砂漠の果て (第27部「濁流」)彼はそのカーヌーンを見つめながら、この5年間に起きた出来事を回想した。強制収容所から自分一人だけが救出されたこと、シリアの湖畔の病院でデュラック氏にフランス語を教わったこと、17歳の秋ベイルートに行こうとして線路が爆破され、たまたま通りすがった農園主ハッサンに出逢い、夫人のハダナからこのカーヌーンを贈られたこと......また、サイダでムカールに出逢い、このカーヌーンを持って彼と一緒に海の城に行き、地中海、ギリシャ、カイロそしてヨーロッパへの憧れと、ムカールその人のイメージを曲に託して演奏したこと...... あれからどれだけのことがあっただろうかーアイシャと再開してカイロで暮らし、アリも生まれた。でもアイシャもムカールももうこの世にいない......俺はこのカーヌーンをアリに隠して「フランス人」の振りをしてこうしてパリ音楽院で学んでいる。西洋音楽をマスターしても、このカーヌーンを記憶の底にしまい続ける限り、俺の魂はどこにも定まらないー自分自身をアラブでないと偽ったところで、やはり還ってくるのはいつもここだ......この楽器、この音色を自分から消滅させてどうするつもりだったんだろう...... 彼はその楽器の艶やかで細い弦の1本1本を眺めながら、最後にこの弦に触れたのはいつだったかと思い起こそうとした。最初はなかなか思い出せなかった。やがてサハラ砂漠で青い男ル・ラフと共にラティカという女性の回旋舞踊を見ながら何かに取り憑かれたように弾いた、あの時が最後だったと思い出した。 あの時のラティカの鮮やかな舞のスピード、砂漠の暑さとアイシャの蜃気楼での幻が昨日のことのように浮かび上がり、やがてほぼ1年ぶりに1本の弦を弾いた。その響きは細く切なく、何かを彼に訴えるかのようだった。彼はそれらのイメージを渾然一体とさせ、柔らかにメロディを奏で始めた。勘は全く鈍っていなかった。あの時の回旋につれて舞い上がる砂が日を浴びて一粒一粒が煌めいた光景、豪華な天幕、不思議なル・ラフの太鼓の音がその旋律の中に織り込まれていった。 あの時、ナフル・ラファージ......ル・ラフという男は「言葉を変えなければ自分自身を変えられない」と言った。でもアラビア語を一切止めてフランス語で話をしていたって、自分のルーツは一生変わらない。ムカールが亡くなる前にわざわざベツレヘム地方の衣装まで贈ってくれて「誇りを持ってこの文化を受け継いで欲しい」とまで言っていたのに...... 主旋律が完成すると、更に蜃気楼の中のアイシャの姿がイメージとして重なった。彼女の赤いドレスがラティカのドレスのようにくるくると舞い始め、彼女の瞳がアリの瞳に変化した。彼は自分でも信じられないほどのスピードで曲全体を織り上げていった。弾き終えると、この曲をアリに聴かせてやりたいと強く感じたが、なぜかひどく疲れを覚え、今日はもう止めようと思った。部屋の時計を見ると、午後5時半だった。アルブラートは丁寧にカーヌーンを布で包むと、革のバンドで固定し、楽器を肩にかけた。 校舎を出ると、既に辺りは薄暗かった。彼はゆっくりと校門をくぐると、静かに鍵を締めた。途端に背後に何かがぶつかって来た。アルブラートはうっかり鍵を落としてしまった。驚いて振り向くと、まだ子供らしい影が薄暗がりで見えた。構内に入る時に見かけたあの少女だと思いきや、その子は彼の足元から鍵をひったくり、素早くどこかへと消え去った。 ジャン・ニコラから預かったあの鍵を失ってはと思い、急いで少女の走り去った方向へと向かったが、彼の足では走ることはとても無理だった。仕方なく、外灯を手掛かりに校舎を右に曲がり、鍵が見つかればいいがと思いながらゆっくりと歩いた。それはデュラック邸とは反対側だった。やがて5分ほど歩いた所に、ランプを灯した女性が地面に煤けた絨毯を敷き座り込んでいる姿が見えた。その女性の傍には先ほどの少女もいた。 「ほら、やって来たよ、ロザリア」 まだ30歳ほどの女性がアルブラートの姿を目に留め、少女に話しかけた。 アルブラートは戸惑いながら話しかけた。 「さっきの鍵を返してもらえないかな。大事な音楽院の校門の鍵なんだ」 「そう、校門の鍵なの。知っているよ。あんたは私が娘に命じて盗んだとでも思っているんだろう。私らはジプシーだから。でもあんたもそうだ。あんたの母親もジプシーだっただろう」 アルブラートはいきなり真実を言われてはっとした。 「なぜそんなことを知っているんだ―」 「私らには何でも分かるよ。私は碧水晶を持っているからね。ほら、あんたが持っているのと同じ物だろ。それであんたという人物が全部お見通しなのさ。あんたはとんでもない物をアブドゥルカリームからもらったもんだね。便利な物とでも思っているだろうが、下手すると自滅を招くからね。大事に抱え込まないで、骨董品屋にでも売っちまいな。あんたの親友のジャン・ニコラがそうしたようにね。」 アブドゥルカリームやジャン・ニコラのことまで知っているということに薄気味悪さを覚えつつ、彼は外灯とランプの明かりで彼女をじっと見た。ジプシーと名乗っているが、それほど薄汚れた様子もなく、寧ろ顔立ちは自分とほぼ同じアラブ人に近く、美人な方だった。煌めく縁取りを細かに施した刺繍入りの赤いヴェールを長い黒髪の上から被った女性だった。 「私はロザリ・ヴェラ。あんたのお祖父さんが育った部族と親戚なんだよ。いきなりこう言われても信じられないだろう。でもデタラメは一切ないからね。ロザリアに鍵を取らせたのは、あんたに大事な話があったからさ。あんたの大切な友人と、あんたのこれからの身の上についてのね」(2015.5.10 uploaded) ジャンル別一覧
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