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すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック

すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック

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 J佐藤@ Re:KEEBOW「GIVE ME A KISS」(1975.11.21 ポリドール MR5069)(07/15) 私も高校の同級生から本盤を76年にもらい…
 石川Q右衛門@ Re:「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」(1970.3 ユーゲント)(03/02) 何度もこの記事を読んでますの。正解も出…
 ごむてつ@ Re:ノラ「ノラ VOL.1」(1973.5.10 アードヴァーク AV-3004)(11/10) デビューした頃、テレビ神奈川のヤングイ…

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2017.06.22
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カテゴリ:1976
前回の、国府輝幸が"久保田麻琴と夕焼け楽団"のハワイレコーディングに参加したいきさつを
見つけたので、とりあえず補足しておきます。

『国府(輝幸)とかは、よく僕らが関西のライブハウス出ると、遊びに来て、セッションしたりして、
「この坊やはすごい子だなあ」って。』
-18ぐらいでしたよね。
『うん。まだ高校生だった、その時は。それで高校卒業したのか、中退したのか覚えてないんだけ
ども、結構中途半端な状態で夕焼けに入って来たんだよね。』
-チャールズ清水と国府さんと中西康晴さんって"18歳トリオ"って。
『うん。"花の高3トリオ"、その頃は。』
(久保田麻琴インタビュー 「日本ロック大系(下)」1990年8月10日 白夜書房刊)

また山岸潤史サンですが、当時の印刷物が山岸潤士になっているものも多く、ごちゃごちゃに
なっておりますが、とりあえず山岸潤士サンにしておきます。悪しからず御了承下さい。
以上補足終了。



さて、ソー・バッド・レビューだが「日本ロック大系(下)」によると、75年12月8日の神戸
ヤマハのステージからその名を名乗ったとされている。
「8.8 ROCK DAY '75」で披露された「かたつむり」(北京一/作詞・山岸潤士/作曲)や、
「最後の本音」(石田長生/作詞・曲)は、かなり早い時点でのオリジナルレパートリーで
あることは分かる。
「最後の本音」は関西ブルースシーンで活動していた金子マリがいち早く自分のものにし、
バックスバニーのファーストアルバムに収録。
『俺は 決して悪い人間じゃない ただ 考えが甘いだけ』というフレーズを、
『私は 決して悪い人間じゃない ただ 考えが甘いだけ』と変えているだけだが、見事に
自分のものにしているのはさすが。


「MARI & BUX BUNNY」金子マリ&バックスバニー(1976.5.21 CBSソニー 25AH-1)
メンバーは金子マリ(v)、永井充男(g)、鳴瀬喜博(b)、橋本英晴(d)、難波弘之(k)


ソー・バッド・レビューのライブ音源もYOU TUBEで見つけることができる。
76年4月18日、日比谷野音での「最後の本音」と「かたつむり」だ。この2曲はすでに
かなりこなしているのが分かる。



「SOOO BAAD REVUE」ソー・バッド・レビュー(1976.8.25 ニューモーニング-
オレンジ FW-5013)LA録音。ジャケットデザインは日下潤一。

その他のオリジナル曲の制作時期は分からないが、日本語でのレコーディングにあたり、
相当に苦心しているのが、見てとれる。

A-3「ここを過ぎて悲しみの街」は、チャールズ清水作曲のスローナンバーだが、日本語歌詞を
乗せるに当たって、友人だった福井めぐみに依頼したと思われる。福井めぐみは、フォークデュオ
"杏"を経て、ミスティ〜ウィンディスープ(チャールズも参加)〜ネオマチスと、大きく変貌していく
ことになる人だが、ここでは恐らく、芸人・北京一を道化師になぞらえて、ザ・ディラン的な
曲を意識したのではないだろうか。


『人は自分の罪を忘れ
不用意に人を傷つける
ただ生のみに生き
ただ死のみに生きる
人生がパントマイムなら
人はみな 道化師として
突然の死の悲劇にも
人はコメディアンとして過ぐ
ここを過ぎて悲しみの街
友はみな 僕から離れ
ただ悲しき眼をもって 僕をながめる』
(「ここを過ぎて悲しみの街」福井めぐみ/作詞・清水達夫=チャールズ清水/作曲)

素晴しい詩だと思う。しかし全くメロディに乗っていないのだ。北京一も歌いこなせていない。
憂歌団における尾関真、ちょっと系統が違うがカルメン・マキ&OZにおける加治木剛(ダディ・
竹千代)というわけには、なかなかいかない。

ソウルフルなナンバーA-4「銀太郎」(八尾はじめ=石田長生/作詞・曲)、B-1「透明人間」
(清水達夫/作詞・曲)は、砂川正和が日本語歌詞をどうしても丁寧に歌ってしまうあまり、
ノリが今ひとつ伝わってこない。

AORなA-5「真夜中の歌姫」(石田長生/作詞・曲)は完成度の高い楽曲で、石田長生が自ら
歌っている。"風"後期の大久保一久を思わせるフレーバー。

B-4「青洟小僧」(石田長生/作詞・曲)は、ようやく詞と曲が見事に合致したナンバー。
砂川正和のソウルボイスもとっても良く聴こえてくる。

B-1「おおきにブルース」(加川良/作詞・ソーバッドレビュー/作曲)、B-5「お母ちゃん
俺もう出かけるで」(加川良/作詞・石田長生/作曲)は、憂歌団やサウス・トゥ・サウスの
フレーバーをだそうとしているように思えるが、なぜかコテコテしていない。
が、のちのライブ盤の「おおきにブルース」は凄い。やはりライブ向きなのだろう。

