|
|
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
│<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く |
その後、web上で公開されている『ザスーラ』の感想をいくつか拾い読んでみた。 おおむね「不評」である。 「ジュマンジの方がドキドキハラハラした」 「ジュマンジの二番煎じだ」 「前半がかったるい」 不評の意見をとりまとめると、だいたいこの3つに集約される。 私が見に行ったとき、観客の入りが少なかった理由もこのへんにあるのだろう。 それらを読んで、私は『ザスーラ』のよさがゼンゼンわかってない人たちが、こんなにもいるのだ、と思った。 世間的には私のような『ザスーラ』を楽しめた人間は少数派で、多くは『ザスーラ』を観て「おもしろくない」と感じる感性の持ち主である、ということである。 それは、もはや「小説」を「つまらない」ものとしか受けとれなくなってしまった、あるいは、ある種の「物語」しか「おもしろい」と感じられなくなってしまった人たちが相当数いる、ということを容易に想像させる。 世間は、「小説」よりも「物語」を求めている、ということなのだろう。 『ザスーラ』のストーリーの一部を書いてあります。 「小説」と「物語」私がここで用いているカッコ付きの「小説」と「物語」は、私が今読んでいる本『大学受験のための小説講義』(右画像)において説明されている小説と物語のことを指す。 「小説」=「速度」に抗う、<なぜか?>という問いを満足させるために書かれたもの 先を急ぐ「物語」と寄り道を楽しむ「小説」。 「物語」しか受け付けない人は、<それからどうした?>、<それからどうなった?>ばかりが気になって仕方がない。 最終的に満たしたいのは<そうしてこうなった>という話の結末だ。 そこへたどり着くまでの過程は速ければ速いほどいい。 逆にその過程の進行が遅れれば遅れるほど「まどろっこしい」と感じ、それは次第に「不快」となり、結果その作品への評価は「つまらない」となる。 要するに「結果」にしか関心がない。 スポーツニュースの試合結果だけを見て、その試合がわかったような気になってしまう人たちと同類なのだ。 「小説」を楽しめる人は違う。 たとえそこがストーリーの進行上「まどろっこしい」と思えるほどの速度であっても、そこにもう一つの満足<なぜか?>という問いを発生させる。 「小説」を楽しめる人は知っているのだ。 そこには長い時間描かなければならない理由があることを。 あるいは、そのような理由があるものとして、その理由を問いかけながら、そのシーンを見る。 「前半がかったるい」と言ってうんざりしている人には思いも寄らないことだろう。 『ザスーラ』のストーリー『ザスーラ』のストーリーを一文で書くとこうなる。 仲違いしていた兄弟が禁断のゲーム「ザスーラ」を始めてしまったがために、様々な困難やアクシデントに遭遇する過程で、互いに対する親愛と兄弟の絆を深めていく物語。 前半に反目し合う兄と弟が描かれる。 ほどなく家庭に問題のある子どもたちであることがわかる。 両親は離婚。 父と母がいっしょに子どもたちの前に現れることはない。 今日はパパの日、明日はママの日、という具合だ。 子どもたちはパパに遊んでもらいたくて仕方がない。 しかし締切のある重要な仕事のため、いつまでも子どもたちの相手をしているわけにはいかない。 それでも遊んでもらいたい(「遊び」を通して父親から愛されたい)子どもたちにほとほと手を焼き、つい声を荒げてしまう。 そして、「子どもでも『大人』になるときは必要だ」、「今がそのときだ」という大人の論理で強引に説き伏せる。 わずか6歳と10歳の息子に。 パパを独り占めできなくなり、時間をもてあます兄と弟。 弟がテレビゲームをやっていると、兄が突然ゲームをリセットし、テレビをつける。 かつて自分が好んで見ていたテレビアニメを放映していたが、弟が見たがっている素振りを見せるやチャンネルを変えて野球中継にする。 