348252 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

こんにちは♪ ス~ジ~です♪ 

こんにちは♪ ス~ジ~です♪ 

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Freepage List

Favorite Blog

愛聴図鑑 ベストヒットさん
エデンの南 SEAL OF CAINさん
レコードとCDの出… ざと9901さん
ペガサスノート アヴィニョ〜ンさん
ガムザッティの感動… gamzattiさん
BEST-ONE 夏旅行計画さん
安達久美 club PANGA… A・K管理人さん
愛のチューリップ劇場 amadeusjapanさん
高須基仁の"百花繚乱… mot's高須さん
我が道を行く・・・ a tempoさん

Comments

 背番号のないエース0829@ Re:アロハ・フロム・ハワイ( 「堂々と公演 !! ~ 沖縄県立八重山農林…
 mikamieiji@ 先程の話に就いて 先程の話を読ませていただきましたが、最…

Keyword Search

▼キーワード検索

2007.08.09
XML
テーマ:韓国!(16895)
カテゴリ:韓半島
小室直樹 韓国の崩壊

今回は、韓半島分断の歴史を、小室直樹さんの『韓国の
崩壊』(1988年)によって、ふりかえってみたいと思
います。

<何の根拠ももたなかった38度線>
韓国は、いかに誕生したか。それは、韓国を何も知らぬ
アメリカ陸軍の准将が、エイヤと引いた線から創られた
。1945年8月9日の参戦以来、満州(東北)を蹂躙し
、怒涛のごとく南下してくるソ連軍。それを見て胆をつ
ぶした米陸軍の准将が、ママヨッ、ここらへんで食いと
めとけ。こう言って引いたのが、米ソ分割占領線たる
38度線。米軍は、38度線以南で日本第17方面軍を
武装解除する。38度線より北では、ソ連軍が関東軍の
武装解除をする。こう、取り決まった。この米ソによる
分割占領は、8月15日付の連合軍最高司令官マッカー
サー元帥の一般命令第1号である。

38度線。それは、マッカーサーの意志によるものでは
ない。また、ルーズベルト、チャーチル、スターリン、
蒋介石などの連合軍最高首脳が関知するところでもなか
った。

<コリア人民の自治能力不信が生んだ韓国の悲劇>
1943年11月のカイロ宣言において、米英中三国首
脳は、「コリア人民の奴隷的状態に注目し、しかるべき
順序をたどって、コリアを自由かつ独立なものにする」
決意をもつことが宣言された。

1945年2月のヤルタ会談において、ルーズベルト大
統領とスターリン首相とのあいだの個人的な取り決めと
して、コリアを、しばらくのあいだ、米英中ソ四大国の
信託統治下におくことが合意された。ルーズベルト大統
領は、コリア人民の自治能力に信頼を置いていなかった
。コリア信託統治の期間は、1945年12月、モスク
ワ協定において、5カ年以内と定められた。

それにしても、四大国による信託統治にもってゆくまえ
に、「自由かつ独立」な朝鮮政府を作る準備として、臨
時朝鮮民主政府が設立されなければならない。しかし、
臨時政府の設立は絶望的であった。朝鮮独立運動の指導
者たちは四分五烈し、「解放」と同時に、果てしなき抗
争に入っていた。

<朝鮮総督府に朝鮮統治を継続させたアメリカ>
コリア人民の自治能力を信用していないアメリカは、暫
定的に朝鮮総督府をつうじて統治してゆくことに決めた
のであった!!! 米朝鮮占領軍司令官、第24軍団長
ジョン・R・ホッジ中将は1945年9月9日、総督阿
部信行大将以下の朝鮮総督府の日本人官吏の留任を発表
した。これが戦後アメリカのコリア統治である。しかし
、総督府留任には、朝鮮人の反撥がすさまじかった。ア
メリカは、留任命令3日後の9月12日、阿部総督以下
の日本人官吏を解任した。

韓国では、8月15日を祖国解放の日、光陽節として祝
う。日本は圧政者、アメリカ軍は解放軍。その「解放軍
」が圧政者を統治者に任命したのである。このことが、
爾後、韓国の軌道を致命的に決定していくことになった
。何故、アメリカは、かくも狂的な幻影を現実化させた
のか。コリアについて、あまりにも、無知、無関心であ
ったからである。

