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2004.07.01
XML
カテゴリ:映画
フランシス・フォード・コッポラ監督/ゴッドファーザー

2004年7月1日(木)、戦後アメリカ映画界を代表す
る俳優、マーロン・ブランドがロサンゼルスの病院で亡
くなりました。80歳。私がスクリーン上の彼に出会っ
たのは、ものこごろがつく前に見た映画『欲望という名
の電車』(1951)と『波止場』(1954)。どんな映
画だったのか、おぼえていませんが、野獣のような、え
たいのしれない圧倒的な存在感だけは、強烈な印象とし
て私の心に残っています。

そのころ、すでに『ゴッドファーザー』(1972)も、
『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(1972)も、『地獄
の黙示録』(1979)も封切られていたのかもしれませ
ん。でも、『ゴッドファーザー』なんて「たかがギャン
グ映画じゃないか」と、無視していました。数年前、こ
の映画をはじめて体験し、ようやく、そのような見方を
あらためることになりました。1970年代の初頭に登
場した、この映画が、なぜ人々の圧倒的な支持を得たの
でしょうか。

映画の原作となる小説『ゴッドファーザー』は、イタリ
ア生まれの両親をもつマリオ・プーゾというニューヨー
ク在住の48歳の新人作家の手によって、1969年3
月に生み出されました。アメリカの犯罪社会で活躍する
、華々しく、ロマンチックで、抗しがたい魅力をもった
ビトー・コルレオーネとその家族の物語。この小説は、
結局67週にわたってベストセラーリストにとどまり、
出版史上空前の売上げを記録した大ヒット作になりまし
た。

プーゾは、執筆中の本をパラマウント映画にも売りこん
でいました。1960年代のハリウッドは、大きなヒッ
ト作にめぐまれず、観客動員数は、トーキー映画が発明
されて以来、最低となるなど、映画産業は低迷していま
した。こうした現状を打破するため、パラマウントでは
、プーゾの未完成の原稿とあらすじを見込んで、作家に
資金援助をおこない、その映画化権を手に入れたのでし
た。

1969年11月19日、フランシス・フォード・コッ
ポラは、サンフランシスコに自分自身の映画会社アメリ
カン・ゾーイトロープを発足。1960年代の初めから
、ロジャー・コーマン監督のもとで映画製作を学び、監
督兼脚本家として頭角を現わしつつあったコッポラは、
ハリウッドから離れて、ジョージ・ルーカスとともに独
自の映画製作活動を展開しようとしていました。しかし
、『カンバーセーション…盗聴…』やルーカス原案の
『地獄の黙示録』などの企画は先送りされ、ルーカスが
USCの学生時代に製作した作品を長編化した『THX
-1138』も一部の劇場での公開にとどまり、コッポ
ラは負債で身動きがとれなくなってしまいます。そのと
き、春に一度は断わった話が再びコッポラに依頼されま
す。1970年9月27日、パラマウントは、『ゴッド
ファーザー』の監督としてコッポラと契約を結びます。

このころ、プロデューサーのアル・ラディは、『ゴッド
ファーザー』の製作へのイタリア系アメリカ人市民権連
盟の抗議運動に頭を悩ませていました。彼らの主張は
「この映画は、ギャングがイタリア系アメリカ人の典型
だという固定観念を植えつける」として、1970年7
月には、マディソン・スクエア・ガーデンで集会を開き
、『ゴッドファーザー』の製作を中止するために60万
ドルを集め、連邦政府の役人全員に抗議の手紙をおくり
ました。ラディや彼のスタッフは、匿名の電話で脅され
るなどの妨害行為にあい、映画製作を破壊する力をもっ
たマフィアの影におびえていました。結局、ラディは、
連盟の役員と会い、映画の製作意図を説明。連盟から
『ゴッドファーザー』の製作に対する協力を得る代わり
に、映画の中で「マフィア」や「コーザノストラ」とい
う言葉を使わない、イタリア系アメリカ人の伝統をはず
かしめない、という協定を結んで、この問題を決着。そ
の後、映画の製作がすすむにつれ、映画製作チームとマ
フィアとの関係は、おたがいをほめたたえるまでに発展
していったようです。

コッポラは、原作者プーゾが仕上げた脚本の第1稿を撮
影用の脚本へと修正しながら、このストーリーの本質を
掘り下げていきました。映画では、マイケル・コルレオ
ーネをストーリーの中心にすえ、彼が自分の意志に反し
てファミリー・ビジネスに足をふみいれるきっかけとな
ったエピソード、彼が犯罪社会の主導者に成長していく
過程、そして父ビトーから息子マイケルへと権力が引き
継がれていく様子に焦点をあてていくことになりました


その結果、ドン・ビトーは、冒頭の45分を過ぎたとこ
ろで重傷を負い、それ以降は、体調を回復していくシー
ンとなり、彼が持つ権力と影響力を威圧的に誇示するの
ではなく、抑制された演技で、圧倒的な存在感をほのめ
かす役となりました。ドン・ビトーが登場しない場面で
も、その権力と神秘性をただよわすことのできる俳優、
それが当時47歳のマーロン・ブランドでした。事実、
1971年3月17日、ブランドがリハーサルのために
はじめてセットに姿をあらわしたとき、その場がし~ん
と静まりかえったといいます。