弟からの遊びの誘いをことごとく拒絶する兄。 相手にしてくれない兄にボールを投げる弟。 そのボールが兄の顔に直撃する。 血相を変えて弟を追いかけ回す兄。 身の危険を察知し全力で逃げる弟。 家中で追い掛けっことかくれんぼが始まる。 仕事どころではないパパ。。(^_^;σ 執拗に、くり返し描かれる兄弟の反目。 その原因は明確に描かれはしないものの、両親の離婚と現在の生活環境にあるであろうことに考えがおよぶと、性格の悪いイタズラ好きの兄弟にはどうしても見えない。 好きで反目し合っているわけではないのだ。 「ザスーラ」というゲームにたどり着き、二人でプレイするまで。 いや、ゲームが始まってからも、兄弟の不仲は描かれつづける。 その不仲は物語中盤でピークに達する。 激情に駆られた兄の引いたカードは金色に輝いていた。 どんな願いも叶えるという流れ星のカード。 窓外から巨大な輝く星がゆっくりと近付いてくるのが見える。 兄はその星に向かって願いを唱えた。 「弟なんか、この世からいなくなってしまえ!」 前半から中盤にかけて執拗に描かれつづけてきた兄弟の反目は、観客にそう思わせるためだった。 直後、宇宙飛行士の秘められた、悔いても悔やみきれない過去が明らかになる。 クライマックス。 あのシーンで、誰もがこう願ったに違いない。 「○○○○○○○○○○○○○○○○○」 願いは叶えられる。 現れた人物は、15年前の姿をした、、、。 監督の罠「小説」を楽しめる人は、ここで<なぜか?>という問いの答えも得られる。 なぜ、監督は物語の速度をゆるめ、執拗に、兄弟の反目を描いたのか? それは、観客をクライマックスへと導くため、ではない。 観客を感動へと導くため、である。 クライマックスで最大級の感動を演出するには、あれだけのシーンが必要だったのだ。 前半、なかなか物語が進展してゆかないことへの苛立ちは、監督によって仕組まれていた罠だった。 そこに何かしら意味を感じとり、<なぜ?>という問いを発動させることができたならば、自身のこころに芽生えた苛立ちの芽を素早くつみ取って、そこからじっくり腰を据えて映画を鑑賞したはずである。 その人にとって、「たわいない兄弟喧嘩」ように見えるシーンの数々は、「物語」上の進行を妨げている無用なシーンなどではなく、「小説」上の謎としてしっかりこころをとらえている。 そのようにして映画を味わった人に、この映画最大の果実、クライマックスでの感動が訪れる。 そして、監督の仕掛けた罠にニヤリとするのだ。 すばらしい映画とはそこまで計算されて作られている。 だが、わからない人は一言、「かったるい」でおしまい。 わからないから、感動もない。 映画を見終わった後口をついて出るのは、こうした言葉だ。 「ジュマンジの方がドキドキハラハラした」 「ジュマンジの二番煎じだ」 「前半がかったるい」 悪態をつかないと収まりがつかないのだろう。 まだ観てない方へもしこの記事を読んで『ザスーラ』が観たくなったら、できるだけ速く見に行った方がいいです。 映画館の巨大なスクリーンで、宇宙空間にポツンと浮かぶ家のシーンが観られるチャンスはあまり長くなさそうです。 世間はわかりやすい「物語」の方を喜び、遊び心のある「小説」を毛嫌いするようですから。 ▼ 原作の絵本はこちら ▼ この記事のトラックバックURL:
http://tb.plaza.rakuten.co.jp/supple/diary/200512230000/6e7dc/ ■トラックバック(1)
この冬、いちばん観たい映画が『ザスーラ』という人はあまりいないのだろうか。今日、新宿へ出る用事があったので、ついでに観ておこうと思っていた。地元の映画館ではやってないのだ。チケットを大黒屋でゲットし、上映15分前に滑り込んだが、館内はガランとしていた。...(2005年12月23日 06時45分39秒)
│<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
|