<韓国・台湾はアメリカの防衛線外だった>
1950年1月12日、アチソン国務長官は、ワシント
ンのナショナル・プレス・クラブで演説した。「西太平
洋におけるアメリカの防衛線は、フィリピン――沖縄―
―日本――アリューシャンを結ぶ線である。この防衛線
に加えられた攻撃に対して、アメリカは全力をあげて反
撃するであろう。ただし、それ以外の地域(韓国、台湾
など)の防衛については、アメリカは特別の責任をもた
ない」。韓国と台湾は、生みの親たるアメリカによって
放棄された。

ときに、共産軍による「武力解放」の絶頂期。1949
年10月1日。毛沢東は、武力によって蒋介石を台湾に
追い払って中華人民共和国を樹立していた。この武力解
放戦争を、台湾へも南朝鮮へも拡大してゆこう。でも、
武力解放戦争を発動したとき、米軍が介入してきたらど
うしよう。これだけが、東欧諸国と中国とを傘下に収め
て意気軒昂たる共産主義者の悩みの種であった。この悩
みの種が、アメリカ自身によって除かれたのである。ア
チソン声明は、満を持して韓国を睥睨していた北鮮軍へ
のゴー・サインであった。

<たった3日で陥落したソウル>
1950年6月25日、日曜日。北鮮軍は、破竹の進撃
を開始した。これを迎撃するつもりの韓国軍は、疾風の
前の枯葉であった。早くも、翌6月26日。「……北鮮
軍の戦車はソウル郊外に迫りつつある。……韓国軍は北
鮮軍に抵抗することができない。……韓国軍が殲滅され
るのは時間の問題である」(マッカーサー元帥のトルー
マン大統領への報告)。翌々6月27日。ソウルは陥落
した。韓国軍は総くずれ。支離滅裂となって潰走中。6
月30日。マッカーサーは、ペンタゴンに報告した。
「もはや韓国軍は組織ある行動ができない。軍隊として
の機能を失った。アメリカ軍だけが、北鮮軍を阻止する
ことができるであろう」。

韓国は、北鮮の軍事侵略を虎よりもはげしくおそれる。
むべなるかな。韓国軍は、1週間で撃滅されるところで
あった。そして、北鮮軍による虐殺につぐ虐殺。朝鮮戦
争(韓国動乱)の最初の1週間こそ、韓国にとって、致命
的後遺症を残した幼児体験であった。もし、このとき、
アメリカが本気になって助けてくれなかったら。韓国人
は、残酷このうえない共産主義者によって皆殺しにされ
ていたかもしれない。少なくとも、自由と繁栄と幸福と
は、決してあり得なかったことであろう。

韓国は、韓国動乱以来、厖大な国費を割いて、国防おさ
おさ怠りない。北鮮軍の奇襲に、たえず怯えきっている
からである。国防が、経済的にまた人材的に、いかに大
きな犠牲を強うるものであるか。それでも、韓国は、国
防の重圧という呪縛から脱せられそうもない。

<北と南の軍事力差は狼と羊ほどもあった>
1950年6月ちょっと前の韓国。餓狼のまえの仔羊で
あった。あまりにも好戦的で、つねに北進を絶叫してい
た李承晩(イ・スンマン)大統領の暴走を危惧したアメリ
カは、韓国に、飛行機、戦車、重砲その他の重火器を与
えなかった。戦闘訓練も、緒についたばかりであった。
通信のための電話線は10マイルもなかった。「オンボ
ロ装備で武装された、ひよこのような軍隊であった」
(ジョン・ガンサー)

韓国軍に対し、北鮮軍の充実ぶりは、くらべものになら
なかった。北鮮軍は、革命の情熱に燃え、ソ連も、必死
になって訓練した。飛行機200機、戦車300台のほ
か、重砲以下の重火器も与えられた。とくに、迫撃砲が
たっぷり与えられていた。韓国軍は、ソ連製のT34・
85型戦車に蹴散らされ、踏み殺された。反撃のしよう
もなかった。たちまち、戦車恐怖が蔓延していった。戦
うどころではない。それゆえに、戦争はもっぱらアメリ
カ軍が引き受けるほかはなかった。

7月8日、韓国に急派された第25師団の師団長ディー
ン少将は、マッカーサー元帥に打電した。「残念ながら
、われわれは、北朝鮮軍の兵力を、兵士の訓練、士気、
装備のすべての分野で過少評価しすぎていたといわねば
なりません」。

<軍内部も乱れきっていた韓国>
朝鮮動乱にさいしての北鮮軍と韓国軍。意気ごみに天地
の違いがあった。北朝鮮の兵士たちは、革命の情熱にた
ぎっていた。中国革命やら東欧革命やら、人民革命の潮
流が絶頂にさしかかっていた時代である。人民革命に、
本気になって身をはって反対する人民がいるなんて想像
も出来ない。北鮮軍の兵士たちは、ひとたび南進すれば
、南鮮(韓国)人民の歓迎をうけるものだとばかり思い込
んでいた。

