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富士山と大山の東西の西端の出雲を要とし飛鳥を国土中心とした 『大和朝廷の神々の日本設計図』

 The ancient state of Japan understood the shape of the country in Japan, and decided the first capital of Japan. They were written in the book on the oldest history in Japan. However, the historical science of the inference of Japan was not able to find the existence of a lot of clear facts of the book concerning the history that the country of ancient Japan had written.

日本の有史は
東西関係の富士山と出雲の間中
東西に対峙した伊勢神宮両宮と伊弉諾神宮の真中
熊野本宮大社旧社地大斎原の北の計画首都の飛鳥の宮跡から始まる。

 歴史系学界は天皇命でほぼ同時期に編纂の記紀風土記三書の体裁を変え内容不統一で書かれた事を作為と気付かず、何れが正史で史実の反映かと文字に翻弄され記述と事物実態を整合しない不明の歴史を国家国民に提供してきた。記紀風土記の異なる記述地が、伊勢神宮両宮と伊弉諾神宮の方位上の飛鳥宮跡や藤原京、平城京の宮跡位置が富士山と出雲の間中、熊野の北を国土の中心性の位置性を与え計画首都の価値を与える事実実態を伝承した記紀風土記の記述内容を見出せなかった。
 良き宮処を求めるのなら奈良や京都周辺に拘る必要があろうか、宮の地は自由に選べた。平安の都、京都は近代まで右京は湿潤地であった。市街が左京に偏した理由の一つである。1200年前の遷都時から永く良き宮処ではなかった。記紀の神武東征は何故、当初から迷わず畝傍山を目指したのか、後に移動する奈良の広大な平坦地や京都を最初に選ばず山間部に起源を持つ。藤原京以前の更に山間の飛鳥の宮の変遷史や飛鳥、奈良、京都と何故、南北に並び順に北に移動したのか、古代は軍事、政治、経済の背景がより直接的であろうが山間の飛鳥は何れも不利だ。周辺に脅威が無く食料経済を政治的管理ができた状態で飛鳥は存在が可能で、山間の一勢力に日本全土を掌握できる客観的な要件は何もない。国土全土を掌握した政権が飛鳥を選んだのである。

宮位置の価値要素の記紀風土記の事物は、末代まで展開する価値の為に継承される必要があり、実態が分からぬよう三書に書かれた。

唯物史観や経済地理学の立地論と違う価値で1500年以上前に我が日本の古代国家は首都の地を決めたのである。

三都説明図新.JPG

三都説.JPG

日本書紀、古事記、各風土記には、同様な事が異なる伝承地を記述している。
異なる各々の伝承地には各拠処とする名山名社との真四方位か方位線関係がある。
各位置は全て上位の基点性の地と繋がり相互関係し
神社神道、修験道、仏教の中心的施設位置や霊山、神山と繋がり、
富士山、大山、出雲大社、伊勢神宮、熊野本宮大社大斎原、鹿島神宮等に繋がる。
記紀風土記に書かれた巨大古墳や神話を含む伝承記述地の全ての山、
有名神社や寺、宮などの歴史事物位置には記述内容と事物実態と
整合する多くの対応と一貫した原理による相互関係、関連させた明確な作為で
複数の位置関係を整合した基点性と構成的関係で宮を位置付け価値を与える位置関係で、
高社格社の本別宮摂末社等と対峙する同存在性で成す複数の三角構成関係がある。

古代に国土形状を認識し各位置を把握し信じ難い高精度で
明瞭な作為による多数の歴史的事物間にある関係である。
東西関係の富士山や大山を認識し意識し関連させた関係に、
他に八剣山、沖ノ島、宮之浦岳を基点山とし、付近を基点地域とし
富士、出雲、熊野、筑紫、大隈に房総や諏訪を加え
出雲地域を富士山と大山の東西関係の西端に置き要の地域とし
出雲神名火山と富士山剣ヶ峯との間中の
熊野本宮大社大斎原の三角構成を最重要の三角構成とし
伊勢神宮と伊弉諾神宮を東西に対峙させ、真中に熊野の北の飛鳥を位置づけた
飛鳥、大和、京を国土の中心性の地とする位置関係で
三都を飛鳥から北へと展開させた原理がある。

