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カテゴリ:1975
まずはそのギロリとこちらを睨み付けたジャケットのポートレイト、白呪(びゃくじゅ)という不穏なタイトル、血のように赤い帯。 美輪明宏、というと僕は二十歳そこそこだった学生の頃を思い出す。 ある日、ガールフレンドが突然「銀巴里に美輪明宏サン聞きに行かない?」と言ったのだ。 「は?」と僕。美輪明宏というと、好きだった三島由紀夫の事を通してちょっと名前を知っている程度だったのだ。彼女が言うにはシャンソンの有名歌手だという。 理由は忘れてしまったが、結局その銀巴里行きの話は立ち消えてしまった。 ・・それから何年も経って美輪明宏サンはよくテレビ画面で見かけるようになり、「ヨイトマケの唄」をいろんな人が歌ったりして、別な意味で著名人となっていた。 僕が知っているのは、せいぜいその程度だった。 そしてなんの予備知識もなく出会ってしまったこのレコード。 まさに『驚愕』という表現が相応しい、そんな一枚であった。 外国曲1曲を除いて、すべて美輪明宏作詞・作曲。 A-1/祖国と女達(従軍慰安婦の唄) 誰の子かわからぬ 赤子残して 死んだ女やら 銃を片手に 愛する若い兵士と散った女やら 歌える女は 子守唄を唄う あまりの怖さに狂った女 嫌な将校に斬られた女 バンザイ バンザイ 男はなんていいんだろう 羨ましいじゃないか ・・・・・・・・(歌詞が伏せられているので書きません) 死ねば死んだで 名誉の戦死とやらで 立派な社に奉られるんだろ 私も男に生まれていたら 今ごろきっと勲章だらけ バンザイ バンザイ このブログでなんどか"反戦歌"という言葉を使わせてもらった。それはいわゆるベトナム戦争を指していたと思う。 美輪明宏が指し示している戦争は、もちろん違う。かの戦争だ。 戦争経験者ゆえ激しく戦争を嫌悪していたという、その叫びだ。 戦に負けて帰れば 国の人たちに 勲章のかわりに 唾をかけられ うしろ指をさされて 陰口きかれて 抱いた男たちも 今は知らん顔 祖国の為だと死んだ仲間の 幻だいて 今日も街に立つ バンザイ バンザイ ニッポン バンザイ 大日本帝国バンザイ バンザイ バンザイ A-2/悪魔 戦争亡者の欲張り亡者 みんなみていろ全滅だ 首切り道具をつくりだし その名も高いギロチンで 自分で造ったギロチンで 自分の首をはねられた 原爆 水爆大好きな戦争亡者の親玉よ お前の親や兄弟が 女房や子供が 恋人が 焼けて爛れて死ぬだろう 苦しみもがいて死ぬだろう まるで憑りつかれたように歌い、悪魔のように笑う美輪明宏。 背筋が凍り、鳥肌が立つ。 凄まじい歌であり、凄まじい表現者だ。 A-3/ボタ山の星 寒々しい風の音。 念仏のように歌う美輪明宏。 貧しい兄弟の、悲しすぎる世界。救いようのない世界。 A-4/ヨイトマケの唄 近年すっかり有名になった感のあるこの歌。 長崎の爆心地近くで難を逃れた美輪明宏少年の、一緒に育った友人の母を回想した歌だという。 あまりに貧しく悲しい歌だが、なぜかとても救われる。 1952年、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」と専属契約し歌手デビュー。17歳の時。名前は本名の丸山明宏。 1957年、フランスのシャンソン「メケ・メケ」の日本語カバーを歌い大ヒットしている。 63年には、日本初の全て自作曲によるリサイタルを開き、65年7月「ヨイトマケの唄」リリース。 翌月加山雄三が「恋は紅いバラ」で颯爽と登場、加山雄三をシンガー・ソングライターの元祖とする書もあるが、美輪明宏は真にフロンティアであったと思う。 A-5/亡霊達の行進 真夜中の東京を戦争で死んでしまった亡霊が行進する。というこの歌。 戦争を知らぬ人々よ 我等を見るがよい 人が 人を殺したその果ての姿を 二度と戦さを 起こしてはならぬ みてくれ 見てくれ 戦さの答えを なんという凄まじい情念に満ちたこのA面の曲達。 耳を背けたくても、それを許さない球心力。表現力。 B面は一転して、まるで何事もなかったかのように、男女間を歌う大人のシャンソンが続く。 しかし一度金縛りにかかってしまった躰と脳は、なかなかもとの状態には戻らない。 なんというアルバム。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.08.12 07:17:54
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