|
カテゴリ:人生について
ビジネスマンなら伝記ものってよく読むとおもう。 立志伝中のひとを知っておくのは、 日本ではある意味たしなみ的なとこもあるしね。 でも、意外に真実は違ったりする。 ぼくの知ってる範囲でおもうことをちょっと書いてみます。 週末なんで軽くおつきあいください^^
ぼくの実家のある浜松周辺は、浜松商法と呼ばれるように、 いろんなものを受け入れ、前向きにチャレンジする風土がある。 こまかいことは気にしない。 瑣末にこだわることを嫌う風があり、 こだわらないよ!という意味で、ぼくらはよく、 「とんじゃかない」 と言う。 頓着ない、という語からきてるのかな?分からない。
浜松地域は不思議と創業者が多い。 ホンダ、ヤマハ、カワイ、スズキ、浜松ホトニクス… トヨタの創始者佐吉翁も実はそう。 人口2,30万だった時代にこんな騒々しい町は他にない。 おもしろいのは、浜松でものづくりをするひとは、 浜松を市場にかんがえてない。 本田宗一郎も浜松でバタバタをつくって全国へ売りながら、 東京に事務所をつくって、もっと売ってやろうとかんがえた。 まあNo.2の藤沢武夫は中央志向があって、その影響もある。
その藤沢武夫。 世間では藤沢さんなくしてホンダはなかったと言われている。 宗一郎はバイクづくりしかわからず、 実質、藤沢さんが社長だったと。 まあ、ある部分はそうかもしれないけど、 浜松市民はこの話にちょっと違和感がある。 どこに違和感があるのか? まず浜松人の感覚が全般的に、 藤沢武夫をあまり認めたがらない。 浜松人の感覚でいくとおそらくこうなる。 「彼はものづくりをして成功したわけじゃないでしょ」と。 藤沢武夫でなく本田宗一郎に絶対的な愛着があるのは、 その「ものづくり」の成功者という点がひとつ。
もうひとつは、藤沢武夫の人間性。 こう書くと、「すばらしい経営者じゃなかったの?」 と言われそうだけど、功罪あったひとだった。 たとえば、もう知るひとは少なくなったけど、 じつは、藤沢は宗一郎と対立していた。 浜松では、その伝聞はいろいろ残っている。 たとえば、藤沢は資金運営を一手にまかされ、 草創期の宗一郎を救ったことはまちがいない。 でも藤沢というひとは、じっさい功名心が非常に強く、 その功績を吹聴してまわった。 浜松人はこういうのを好かない。
藤沢は「人殺し以外なんでもやった」と本人が言うくらいだから、 当時はそうとう苦労した部分もある。 もともと個人で闇ブローカーをしていたひとだから、 その時代の逸話もかぶって語られてちょっと損してるとこもある。 宗一郎の知らないとこで、そうとう苦労したのだろうけど、 世間の人気は宗一郎へむかう。だから、 宗一郎信仰が、藤沢の現実の行動も屈折させたんだろうね。 藤沢はとちゅうから、 宗一郎をひきずりおろすことを画策するようになった。 宗一郎へ露骨に、社長を交代するように迫りはじめた。 この確執はホンダの古い社員ならみんな知っている。
確執という表現はちょっと違うかな。。 じっさいには、藤沢が宗一郎に屈折した感情を持っただけで、 宗一郎は藤沢と仲たがいしたとはおもってなかったようだから。 でも、そんな権力志向の藤沢を、 うまくコントロールしたのは宗一郎だったとおもう。 だから、宗一郎はただのバイクづくりのおやじじゃなく、 意外に高級なモティベートができたのかな。
宗一郎の頑固さに反発して辞めるひとも多かったようだけど、 人づきあいが不器用では決してなく、宗一郎は分かっていて、 創業者精神というフィルターにかけて、 現場育成をしたんじゃないかな。 向かないひとは去って行った。 ぼくは創業期にはこれが非常に大切だとおもっている。 宗一郎の理念では、次の社長は現場からという意思があり、 機械バカのふりを一身にしつづけて、 藤沢との距離を絶妙にコントロールした風がある。 陽性でからっとした性格は、多くのひとに好かれた。 経営にタッチしなかったけれど、 創業者の使命はよく理解していたとおもう。 つまり、社長の使命は後継者を決めること。
宗一郎には、 藤沢にはぜったいに継がせてはいけない、という意思があった。 だから、二人そろって退陣、という美談には、 いろんな意味があった。 締めをきっちりできたことは、 宗一郎のもっと評価されていいとこだとおもう。
宗一郎は、本田技研をつくる前に、 従業員1000人くらいのピストリングの会社をつくったこともある。 じきにトヨタへ売ってしまい、その資金で技研をつくった。 ヤマハへも技術協力した。 この時期の浜松は、こんな「とんじゃかない」風土だった。 経営感覚のないひとが、1000人の会社をつくれないはずだから、 宗一郎は技術屋としての才能と、 組織運営としての天才的なカンも持っていたんだとおもう。
ひとつ完成すると、リセットすることになんのためらいもない。 また自由な環境であたらしいことに集中する。 宗一郎は技研でものづくりに専念したけれど、 本来、経営者としての天賦のものは持っていたんじゃないかな。 ある時期は、藤沢という人間と歯車が合い、 ともに同じ方向へ成長できたことはまちがいない。
浜松では、ぼくのおやじ世代のかたは、 いまでもバイクのことをポンポンと呼ぶ。 おなじ地元のヤマハやスズキであっても、 小型のバイクはみんなポンポンだ。 宗一郎の同時代を知るひとはみないなくなり、 それを伝え聞いたひとも少なくなって、 いつしか浜松のものづくり産業は静かな時代に入ってしまった。 宗一郎がポンポンを走らせた市内の坂道はいまも残っていて、 いまは静かなオフィス街になっている。 宗一郎がかよった花街は、もうない。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Mar 6, 2011 05:34:45 PM
[人生について] カテゴリの最新記事
|