神社鎮座関係の中心性の近畿逆五芒星

藤原京、平城京、平安京

四神相応説

大和朝廷は国土全体と富士山と大山位置を把握して飛鳥に価値を与える神々を創り配した。

三角構成説明図.JPG

日本最高峰富士山と中国地方最高峰大山は地球の自然活動により偶然東西に対峙している。
富士山剣ヶ峯と大山剣ヶ峰は約470キロ離れ緯度差40秒弱,距離は約1キロしか違わない。
古代国家はこの山頂が東西関係だが正確に同緯度でない事を含めて位置関係を把握していた。
香取神宮と富士山浅間大社奥宮の方位先、大山剣ケ峰と蒜山の方位先に大和三山に囲まれた藤原京藤原宮大極殿跡がある。

熊野那智大瀧と熊野速玉大社の方位先は富士山剣ケ峯
熊野那智大社と神倉神社の方位先は浅間大社、
熊野本宮大社大斎原と元伊勢日前神宮、國懸神宮本殿の方位先は大山弥山、大山剣ケ峰に至る

富士山と大山山頂の正確な間中経度上が安土山(安土城天主台と総見寺金堂跡の間中より天主台寄り)である。
安土山は城跡として有名で霊山や神山として有名ではないが富士山と大山の間中の位置性に他の多くの関係を整合して選ばれ、白山と金剛山の方位上で、石見一宮物部神社本殿やスサノオがアマテラスに後の三種の神器の神剣を渡す船通山と同緯度で宇佐神宮と鹿島神宮、出雲大社と伊勢神宮外宮の方位上に平城宮大極殿跡、宇佐神宮と安土山の方位上に平安宮大極殿跡がある。
二官寺、三宮跡、三霊山、多くの名社、名山、名寺、名城と相互関係した山であった。
物部神社は宇佐神宮と出雲大社の方位上、船通山は須佐神社と平城宮大極殿との方位上である。
金華山は富士山と出雲の基点社等を結びつけ、藤原京の拠処の熊野本宮大社旧社地大斎原と平城京や平安京等の拠処の玉置山の方位先で、玉置山の出雲の拠処の神魂神社と相互関係がある山で、徳川幕府が江戸時代に禁足地として霊山に復した山である。
富士山と大山の東西関係は、西端の日御碕神社と出雲大社、東端の玉前神社の間に多くの重要社や名山、霊山がある。
徳川方と豊臣方の天下分け目の関が原の戦いもこの富士山と大山の東西関係を意識しての事である。
大阪城から安土山の近似方位、江戸城から金華山の近似方位の交叉地が伊吹山麓の関が原である。
西軍は金華山山頂と安土城天主台の正確な方位上に天守閣のある大垣城を最初の拠点とし、
徳川家康の関が原本陣は、富士山剣ヶ峯と大山剣ヶ峰、富士山浅間大社奥宮と熊野大社本殿の方位上に置いた。

歴史の主人公達は国家的価値観化した位置性に事物位置や行為の場所にも拘った。
 織田信長は富士山と大山の間中の平安宮の拠処で、法隆寺夢殿と平城宮大極殿跡の方位先の安土山に城を築き、法隆寺講堂と大山、大神山神社奥宮の方位上に豊臣期大阪城天守閣、富士山浅間大社奥宮と鹿島神宮本殿の方位上に江戸城天守台がある。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康

