TPP問題ー「開国モード」のすすめというが食糧の確保対策は出来ているのか?
「開国モード」のすすめ: 冨山和彦(経営共創基盤CEO)2011年1月1日(土)13:00 Voice2010年末来、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)をめぐって平成の開国論争が沸き上がっている。菅政権の腰は必ずしも定まらないようだが、この問題はこれからの「この国のかたち」、日本再生に向けていかなる国家モデルを選択するかにあたり、もっとも重要な分岐点の一つである。私は、長い日本の歴史において、国論を二分するほどの根本的な政策対立軸の一つは、まさにこの開国か? 鎖国か? にあったように思っている。仏教受容問題から大化の改新や壬申の乱を経て、日本型律令国家体制が整う奈良時代中期までの混乱の150年間。その底流には、当時の先進文明圏で、政治的な脅威でもあった中国(隋・唐)システム導入の可否をめぐる国内の対立があった。その後の安定期、再び日本は鎖国モードに移行するが、平安末期の源平争乱期には日宋貿易など大陸との交易が盛んになり、開国、海洋国家モードの色彩が濃くなる。そして源氏政権が確立すると、農本主義的な鎖国モードの安定期へ。室町末期から戦国期は、西欧との交易も含めた開国期だし、明治維新や戦後はいうまでもない。日本人は社会システムの寿命に応じて巧みに国のかたちを「開国モード」「鎖国モード」に切り替え、長きにわたる独立と繁栄を持続してきた。いま、私たちが対峙している歴史的な問いも、これから日本国をどちらの方向に振っていくかということになる。私は、戦後の開国モードは、じつは万国博覧会と札幌オリンピックがあった1970年代前半にピークを打ったと考えている。このころから日本人は日本的なるものに強い自信をもちはじめたし、日本製品が世界に溢れ出すのもこのころからである。だから、国を開いて海外の文物を取り入れる、あるいは海外で学び、働いて、世界と肌感覚で触れ合おうという気分は、あのころをピークに衰えていったように思う。私が留学した90年代初頭、日本人留学者は数ではピークだったが、当時はジャパン・アズ・ナンバーワンの時代。開国モードというよりは、やや帝国主義的に日本的なるものを世界に喧伝する空気だった。むしろ攘夷モードである。バブルの膨張と崩壊。その後の長期停滞。背後で続く少子高齢化の進行。こうした問題の底流には、戦後、私たちがつくりあげた諸々の社会システムの耐用期限切れがある。男性は終身雇用と年功制で生活給を企業に保障され、女性は専業主婦として子育てに励む。海外との関係では、加工貿易立国モデルを採用し、工業製品とその原材料中心の限定「開国モード」。人口増加と女性の社会進出が限定的であるという暗黙の前提に、すべての経済社会システムが過剰進化し、それを彌縫策で延命させてきたのが現代日本の姿だ。ところがその前提は崩れ去り、加工貿易モデルも、新興諸国が類似モデルで追い上げてくると、開国の限定性が大きなハンディキャップとなり苦境に陥りつつある。そしてトータルなシステム不全のツケは、巨大な公的債務として次の世代に回っていく。再び「開国モード」に転じ、経済社会システムを大きくモデルチェンジしなければ、この国は私たちの子供や孫の時代までもたない。いうまでもなく日本は瑞穂の国。長い歴史と伝統の農耕型社会であり、ムラ(マックス・ウェーバーの言葉を借りれば「ゲマインシャフト」)が社会構造の基本にある。ムラはある時代は、文字どおり「村」だったし、いまはカイシャかもしれない。同質的で、安定的な相互依存状態を好む遺伝子のようなものが私たちのなかにはあるのは確かだ。国を開くと、そうしたムラが崩壊し、異質なものによって平和な生活が破壊されるのではないかという恐怖感は、どの時代の日本人にも共通にあったように思う。TPPをめぐる農業問題は、これが瑞穂の米問題に関わるだけに、まさに日本人の琴線に触れる。しかし過去の開国モードの時代においても、日本の根底的なアイデンティティーは強靭だったのではないか。仏教、律令制度、近代では西洋の諸制度、最近では米国の大量生産技術も、それを受け入れつつも、みごとに日本化して新しいシステムや方法論を創造している。日本製造業のお家芸ともいうべきTQC(全社的品質管理)も、デミング教授らが戦後、米国から日本に持ち込んだSQC(統計的品質管理手法)を、日本人自身の手でボトムアップ型、現場主導型の品質管理手法に飛躍的に進化させたもの。まさに変幻自在、融通無碍ながら、その底流にある遺伝子は揺るがない。私はそのことにもっと自信をもっていいと思う。そう、勤皇開国か、尊皇攘夷かの選択にあたり、最後に問われるのは、日本人自身が、日本人の潜在力にどれだけ自信をもっているかだ。いまから約50年前、特定産業振興臨時措置法案が大きな政策論点となる。欧米に対抗して、わが国の自動車産業を振興するには、プレーヤーの数を絞るべきで、ホンダの四輪自動車新規参入などとんでもないという法案だ。城山三郎の『官僚たちの夏』のモデルになった話である。結果的にこの法案は廃案となり、ホンダは4輪に本格参入する。当時の日本の国家理性は、町工場上がりの本田宗一郎という日本人を信じたのである。その後、ホンダは1972年に当時達成不可能といわれた米国マスキー法の環境基準を、CVCCエンジンによって世界で初めてクリアする。これがそれまでの「安かろう悪かろう」の日本車のイメージを一変させ、日本の自動車産業は米ビッグスリーに押し潰されるどころか、逆に北米市場を席巻していった。TPPに関わる農業再生の問題も、最後の最後は同じ問いに帰着する。私たちが、これから未来に向かって命がけで農業に挑んでいく日本人を信じるかどうかである。日本各地の産業の最前線、きわめて厳しい状況で頑張る人びとと共に戦ってきた私自身の結論は明確。私は、かつて勝海舟や坂本龍馬がそうであったように、日本人を、日本の若者を信じている。 自由貿易協定提供:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』自由貿易協定(じゆうぼうえききょうてい、英: Free Trade Agreement, FTA)は、物品の関税、その他の制限的な通商規則、サービス貿易等の障壁など、通商上の障壁を取り除く自由貿易地域の結成を目的とした、2国間以上の国際協定である。