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2005.04.20
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カテゴリ:韓半島
猪木寛至は中学生になったころ、テレビのプロレス中継
に夢中になります。力道山は英雄で、神様のような存在
。でかくて卑怯な外人レスラーをぶちのめす空手チョッ
プは、敗戦国のコンプレックスを吹き飛ばしてくれる神
風でした。

昭和32年(1957)、猪木が中学2年生のとき、家族
はブラジルに移民することを決め、猪木も中学2年の修
了証書をもらうと、楽園のようなイメージを膨らませて
、ブラジルに渡ります。しかし、スイス人が経営するコ
ーヒー園で、あてがわれた家には電気も水道も便所もな
く、朝5時にラッパの音で叩き起こされ、夕方5時まで
毎日12時間、コーヒー豆の収穫という過酷な奴隷労働
が待っていました。家族は死にもの狂いで働いて、雨期
に入ると、今度は炎天下、雑草を延々と刈り続ける過酷
な日々が始まりました。

厳しい労働の日々、どこへ行くのにも数十キロ歩くとい
う原始的な生活は、知らぬ間に、猪木の身体を鍛えあげ
ていきました。そのうち、1日の仕事を終えると、砲丸
投げ、円盤投げ、槍投げの練習に熱中するようになり、
全ブラジル陸上競技大会の円盤投げで大会新記録を作り
、優勝。この話がブラジル遠征に来ていた力道山の耳に
入り、猪木は、力道山に入門。3年間の移民生活を経て
、再び日本に戻ったのでした。

猪木は、プロレスラーとしての練習に加えて、力道山の
付き人として、荷物運びから食事の世話、着替えから、
汗拭きから風呂での背中流しまで、必死でこなしていき
ます。力道山は、ちょっとでも気に入らないと、すぐに
猪木を殴り、罵倒しましたが、結局3年間、力道山が死
ぬまで付き人をつとめます。

「力道山に対する思いは複雑だ。殴られ続けても結局、
私は付き人を辞めなかった。私は力道山を尊敬していた
し、とにかく力道山には魅力があった」

昭和38年(1963)、猪木が20歳になった年の12
月8日、力道山は、赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテ
ン・クォーター」で暴漢に刺され、死んでしまいます。
力道山が死んだ晩、猪木はうなされ、金縛りにあいます
。「ふと足元を見ると、黒い影がうずくまっている。力
道山だった。じっとこっちを見ている。何かを伝えよう
としているような、怒っているような……」。それ以来
、猪木はしばしば力道山を夢に見ます。

30年後、アントニオ猪木は、スポーツ平和党の党首と
して参議院議員になっていました。北朝鮮の核査察が国
際問題になり、外務委員会や国際安保委員会で「北朝鮮
は、独裁者が君臨するテロリスト国家で、何をやらかす
かわからない恐ろしい国。その上、日本を射程距離に捕
らえた核ミサイルを配備しているらしい」といった、北
朝鮮が仮想敵国であるかのような議論を聞きながら、何
か直接行動が出来ないかと考えはじめます。

民族差別のことも、植民地支配も、詳しく知らなかった
猪木は、北朝鮮の勉強をはじめます。そして、師匠の力
道山について考えるようになり、力道山の娘が今も北朝
鮮に住んでいるという新聞記事を思い出します。

力道山は東京オリンピックに協力を惜しみませんでした
。当時、力道山の兄が北朝鮮オリンピック委員会の代表
だったので、肉親と再会することを心待ちにしていたの
だと思われます。日本からの第一次帰国船で帰った人た
ちが、力道山の存在を、同胞が日本の英雄になっている
ことを、母国に知らせたのでした。それで娘の存在もク
ローズアップされ、国家から手厚い待遇を受けることが
出来たのだといいます。しかし、東京オリンピックの前
年の暮れに、力道山は、亡くなったのでした。

「ある時期から、私は瞑想をはじめていた。目を閉じて
呼吸を整えていくと、空気が澄んできて、物が鮮明に見
えてくる。その状態で力道山に思いをはせているうち、
力道山の何気ない一言や、忘れていた場面が思い出され
てくる。自分の気持ちが次第に力道山に重なっていくの
だ」

「リングを下りれば酒に溺れ、暴力沙汰を繰り返した力
道山。力道山は空手チョップを産み出すために、血を流
しながらコンクリートに三千回チョップを叩き込んだと
いう。その心の奥に潜む怒りと哀しみ。そして孤独。ス
ターになるほどに自分の出自を隠し続けなければならな
いことのむなしさ……。心の深いところで固く凍ったま
まだったこだわりが、次第に溶けだし、素顔の力道山が
見えてきた」。

「私は力道山の無念を思った。死んだ夜に、私の足元に
現れたあの力道山の影が、私に伝えようとしたこと。そ
れが、やっとわかったような気がした。彼が果たせなか
った夢を、弟子である自分が果たすことが、恩返しだと
も思った」。