大山富士山.JPG

歴史系人文社会学は
日本の国家国民の共通認識となる国家観、歴史観、宗教観、文化観に関わる
重大事を事物実態を論証できない不合理な学界説を導き出し唱えている。
書側都合の文字から史実を顕在化するには多くの確証ある証拠から論じるべきだが、記紀風土記の事物の網羅的研究を怠り、
少事例に確証の無い文献や先学研究を引用し早い段階で推論し、文字にない事を根拠なく推量で論じる繰り返しの結果が、
記紀風土記の文字に翻弄され、作為の未解明を露呈した史実性や事実性を導出していない不合理で非論理的な学説である。
神社神道を
土着的で地域的な自然信仰の古代祭祀から祖霊信仰等が習合したと自然神から記紀神の人格神の祭神変更に
何も論及せず推論し唱え、多様な神社実態や国家的関与性の神社神道を何ら論証できない。
三都を
中国風水と違う典拠や論拠がない日本風水の『四神相応説』を創り、宮の全てを論証しないで未だに様々な説で論じる。
定説がないが歴史系学界共通の定説である。風水書は明代以降で帝都を論じた説ではなく四神相応の帝都は中国にない。
 
記紀風土記は事件でなく事物実態が記述されている。

大和朝廷の大和、飛鳥が
記紀風土記等の神典にある事物間の位置間関係により
国土の中心性の地として位置付けした計画都市を示す事実は、
国学らが求め解明できなかった国家創立の要因、国体である。

国土と一体の構成的位置関係を方位と方位線により宮位置に意味を与える価値を創出した古代史がある。
記紀風土記、神社由緒、各伝承、祭神、名称、神社構成、社殿構成、社格等の多様な
実態と国家関与性と整合し論証できる原理性のある方位と方位線関係による全国土的な位置関係で
重要事物位置の要件として基点性の高い処と多くの関係を求める事で新たな価値ある処として次々展開する国家的価値観の位置性で、全時代の歴史的有名事物、
神山、霊山、宮や有名社寺、城等の中心的施設位置にあり近代現代の皇室施設等にもある。
重要事物の位置関係に徹底して拘る歴史が日本史である。
過去の歴史的有名事物と繋がり上位から市井の社寺に繋がる関係性の価値でもある。
指摘関係は球面三角法では精度誤差があり実感できないだろうが、国土地理院発行の1/25,000方位収差補正国土地図やCAD上の経緯度図等で確認できる。

学界は事物から歴史を推論する。私は歴史的事物の多くの位置関係の事実から歴史を知る。

私の研究と歴史系人文社会学界

神社神道と学界説

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2011/07/16
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  私の指摘した関係を事実と思わず重大視しない一つが時代の不一致であろう!

 箸墓古墳は比叡山延暦寺根本中堂の数世紀前に築造されたであろうし、

 猿田彦神社本殿は明治に鎮座し、神話の時代と千五百年以上は違う、

 『事実関係だから(事実とも思っていないが~)と言った事に何の価値があろう』

 学会発表でも指摘された事が何度かある。

 

 

 私は、基点第一の富士山の山容の変化も調べた時期がある。’富士山は江戸時代まで噴火を繰り返した火山であったからで、現山頂と対応した位置関係の意味を疑ったからである)

 神社(有名神社本殿位置)も永い歴史の中で境内や境外に遷座した神社も少なくない。

 唐招提寺や、平等院鳳凰堂が天皇家の血筋の館跡に建った意味を論証できない学界は、秀吉が平安京平安宮内裏跡に聚楽第を建てた理由も意味も知らない。

 法隆寺若草伽藍が数百m北西に移って立て替えられた理由も知らず、大阪城天守閣が豊臣大阪城から徳川大阪城になるように約100m移された意味も知らない。

 出雲大社本殿が徳川幕府の援助によってやや北の現在地に立て替えられたが、久能山東照宮本殿と出雲熊野大社本殿の方位先にある事を誰も知らなかった!

 

 

 学界人のように数事例、数十の事例から推論して論証していない。

 全て事実関係で、全てに一貫した原理性の存在があり文字史料との整合する対応と幾つ者状況証拠を指摘してきた。






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Last updated  2011/07/24 10:24:01 PM
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