一方、このころの韓国では、韓国軍や韓国人民の叛乱が
あいついでいた。軍隊叛乱のきっかけは、出動命令拒否
に端を発したものであった。1948年4月3日、済州
島(チェジュド)に暴動が発生。李承晩は、朝鮮南海岸の
要港・麗水(ヨース)の第14連隊に討伐を命じた。第1
4連隊の兵士たちは、南朝鮮労働党(その実、南朝鮮共
産党)の指導下にあった。兵士たちは、同胞に銃をむけ
ることはできないと、命令を拒否したのであった。

1948年10月20日。麗水と順天(スンチオン)で、
軍隊の叛乱が起きた。叛乱軍と政府軍とのあいだには、
60キロにわたって戦闘がなされた。何とか鎮圧したと
思ったら、1週間ほどで、大邱(テグ)でまた軍隊の叛乱
が起きた。韓国軍に叛乱が続出したのは、共産主義者の
活動による。換言すれば、当時の共産主義は、韓国兵士
さえもオルグされるほどの魅力をたたえていたというこ
とだ。

軍隊への共産主義の浸透に愕然とした李承晩大統領
(1948年8月15日、大韓民国の初代大統領に選出
)は、一大粛清にふみきった。10万の韓国軍のうち、
8000人の将兵が粛清の対象に擬せられた。しかし、
この粛清は、あまりにも乱暴であったため、恣意の粛清
を恐れて、北鮮へ逃亡する韓国軍部隊が続出した。アメ
リカが手塩にかけて特訓した2個大隊の最精鋭は、アメ
リカ式の新型武器を持ったまま、北朝鮮へ逃亡してしま
った。これに懲りてアメリカは、韓国軍には、ロクでも
ない兵器しか与えなくなってしまった。

<北の経済力は南を圧倒していた>
韓国動乱(朝鮮戦争)において、北朝鮮と韓国とに天地の
懸隔があったのは、軍事力だけではない。戦前、戦中の
大日本帝国による朝鮮統治において、北の経済力は、南
を圧倒していた。北は工業地帯であるのに、南にあるの
は不毛な裸山ばかりで、工業らしい工業はなかった。昭
和期に入ると、大日本帝国の軍需生産のために、北朝鮮
の工業は、巨大な重化学工業に育成された。

(日本の)朝鮮窒素株式会社は、鴨緑江(アムノクカン)と
豆満江(トウマンガン)を利用して、いくつもの大きな水
力発電所を建設し、この電力を利用して、巨大な軍事産
業を作りあげた。厖大な量の火薬、アルミニウム、ロケ
ット燃料などを日本軍に提供していた。この電力と軍事
生産力が、そっくりそのまま、1945年8月15日の
日本敗戦を機に、朝鮮民主主義人民共和国の手に帰した
のであった。

北朝鮮経済と韓国経済とは、すでに終戦(解放)の時点に
おいて、天地の開きがあった。天地の開きは、その後、
ますます拡大され、韓国では、工業生産は低落を続け、
李承晩政権初年度の生産実績は、日本時代の1940年
当時にくらべ、わずか18.6%という惨憺たるありさ
まとなった。

<北朝鮮からの送電打切りで韓国経済は低迷>
戦前、戦中をつうじて、朝鮮半島におけるほとんどの発
電は北においてなされていた。戦後、北朝鮮・韓国と二
分された後も、はじめのうちは、北朝鮮は、韓国に送電
を続けてきた。その送電を、1948年3月、打ち切っ
た。

韓国経済は、動きが取れなくなった。工業生産の激減は
いうまでもなく、農業生産すら、目に見えて低下してき
た。大都市は、ほぼ停電で、毎日が防空演習みたいであ
った。やむなくアメリカは、航空母艦と戦艦を急派した
。艦載の発電機で、辛くも、韓国の電力需要をまかなっ
たのである。当時のアメリカの航空母艦と戦艦は、まず
重油で発電し、その電力で機関を動かすシステムを採っ
ていた。

韓国経済は、かくも脆弱であった。北朝鮮経済とのあい
だの大きな格差は、1953年の韓国動乱終結後も続い
た。それが、1960年代なかごろを転換点として逆転
した。現在の北朝鮮経済の惨状は、アフリカの飢餓国な
みだ。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2019.05.14 00:18:01
コメント(1) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.