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カテゴリ:テレビ・映画
スティーブン・スピルバーグ監督の最新作「ミュンヘン」を観た。
2時間50分の大作ということで、「ロード オブ ザ リング」並の耐久力を覚悟していたが、長さを感じさせなかった。 不毛な負の連鎖そこに描かれるのは、殺人とその報復の果てなき負の連鎖。 ドイツ・ミュンヘンオリンピック開催中の選手村にパレスチナ人テロリストが侵入、イスラエル人選手、コーチら11人を殺害した。 イスラエル政府は報復を決意する。 政府の特命を受け、テロリストを一人ずつ暗殺するチームのリーダーに任命された主人公アヴナーは出産間近の妻に何も告げず、ジュネーブへ飛ぶ。 アヴナーは4人のスペシャリストともに、ヨーロッパに点在するテロリストたちを見つけ、「正義」の名の下に暗殺していく。 しかし一人殺しても、すぐにより凶悪な後釜が現れる。 切りがない。 しかも必ず相手の報復が伴う。 そればかりか、その行為の延長に「平和」もない。 ただ憎悪と怨恨を増幅させ、果てしなく報復の応酬がつづいていく。 ついに敵の情報を仕入れていた情報源から、身の危険を知らされる。 敵同士を客にする情報源は一方に警告を与え、もう一方に敵の情報を流す。 命を狙う者は命を狙われる立場になった。 次々仲間が殺され、私怨に駆られた彼らはその報復として死を与える。 そこに「正義」はあるのか? 非日常に蝕まれ人の命を狙うという非日常が日常化し、殺しを「殺し」と思える日常的な感覚は次第に麻痺していく。 また、常に命を狙われているため、普通の人が当たり前に行っている日常生活が送れなくなっていく。 ベッドで眠れなくなるという冗談はいつしか現実になる。 爆弾が仕掛けられているのではと、ベッドのマットをひっくり返す。 ないとわかると、ナイフでマットを切り裂く。 電話やテレビを解体して爆弾を探す。 その用心深さは病的で、その眼には狂気が宿っている。 祖国へ帰国し、「英雄」として迎えられ、「誇りに思う」と言われても、それを心から喜べない。 唯一の希望は妻と赤ちゃん。 しかし、家族の危険を察知する。 映画のラスト付近で、任務を終えた主人公は出産したばかりの妻と情事にふけるのだが、テロリストによって惨殺された場面が何度もフラッシュバックしてくる。 おそらく、こんなラブシーン(?)は映画史上初だろう。 リアルとユーモア全編を通じて重苦しいかと言えばそうではなく、随所にユーモアがちりばめられている。 問題のある爆弾、女装しての襲撃、泥酔者の乱入、ハニートラップ。 それがいかにも起こりえそうアクシデントで、作品をよりリアルにしている。 戦争映画のような映画はえてしてシリアス一辺倒に演出される傾向にあるが、それは「現実」を描き出してはいない。 笑いは死と隣り合わせの世界でも発生する。 何度か主人公らテロリスト暗殺チームの面々が屈託なく笑ったり冗談を言い合ったりするが、その前後に描かれる凄惨な場面のなかで、それがやけに印象的だ。 テロリストの世界のとなりで「祖国こそすべて」と言い切るテロリストの世界と今、自分が居る「祖国」という言葉すら使うことのなくなった世界はあまりにもかけ離れている。 しかし、映画というフィルターを通してはいるが、この2つの世界は背中合わせに隣り合っている。 日本も北朝鮮の工作員に何十人も拉致された。 その指揮をしていた人物は北朝鮮で「英雄」になっているという。 拉致問題はいっこうに解決する気配はない。 だが国民はそのことに、あまり関心がないように思える。 それはテロがどんなものか、わかっていないことが原因かもしれない。 突然部屋に武装した集団に乱入され、銃を突きつけられて拉致されるか、その場で射殺されるという非日常をリアルに、自分や家族にも起こりうることとして想定することができないからだ。 映画「ミュンヘン」は、それがどういうことかわからせてくれる。 祖国があり、平和がある日本に生まれた幸運にホッと胸をなで下ろす。 「テロには屈しない」というお決まりのフレーズ。 見終わった今、それらが薄っぺらく聞こえるようになってしまった。 ▼ ミュンヘン オリンピック・テロ事件の黒幕を追え お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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