「力道山の無念とは何か? それは望郷の念である。朝
鮮人が差別されている日本で、裸一貫で大スターになっ
たのだ。どれだけ故郷に錦を飾りたかったか。肉親に晴
れ姿を見せたかったか。本当に自分を評価し、心から出
世を喜んでくれる人たちは、故郷にしかいなかったのだ
から。力道山は晩年、こっそり韓国を訪問している。板
門店を訪れた力道山は、突然上半身裸になって、北の祖
国に向かって雄叫びを上げたという。彼は何を叫んだの
か。誰にその叫びを伝えたかったのか。あれだけの名声
と金を手にした力道山だが、本当に欲しかったものはそ
れではなかったのだ……」。

猪木は、北朝鮮行きを決意。朝鮮総聯を訪ねて申請を出
すと、「どういう資格で行きたいのですか」と問われた
猪木は「私は、力道山の弟子です。師匠に恩返しをした
いのです」と答えます。中国経由で北朝鮮に入る許可を
もらい、北京の飛行場でチェック・インをしていると、
北朝鮮の外務省の役人が走って来ます。「今回は大変申
しわけない。ある事情があってお迎えすることができま
せん」。金日成主席が亡くなったのでした。

その後、正式な招待状をもらい、平成6年(1994)9
月に初めて北朝鮮の土を踏みました。力道山の娘が空港
まで出迎えてくれたのですが、こちらの真意を窺がって
いるようで、距離を感じます。

猪木は、政府の要人と食事をすることになります。挨拶
のときに「聞くところによれば、北朝鮮のミサイルは日
本に向いているそうですが」と聞くと、相手は表情を固
くして「そういうことはお互いの関係が深まれば、自然
に解決するものです」と答えたといいます。「というこ
とはミサイルは日本を向いているのですね」と言うと、
相手の顔色が変わっているのに気づきますが、本音で喋
っているうちに、すぐ仲良くなったといいます。彼らが
「日本のマスコミは一方的すぎる」と怒ったので、猪木
はイラクでの体験を話し、「平和の祭典」を提案します
。「力道山がやっていたプロレスを北朝鮮の国民に紹介
し、世界の人たちを招いて、彼らの目で北朝鮮の実態を
伝えてもらえばいい」と。北朝鮮滞在中にイベント開催
の許可が下りた猪木は、帰国してイベントの準備に追わ
れます。

平成7年(1995)4月28日から30日の3日間、平
壌メーデー・スタジアムで「平和のための平壌国際体育
・文化祝典」の開催が決まり、プロレスは2日間、新日
本プロレスをはじめ、アメリカのWCW、全日本女子プ
ロレスも参加して開催することになりました。

猪木は、モハメド・アリを立会人として招きます。パー
キンソン病が悪化していて、奥さんの付き添いがなけれ
ばバスの乗り降りも出来ない状態でしたが、北朝鮮で熱
烈な歓迎を受け、報道陣のフラッシュを浴びているうち
、アリは別人のようにシャンとなっていきます。「スタ
ーという人種は注目されれば甦るのだ。北朝鮮のイベン
トがアリに力を与え、アトランタ・オリンピックのあの
感動のシーンに繋がった」と、猪木は書いています。

北朝鮮は、世界中から3万人の観光客とマスコミを迎え
入れました。門戸を閉ざしていれば誤解が広がるだけで
すが、交流が生まれれば、新しい可能性が見えてきます
。これは外交上も画期的なことでした。

「リングに上がってみると、これまで経験したことのな
いほどの大観衆だった。19万人である。下から見上げ
ると遥か彼方まで観客がぎっしり詰まっている。私が動
くと、地鳴りのようなどよめきが広がる。私はリック・
フレアーと闘った。彼は元NWAのチャンピオンで、あ
る時期のアメリカのプロレスを代表していた選手だった
。私が求めたのは激しく厳しい試合だった。フレアーは
精一杯それに応えてくれた。北朝鮮の大衆の目に、力道
山の残したプロレスを焼き付けることが出来た。そして
力道山が私の中に残した「闘魂」というものを彼らに伝
えることが出来たと思う」

「力道山は死ぬ前、色紙によく「闘魂」という文字を書
いた。私はいつも墨をすって、色紙の上を走る筆先を見
ていた。そして、いつの日か私は色紙に「闘魂」と書く
ようになった。私のキャッチ・フレーズ“燃える闘魂”の
ルーツは力道山なのだ。「闘魂」とは何か。それがわか
るまでには長い年月が必要だった。今、私はこう考えて
いる。「闘魂」とは己に打ち勝ち、闘いを通じて自分の
魂を磨くことである――と」

2日間で38万人が来場。北朝鮮国内のテレビ視聴率は
99パーセント。猪木は、政府高官から「一夜にして反
日感情がなくなった」と言われました。

「力道山は韓国でも英雄だ。だから北朝鮮、韓国、日本
というのは、力道山という英雄によって結ばれたトライ
アングルなのである。民族問題で苦しんだ力道山が、国
境を超え、時代を超えて語り継がれる存在になった。私
は感無量だった。これで力道山の恩に報いることが出来
たと思った。プロレス入りして35年、力道山が死んで
からは32年だ。もうプロレスで思い残すことは何もな
い。事実上、あの北朝鮮のリングでアントニオ猪木は引
退したのだと思う。だからあの日、力道山の故国北朝鮮
のリングの上に、私は特製のガウンを置いて来た」






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Last updated  2019.05.17 10:07:53
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