娘の縁談が破談になりまして、悲観した娘は自殺してしまったんです。それで、こういう悲劇がおこっちゃいけないと想って。娘の供養の巡礼の旅でもあるんです」 人生には『思いもかけないこと』がしばしば起こる。 それが人々の人生を狂わせてしまったり、その人生の幕を引いてしまう。 『思いもかけないこと』によって負わされた『身に覚えのない罪』を着せられ、法廷に立たされて刑罰を宣告されて人生を歪められてしまう人は今でも後を絶たない。 快晴の翌朝、二人は女将啓子さんの運転する車で加賀温泉駅へ向かった。 『朝の来ない夜はありません。吉田学・光子』 「世の中には神も仏もないという事を聞きます。そういう気持ちは痛いほどわかります。ただ、私達は自分の心のどこかに神も仏もいるんだってことに気が付きました。このことを私達は伝えて行きたいと思います」 辛く苦しい想いをしている人がいたら、自分たちの想い出石を見せてこのことを伝えてほしいと、手渡された想い出石が紅柿荘に差し込む朝日に輝いている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|