リハーサルでは、コッポラは、脚本にしばられずに、即
興の場面をくわえ、俳優たちがさまざまな記憶をわかち
あい、感情を蓄積して、おたがいを理解する手助けをし
ました。コルレオーネ・ファミリーの雰囲気をつくりあ
げ、役づくりのヒントをあたえるために、コッポラは、
本物の家族さながらの食事の機会をもうけました。俳優
たちは3時間、食事をしながら即興で、本物の家族のよ
うに演技をしているうちに、次第に心をかよわせ、それ
ぞれの役柄に入りこんでいきました。

ブランドは、自伝のなかで、こう書いています。
「ドン・コルレオーネは、19世紀末から20世紀初頭
にかけて怒涛のようにこの国に押し寄せてきた移民の一
人だった。生き残るために、激流を必死でさかのぼらな
ければならなかった人物だ。彼はジョセフ・P・ケネデ
ィと同様の望みや志を、息子たちに託していた。おそら
く若い頃は、犯罪者になるつもりなど毛頭なかったにち
がいない。結果的には犯罪に手を染めることになったが
、いずれは足を洗う気でいたはずだ。(中略)おそらく
映画史上初めて、ギャングを尊敬にあたいする一種のヒ
ーローとして演じることに、私は興味を覚えた。
(中略)私はドン・コルレオーネに敬服していた。伝統
を重んじる資産家にして、品位ある誇り高き男。たまた
ま足を踏み入れた暴力の世界で、彼はその敏感な直感を
たよりに、自分自身と家族を危険な環境から守らなけれ
ばならなかった。ドン・コルレオーネは、たしかに犯罪
者であるが、私の目には家族を大切にする立派な人物と
映った。そして彼も私たちと同様、いろいろな事件の産
物なのだ。(中略)『ゴッドファーザー』が製作された
1970年代初頭は、アメリカ合衆国の国内事情を棚上
げにして、マフィアだけを槍玉にあげることなど、とて
もできない時代だった。ギャングの殺人と、ヴェトナム
におけるCIAの暗殺プログラム『フェニックス作戦』
との間に、一体どれだけの差異があろうか?」

今回、映画を見直して、印象に残ったのは、マイケル
(アル・パチーノ)とケイ(ダイアン・キートン)のカップ
ルです。マイケルは、イタリア系アメリカ人の2世で、
ファミリー・ビジネスとは距離をおいて、知的な女性ケ
イに惹かれます。しかし、父ビトーが襲撃を受けて瀕死
の重傷を負ったのをきっかけに、ファミリー・ビジネス
に足をふみいれる決意をします。そして、ケイを一度は
遠ざけるのですが、シシリーで結婚したアポロニアが殺
されると、ふたたびケイのもとを訪れ、結婚を申し込み
ます。とまどいながらも、マイケルについていくケイ。

しかし、以前のマイケルとは、ちがっていました。表で
は、家族おもいの父親の役割を演じながら、裏では、フ
ァミリー・ビジネスの生き残りをかけて、敵対するファ
ミリーの暗殺計画を着々と準備。そして、マイケルの妹
コニーの赤ちゃんの洗礼式に名づけ親として出席してい
るとき、マイケルの部下たちは、敵対するファミリーの
幹部を次々と殺していきます。コッポラは、教会での洗
礼式の神聖で厳粛なシーンと残虐な殺害シーンを交互に
見せることで、明と暗に引き裂かれていくマイケルの心
を鮮やかに表現したのでした。

ラスト・シーンでは、マイケルをまっとうな人生に導こ
うとするケイが、マイケルと一緒にお酒を飲もうと準備
していると、となりの部屋にいるマイケルを男たちが囲
み、ケイのいるキッチンとの間のドアをしめてしまい、
映画は、ふたりの将来を暗示し、その感情の溝をうめる
ようにニーノ・ロータが作曲したテーマ『ザ・ゴッドフ
ァーザー・ワルツ』をながして、幕を閉じます。

1972年3月15日、ニューヨークの5つの映画館で
盛大なプレミアム試写会が開かれると、観客は、劇場に
殺到し、何週間にもわたって長い列をつくり、何時間も
待ちつづけました。ブランドは、書いています。
「今日でさえ、リトルイタリーでは誰も私に金を払わせ
ようとしない。レストランにスパゲティを食べにいけば
、店長が言う。『どうもどうも、いらっしゃい、マーロ
。店のおごりで食べていってくださいよ……おい、みん
な、ゴッドファーザーのおこしだ』」

コッポラは、1973年3月、『ゴッドファーザーPA
RT2』の製作にあたり、こう語っています。
「今回の作品では、ファミリーを崩壊させることになる
だろう。しかも、内部から生じる究極の崩壊だ。そして
マイケルを罰したいとも思っている。最後にはおそらく
梅毒に冒され、年齢以上に老いた姿を見せるだろうね―
―ドリアン・グレイの肖像画のように」。
しかし、コッポラの構想が実現したのは、それから16
年後、1990年12月25日に公開した『ゴッドファ
ーザーPART3』において、でした。

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Last updated  2019.05.17 16:08:50
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