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2012/09/22
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カテゴリ:古代史系の妄想
以前、加治木義博氏の著書の中で、
「斉明天皇と高句麗の宝蔵王と百済の扶余豊璋は同一人物」
なる説を読み、宝蔵王と扶余豊璋は女性だったのか?
と驚いた記憶があります。

確かに「斉明天皇」は生前そう呼ばれたわけでなく、即位前は「宝皇女or宝郎女」、即位後は、
「天豊財重日足姫尊」です。

「ほうぞうおう」と「ふよほうしょう」と「あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと」

整理すると、

1.舒明天皇が641年崩御後、皇后である皇極天皇(のちの斉明天皇)が即位しますが、舒明天皇は皇極天皇の父親の弟にあたるので、「姪」でもあります。

叔父から姪への皇位移行。

2.高句麗の宰相「淵蓋蘇文」は栄留王をクーデターで642年惨殺し、栄留王の「甥」の宝蔵王を王位につけます。

伯父から甥への王位移行。

3.百済の武王は641年に薨去します。息子の義慈王が跡をつぎますが、百済は滅亡。
再興のために義慈王の兄弟の「鬼室福信」が日本に人質としてとどめ置いた義慈王の息子で「甥の扶余豊璋」を王にします。

父から子へ、兄(弟)へ、そして甥への王位移行。

つまり、倭国王&高句麗王&百済王であった「舒明天皇」は崩御に、姪の「宝皇女=宝蔵王」が倭国王&高句麗王になります。

しばらくして百済は滅亡してしまうので、再興のため「宝皇女=宝蔵王=扶余豊璋」が百済へ向うという筋書きです。

宝蔵王が682年薨去ですから、斉明天皇はもう少し若かったと思います。

年齢的にも斉明天皇は天智天皇の実母ではなく、継母、天智は斉明の養子ではないかと思います。






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Last updated  2012/09/22 06:03:56 PM
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