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2017.02.21
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カテゴリ:美術

京都美術工芸大学2016年度教養教育科目

技芸と文学(Arts and Literature) ⑨仏教

201702210224 園部キャンパス 河野元昭

 

世界三大宗教 仏陀 釈迦牟尼 ゴータマ・シッダールタ

紀元前500年頃説 紀元前400年頃説 紀元前1000年頃説 享年80

カピラヴァスツ町 ルンビニー 生老病死 輪廻 解脱 涅槃 

マガダ国マウリア朝アショカ王(阿育王)

部派仏教(小乗仏教)→大乗仏教 密教

13世紀初頭インド仏教滅亡 東アジア・チベット・東南アジア

伊藤若冲(17161800) 奇想派 大岡春朴(町狩野)宋元画 明画 物 写実 沈南蘋 琳派 鶏絵 筋目描き 升目描き

「動植綵絵」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

「升目描き屏風」(静岡県立美術館 エツコ&ジョー・プライス氏蔵)

 

河野元昭「若冲と草木成仏思想<末木文美士『草木成仏の思想』>」

 446000人を集めた東京都美術館の生誕300年記念「若冲展」については、すでに2回にわたりこのブログでおしゃべりをしました。その一回目では、「僕の一点」として若冲畢生の傑作「動植綵絵」を取り上げ、つぎのように吐露したことでした。のシリーズの思想的背景としては、山川草木悉皆成仏という仏教理念が指摘され、それがほぼ通説となっているといってよいでしょう。もちろん否定はできませんが、そこまで拡散させなくても、若冲が生涯心を寄せて止まなかった禅の教えだけで、充分説明することができるのではないでしょうか。つまり不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏という4つの根本理念だけで、もっと直接的に解釈しうるのではないかという、かつて心に浮かんだ牽強付会なる思いつきを書いた次第です。あまり反応はありませんでしたが、約お二人の方から、おもしろかったよというメールをいただけたのは、望外の喜びでした。

そのときお約束した末木文美士さんの『草木成仏の思想 安然と日本人の自然観』(サンガ 1015年)を、先日読んでみたところ、きわめて多くのことを教えてもらうとともに、共感を覚えるところが少なくありませんでした。末木さんは、かつて僕と同僚だった仏教学者ですが、定年のあと国際日本文化研究センターに移り、多くの書を著すとともに、積極的に社会的発言を続けていらっしゃいます。『草木成仏の思想』は、日文研における最後のお仕事のようですが、何はともあれ、その内容を紹介することにしましょう。

1章 「山川草木悉皆成仏」という言葉は、1986年、中曽根康弘首相が国会の施政方針演説で使ったところから流行したものであるが、仏典のなかにこの言葉は見出せない。「草木国土悉皆成仏」という言葉はあるが、日本の仏典のみで、インドや中国には見られない。この初出は証真の『摩訶止観私記』と考えられていたが、それより早い安然の『斟定草木成仏私記』という著作の中にある。安然はこれまでほとんど知られていないものの、9世紀後半に活躍した天台の僧侶で、最澄・円仁・円珍を受けて、天台密教を完成させた大思想家である。しかし詳しいことはほとんど分かっていない。

2章 『斟定草木成仏私記』の内容を概観検討し、草木は自発的に発心・成仏するという安然の草木成仏説を明らかにする。なお巻末には、付録として『斟定草木成仏私記』の現代語訳が添えられている。

3章 安然円熟期の大著である『真言宗教時義』や『菩提心義抄』を取り上げ、安然が草木成仏説を唱えた理由とその論拠を具体的検証する。その際、重要なコンセプトとして真理の根源とも言うべき「真如」に焦点が絞られる。

4章 安然を視野に収めつつ、もう少し大きな視点から、日本の草木成仏論を考察する。とくに、日本天台における草木成仏論とそれを批判する動向を紹介し、さらに空海や道元の場合をまな板の上に乗せている。

5章 このような自然観の延長として、東日本大震災を契機に切実な問題となっている自然災害をいかにとらえるべきかを考察する。東日本大震災のあと、石原慎太郎東京都知事が、震災は天罰だと言って物議をかもした。そのとき末木さんは、ただちに与するわけではないが、そのような見方を無視してはいけないのではないか、ということを『中外日報』に書いた。それに対し、ネット上で炎上するほどの批判が相次ぎ、活字メディアでもたたかれたという。その経緯とそれへの応答は、すでに『現代仏教論』(新潮新書 2012年)にまとめられている。仏教を中心とした日本の災異説をみると、自然災害をただ自然現象と見るのではなく、その中にみずからの行為を反省し、身を正していこうとするベクトルが見られる。もちろん非科学的なところも多く見られるが、すべてを科学的に解釈してしまうのがよいかどうか、改めて問い直さなければならないと末木さんは結論付けている。