憂歌団初期やサウス・トゥ・サウスのレコードを聴いても全く古さを感じないが、日本語ロック
(ソウル・ブルース含め)を何十年も聴いてきた現在からすると、このアルバムはなぜか古さを
感じてしまう。
サウス・トゥ・サウスもライブ音源しかないため、スタジオ録音だったらどうだったか。
妙に感慨深いものがある。




紅花紅子さんのブログによると、レコーディング中はメンバー間の衝突が相次ぎ、
『帰国を待つレコード会社がアルバム発売記念ツアーを準備するも、ロス録音中に、さらに
不仲になったメンバーたちは帰国そうそう『解散』という禁じ手カードを切ったのだ。
これがレコード会社を慌てさせた。会社としては、
「さあ、これから稼いでもらおうと思っているのに、何を血迷ったか『解散!』とは。
ロス録音させた会社の身にもなってみろ!」と、嫌がるメンバーを説き伏せ、ツアーだけは
完遂するという期間限定で承諾させた。
これがソーバッドの知られざる舞台裏である。そしてソーバッドは言葉どおり1976年11月に
解散する』(ソーバッドの足跡を探しているなかで、この紅花紅子さんの関西ブルース愛に
あふれたブログに行き当たりました。が、よく読んでみると、紅花紅子さんは亡くなった
そうです。どうか転載をお許し下さい)


どこまでが本当かはわからないし、僕がこれから書く事も推測に過ぎない。

三浦光紀がこんなふうに怒ってみせたかはともかく、日本フォノグラム(フィリップスレコード)
だって大きな会社だ。
海外レコーディングさせた期待のバンドが、レコード発売前に解散、などと言い出したら
上層部は怒って当然だ。と思う。
しかも海外レコーディングに合わせ、西岡恭蔵のレコーディングもブッキングしている。
(もしかしたら違うかも知れないが、短期間に2度行くということもないだろう)
しかも西岡恭蔵はフォノグラムを飛び出した矢沢永吉に楽曲提供している・・・
ソーバッドが帰って来たかと思ったら、チャールズ清水は脱退してしまうし、
石田長生はオレンジの加川良のレコーディングで、又すぐメンフィスに行ってしまうし・・・


というように、レコード会社にとっては面白くないことだろう。
この辺の事情はどこにも書いていないので、繰り返すようだが推測に過ぎない。

が、結果的に、西岡恭蔵も大塚まさじもレコード会社を移籍せざるをえなくなる。
こうして76年6月にロスでレコーディングされた西岡恭蔵の「南米旅行」はお蔵入りとなり、
日の目を見るのは、1年後となるのだ。

ソー・バッド・レビューは帰国後、チャールズ清水がアメリカ留学を理由に脱退。
7人でライブツアーをこなし、最後は北京一の修行渡米を理由に解散した。
ちなみに翌年出るライブ盤は素晴しい内容。


ポスター付き。レコード会社の力の入れようがわかる


オレンジの阿部登は、
『社長の仕事て、ほとんどデスクワークやねん。全部計算せなあかんわけ。
そんなん俺にできるわけないやん。ミュージシャンに嫌な部分を引き受けさすわけにいかんし。
やりたいことやろうと思たら、いろいろヘビーなこともあるやんか。ヘビーなことは何かと
いうことも、ほんまはミュージシャンにも話してやっていかなあかん。
俺はミュージシャンといっしょにアホなことやったわけ。だからあかんかってんな。』
(「日本ロック大系(下)」1990年8月10日 白夜書房刊)



西岡恭蔵は、矢沢永吉のセカンドアルバム「A Day」(1976.6.21 CBSソニー 25AH-35)に
5曲を作詞提供。その中の1曲「トラベリン・バス」は、矢沢永吉本人が出演したソニーの
ラジカセのCM曲となり、矢沢永吉の代表曲のひとつとなった。

『ルイジアナ テネシー シカゴ
はるか ロスアンジェルスまで
きつい旅だぜ お前に分るかい
あのトラベリン・バスに 揺られて暮らすのは
若いお前は ロックン・ロールに憧れ
生まれた町を出ると言うけど
その日ぐらしがどんなものなのか
分っているのかい

ルイジアナ メンフィス ジョージア
きつい旅だぜ ニューオリンズ』
(「トラベリン・バス」西岡恭蔵/作詞・矢沢永吉/作曲)

矢沢永吉はご存知のように、だんだん売れてゆき、突然ブレイクすることになる。
西岡恭蔵もかなりの印税を手にすることになるらしいのだが、それはまだ先のこと。



友部正人は、札幌のスカイ・ドッグ・ブルース・バンドをバックに制作したアルバム
「どうして旅に出なかったんだ」を発表。
しかし収録曲「びっこのポーの最後」のタイトルと歌詞に問題があるとして、CBSソニーは
あっさり発売中止と、発売分の回収を決めてしまう。
ここから友部正人と妻との、長い闘いが始まることになる。

まったくもって、業界は甘くない。



「どうして旅に出なかったんだ」友部正人(1976.8.21 CBSソニー 25AH-79)
大塚まさじプロデュース。写真は糸川燿史。デザインは森英二郎。
オレンジ方式と同様に大阪でレコーディング


加川良はメンフィスでアルバムを制作。石田長生のプロデュース・アレンジで、
中川イサトと石田長生が参加した。他に現地ミュージシャンが多数参加しているが、
石田長生が前回修行で来ていた時に懇意になっていたおかげで、ユニオンを通さずに
契約できたという。
加川良はシンガーとしてはもちろん、作詞、あるいはストーリーテラーとしての才能を
いかんなく発揮している。



「南行きハイウェイ」加川良(1976.10.25 ブラック-オレンジ BBL-2002)
メンフィス録音。ディレクターは末永博嗣。デザインは日下潤一





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Last updated  2017.06.22 09:48:14
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