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2008.11.20
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カテゴリ:カテゴリ未分類
最近、ちょっと気になって難しい本に手を出してます。今回は「沖縄ノート」(大江健三郎著、岩波新書)。

僕は沖縄へなんのために行くのか、という僕自身の声の内部の声は、きみは沖縄へなんのために来るのか、という沖縄からの拒絶の声にかさなりあって、つねに僕をひき裂いている。穀つぶしめが、とふたつの声が同時にいう。そのように沖縄へ行く(来る)ことはやさしいのか、と問いつめつづける。いや、僕にとって沖縄へ行くことはやさしくはない、と僕はひそかに考える。沖縄へ行くたびに、そこから僕を拒絶すべく吹きつけてくる圧力は、日ましに強くなると感じられる。この拒絶の圧力をかたちづくっているもの、それは歴史であり現在の状況、人間、事物であり、明日のすべてであるが、その圧力の焦点には、いくたびかの沖縄への旅行で、僕がもっとも愛するようになった人々の、絶対的な優しさとかさなりあったしたたかな拒絶があるから、問題は困難なのだ。

伝わるかな、このネバネバ感。体にまとわりつくような感覚。この感覚が最後まで続きます。これを読んだあと、大江健三郎という人の他の作品を読んでみたいとは、自分は思いませんでした。

とにかくある問いをめぐっていろんな角度から追求し続ける。しつこいくらいに。初版は1970年9月。すでに38年前の文章ですが、それでも著者の問いには今でも考えさせられるものが多くあります。

根っこにある問いは次のこと。

日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか

「このような日本人」の属性について本の中にちりばめられています。

沖縄の、琉球処分以降の近代、現代史にかぎっても、沖縄とそこに住む人間とにたいする本土の日本人の観察と批評の積み重ねには、まことに大量の、意識的、無意識的とをとわぬ恥知らずな歪曲と錯誤がある。それは沖縄への差別であることにちがいはないが、それにもまして、日本人のもっとも厭らしい属性について自己宣伝するたぐいの、歪曲と錯誤である。

「観察と批評」という書き方には、著者の細やかさを感じました。つねに本土の日本人は沖縄とそこに住む人間に対して外から見る立場に居つづけている。今もなお・・・。

それに対し、沖縄人は「拒絶」という態度をとる。そうそう本文には拒絶、そして沈黙、そういう言葉が繰り返し出てきます。

…日本人とは、多様性を生きいきと維持する点において有能でない属性をそなえている国民なのではないか、という疑いがあることもまたいわねばならない。多様性にたいする漠然たる嫌悪の感情が、あるいはそれを排除したいという、なかば暗闇のうちなる衝動がわれわれのうちに生きのびているあいだ、現になお天皇制が実在しているところの、この国家で、民主主義なるものの根本的な逆転が、思いがけない方向から達成される可能性は大きいだろう。

これだけだと何を言いたいのかよく分かりません。それについてわざわざ書かないでおこうと思います。でも「多様性の排除」ということがさまざまな日常で表れていないか、あらためて確認してみたいと思いました。

著者もこうした属性は常に自分も抱えていることに自覚的です。そういう書き方が、ある時はあまりにもきれいすぎて、もしかすると「偽善的」との批判を受けるかもしれません。でも自分としては、そのような著者批判よりも、この文章の内容について考え続ける方が有益な気がします。

具体的な知識の欠如、想像力の欠如
…そのふたつに支えられることによって、荒あらしい政治的操作が人間の肉体と精神におよぼすところのものについて、道徳的に鈍感ですましうるという実状がある。

「想像力」という言葉もよく出てきます。当時でも鈍感さはすでにあらわになっていて、「いま広島に核基地があるとしたら、あなたがたはどのように感じるか? 沖縄で、われわれが体験しつづけているのは、まさにそのようなことです」(仲宗根政善の言葉)と言わなければならない状況だった。

「想像力」については当時以上に今問題となることだと自分は考えています。読書館(1)で書いたように当時はまだ「戦前を引きずっていた戦後」です。しかし今はもう「あの戦争」では通じない世代が主流をしめる時代。もちろん自分も。そうなったとき「想像力の欠如」は最悪の欠陥となりうるかもしれない。

一般に日本人が、あいまいな、欺瞞くさい言葉にたいして、科学的・実証的にくいさがることをしないタイプの精神であり、しかもそれでいて不安におそわれることもないのは、日本の「中華思想」的感覚が、その論理化されない暗部にとぐろをまいており、いやそのままあいまいにしておけばうまくゆくのだし、疑心暗鬼になることは「中華思想」の外にはじきだされた弱小者のやることだと、根拠もなく鼻であしらっているような内実があるからではあるまいか?

世界の中心としての日本、少なくともアジアの中心としての日本という感覚を指す「中華思想」的感覚がもたらしているものを著者は繰り返し指摘しています。上の文章は直接は民主主義を要求する沖縄からの声に対する本土の日本人の反応を描いているようなのですが、それはやがてアジアへの眼としても姿をあらわす・・・。

真の武器たりうるかもしれなかったものへの手掛かりを自分から放棄して、赤裸の徒手空拳のまま、ぼんやりと立っている日本人は、あいかわらずアメリカの核専制王朝の脆弱きわまりない泥の舟に乗っており、その正面にいかなる幻想も持つことのない、真の中国と真の朝鮮の民衆が、あからさまな、しかも正当な敵意をこめて立っているのである。そのような状況のうちなる日本を、誰が、沖縄化した本土というような、責任の所在のあやふやな言葉でおおいかくしえよう?

「沖縄化した本土」ってどういうことを指すのか、無知な自分にはいまいちよく分からないのですが、米軍支配下にある沖縄に向かって「本土の沖縄化」反対というのは確かにやや冷酷な印象を受けます。とすればだれが何を追及する言葉なのか?それが「責任の所在のあやふやな言葉」ということなのでしょう。

今回はここまで。





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Last updated  2008.11.20 16:49:36
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