僕がもっとも興味深く読んだのは、第4章「日本人の自然観と草木成仏」でした。日本人の自然観については、すでに名論卓説少なからずというところですが、ぜひ本書をこれに加えたいと思います。本書の内容を僕的に解釈すれば、草木成仏論は日本人の観念や自然観をよく象徴するものだということになります。まず「草木国土悉皆成仏」について考えてみると、日本の仏典だけにあって、中国にもインドにもないというのですから、ここには日本的な仏教感が表れていることになります。「草木」も「国土」も成仏することができるということは、つまりあらゆるものすべてが成仏できるということになります。それはすべての民衆を救おうとした鎌倉新仏教と通い合うところがありますが、鎌倉新仏教こそ、本来の仏教を日本化した独自の和風仏教であったことは、改めて指摘するまでもありません。

あるいは、あらゆるものに聖性・神性を見出そうとした原始神道に近似するといってもよいでしょう。さらに視点を広げれば、日本人の現実肯定的な国民性にもたどり着けそうです。少し意地の悪い言い方をすると、日本人の無原則的傾向や「いい加減主義」とも無関係ではないということになります。もっとも、「いい加減」とはは「良い加減」のことだという説もありますが、「草木国土悉皆成仏」という観念こそ、日本仏教の象徴だといっても過言ではないのです。それでは「山川草木悉皆成仏」はどうでしょうか。本来の「草木国土悉皆成仏」における「国土」とは「仏国土」の意味であり、仏教をよく知らないと理解できません。しかしそれが「山川草木悉皆成仏」という、分かりやすいフレーズに言い換えられて流布したという事実も、大変興味深く感じられます。

「山川草木」という言葉自体は、漢籍にも仏典にも神道書にも見えるそうですが、「山川草木悉皆成仏」と言えば、感覚的な馴染みやすさがより一層強まることになります。深い意味など考えなくても、すっと心の中に入ってきて、何となく分かったような気分になります。このような感覚的理解を好むのが日本人の性質であることは、すでに常識に属するところです。ところで末木さんは、「日本人は自然を大事にして、自然と共存してきた民族で、それが日本人のすばらしいところだという日本人論的な言説」を、おかしな自己賛美として否定しています。しかし、素晴らしいかどうかは別として、近代以前において、日本人が自然と共存してきたことは認められるべきだと思います。たとえ認められないとしても、「山川草木悉皆成仏」という一句に、日本人的な自然観や宗教観が込められていることは、否定できない事実のように感じられます。末木さんも、「確かに草木成仏という問題の取り上げ方は日本の仏教に独自のところがあるともいえる」と、消極的には認めているのですから……。

そうだとすれば、日本人の画家である若冲が、山川草木悉皆成仏という仏教観に共感を寄せた可能性は充分想定されますし、その彩管になる「動植綵絵」に、山川草木悉皆成仏的感覚が満ち溢れていることは当然のことになります。先に否定できない事実だと言った通りなのです。これを「草木国土悉皆成仏」を描いたものだと言えば、出典の明らかな一句だけに、真摯な仏教者であった若冲により一層ふさわしくなるかもしれません。どうしても使うなら、「草木国土悉皆成仏」の方を選ぶべきでしょうが、これらに「草木」が登場することを、改めて注意したいと思います。中国において仏性の有無が問われるとき、「趙州狗子」や「南泉斬猫」のように動物が登場します。イヌやネコのような動物なら、まだ話も分かりますが、感情を持たない植物に仏性を認めるとは、どういうことなのでしょうか。四季折々に変化する植物をたたえて止まない日本人の感性がそこに看取されるなどと言ったら、あるいは末木さんに叱られるでしょうか。

しかしいずれにせよ、禅における4つの根本命題から解釈した方が、「動植綵絵」の背景へより直接的に迫れるのではないでしょうか。結局このような僕の思いは、末木さんの『草木成仏の思想』を読んでも、あまり変わりませんでした。長々と駄弁を弄してきましたが、所詮このような問題は、ニーチェが言ったように、「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」ということになります。僕は「真実というものは存在しない。存在するのは真理だけである」と以前から言ってきましたが、やはり比べてみると、僕よりニーチェの方がやや優れているようです!? ニーチェの名言は、このあいだ鷲田清一さんが『朝日新聞』の「折々のことば」に引用していましたが、「アホになれん奴がほんとうのアホや」と同じように、物事の本質を突いています!?

ちなみに、末木さんが災害天罰論を寄稿したという『中外日報』は、去年僕も法華宗と近世美術の関係について、拙論を載せてもらった宗教新聞です。末木さんほどの大宗教学者と同じ新聞に、僕も宗教論を書いちゃっていたんです!?

(「K11111のブログ」)






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最終更新日  2017.02.21 09:27:46



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