Bellissima ベリッシマ
BSでやってた、ヴィスコンティの映画。 1951年。 で、Bellissima と聞いて、何を思ったか、というと、ドニゼッティの「愛の妙薬」の一場面。 ネモリーノが、ドットーレから「愛の妙薬」(じつは、ただの安ボルドー)をやっと手に入れて、酔っ払っていい気分で出てくるあの場面。 手に入れたとはいっても、実は、恋敵のベルコーレ軍曹の率いる軍隊に入隊することで得た金で買った妙薬。 それを飲んで、いい気分で現れる。 そこで「E Bellissima!」(E のうえに チョボがある) と歌うところがあって、ベリッシマ という音がリンクしたってわけ。 (Bellissima は、belloe の絶対最上級。映画の中では、「美少女コンテスト」とも掛けてある。「もっとも美しい女性」という意味だと、ネットの映画解説には説明してある。たぶん、主人公である母親((マッダレーナ))のことを言っているのだろう。が、どうもそれだけじゃないと、思ったり) で、映画を見始めると、のっけから、「愛の妙薬」の曲が。 「美少女コンテスト」出場者募集のラジオ放送で流されているのだ。 「ネモリーノの叔父さんが死んで、遺産が転がり込んでくる、で、今やネモリーノは村一番の金持ち、村の名士」とジャンネッタが村娘たちに言いふらす、あの曲だ。 さっきの「E Bellissima!」 につながる、直前の場面になる。 そうすると、やっぱり、ネモリーノの「E Bellissima!」 がどうしても思い浮かんで、映画のタイトル、また、「美少女コンテスト」ともかさなってくる。 それだけでなく、随所に「愛の妙薬」の曲が、多くは変奏されてだが、BGMで使われている。 とくに、ネモリーノのアリア、第一幕のっけのあの「Quant e bella,quant e cara!」。 これは、ネモリーノが片思いしているアディーナを遠くに見て、「なんて、綺麗でかわいい人だ・・・」とため息混じりに恋い焦がれている歌。 要するに、大切な人を想う歌。 その曲が、この映画でもここぞというところに使われていて、、、泣けてくる。。。 歌詞も映画の内容とリンクするところがあったり。 映画は、どんな内容かというと、イタリアの下町の、教養もない、あまり裕福ともいえないウチの母親(マッダレーナ)が、五歳の娘(マリア)を「美少女コンテスト」に優勝させて、女優にしよう、と奮闘するって感じ。 今で言う、ステージ・ママってやつの卵ママですか。 で、いろいろあって、最終選考のフィルムテストまで進む。 フィルムを見るのは関係者だけというのを無理を言って見せてもらうまではいいが、そこで、娘がスタッフの笑いものにされてる。 自分にとって一番かわいい、一番大切な娘が・・・。 マッダレーナにとっては、娘のマリアこそが、何があっても、Bellissima なんだよね・・・。 そのあたりで、この「Quant e bella,quant e cara!」が流れていたような・・・。 いや、ラスト。 娘が眠っているところ、ここで使われていた。 この「Quant e bella,quant e cara!」、ちょっと日本語にすると・・・(音楽の友社のテノール1 参照しながら) なんてかわいい、綺麗な人! 見れば見るほど、好きになる。 でも、彼女はほんのちょっとでもこっちを向いてさえくれない。 彼女は、本を読んで勉強し、自分のものにして、知らない事なんて何もないくらいだ。 それに比べて、僕ときたら、ほんとうに愚か者で、ため息をついているくらいが関の山。 なんてかわいい、綺麗な人! ・・・ と、「愛の妙薬」のネモリーノの立場での訳。 でも、これ、「僕」を「私」、つまり、映画のマッダレーナにすれば、まさに、マッダレーナの気持ちそのまま。 娘を女優にするために、演技の勉強だの、バレエだのを習わせたりもしたわけだし。 「こんなにあなたのことを思っていろいろしてるのに、あなたときたら親の気持ちなんかぜんぜんわかってくれない」 と、ちょっと綺麗な言葉で書いたけど、これって、よ~く親に言われた言葉だなぁw 「親の心、子不知」ってやつw それを、イタリア映画らしく、ドニゼッティの「愛の妙薬」を下敷きにして、、、さすがは、ヴィスコンティ!ってねw しかも、「愛の妙薬」とおなじく、喜劇。 マッダレーナにとって娘のマリアが Bellissima だったように、ヴィスコンティにとってはこのマッダレーナが、Bellissima なんだろうね。 で、結局、監督が気に入って映画会社の者が契約のために家にやってくる。 マリアは疲れて、マッダレーナに抱かれて眠っている。 マッダレーナは契約を断る。もう、これ以上、自分の一番大切な娘を笑いものなんかにしたくないのだ。 で、マリアをベッドに寝かせるのだが、ここで、「Quant e bella,quant e cara!」がそのまま流れる。 マッダレーナは、マリアのためと思って女優にしようといろいろとしてきたわけだが、果たしてそれはどうだったのか? それに、ここでこの曲が流れることからすると、マッダレーナは娘のことを理解したわけではないし、たぶん、これからも理解することなんてできないだろう。 かたわらからマリアを見つめて、マリアのことを思って、ただ、ため息をついているだけ。 でも、所詮、親が子を理解するなんて、子が親を理解するなんて、無理な話、とここでここの曲をながすヴィスコンティは、そんな冷めた認識をしているような。 でも、それでいいんじゃないか? と。 わからないままに、わかってもらえないままに、なんてかわいいって切ない気持ちで、かたわらで見つめて、何もできないで、ただため息をついている、親だのなんだのえらそうにいっても、結局、それでいいんじゃないか、と。 そして、それが、なににもまして深い愛情なのじゃないか、と。 そんな映画に思えたわけ。。。 それにしても、ヴィスコンティの音楽の使い方、「ヴェニスに死す」でも「ルードヴィヒ」でもおなじ。