きことわ つづき
きことわ。どうも、最後まで読めそうにない。 退屈。 いくら時間のあつかいがどうのこうの、っていっも、結局、記憶だの時間だのなんて、自分の頭のなかの出来事でしかない。 書こうと思えば、そら、誰でもこのくらい書けるのでは? と思えてくる。 ただ、そのためには、言葉に現実の裏付けがないこと、が条件だろうけど。 きことわ、読むほどに、空虚なうつろな話にしか思えなくなってくる。 まるで、子供が、おぼえたての言葉を、自分の生からくる実感やリアリティもないまま、もてあそんでいる感じだ。 そんな言葉で構築された積み木。 なんかそんなふうに感じられて、読むのがむなしくなって、それこそ、苦役になってきた。 書かれている内容も、なんか、興味も持てない、退屈なことばかり。 なんか、こんなのを、ほんとに、選者のみなさん、圧倒的に支持しちゃっていいの? って思えてくる。 今回の選評で、だんなんの感覚に一番近いのが、なんたることか、僕の嫌いな、石原慎ちゃんだ。(嫌い、というのは、ことに、プチ・ファシストのよう東京都知事慎ちゃん) そのせいか、今まで、選評読むたびに、おいおいって思ってたが、今回は、あまりにも近しい。親しみさえ感じてしまう。 彼の言う「身体性」というのが、僕で言うところの「言葉の現実からの裏付け」とか「生からくる実感やリアリティ」っていうことだ。 とにかく、こういう空虚な言葉の積み木遊びにつきあうくらいなら、ぼ~としてたほうがいいなぁ、と思ってしまう。 だから、たぶん、きことわはこのまま挫折。 ま、好みがあわない、ってことだね。 それにしても、きことわに関して、石原慎ちゃんと近しいということが、かなり、ショックだった(笑 ところで、選者の評、というのもじっくり読むと実はなかなか面白い。 この小説(世界)が、この人にはこんなふうに増幅されて見えてるんだ、とか。 このくらいの表現が、この人にはこんなに大仰に感じられちゃうんだ、とか。 案外、そっちの方が面白かったりして。 でも、だんなん的には、以前のひどい状態(町田康 だの 笙野頼子 だの 平野啓一郎 だの)からすると、ちょっと面白い小説が出てきたような感触。 ただ・・・じゃ、いくらだったら買うか? ときかれたら・・・(そう、だんなんが読んでるのは「文藝春秋」を図書館で借りてきたのだw) きことわ は、もちろん、買わない。 苦役列車、150~200円の文庫本だったら、まあ、買ってもいいかな? 「以前のようなひどい状態」というのは、なんか、こういう感じ。 読む方は、自由な消費者。別に、現代の小説だけが楽しみ、というわけではない。たとえば、だんなんにしてみれば、お茶もありゃ、花もありゃ、ネットもありゃ、映画もありゃ、オペラもありゃ、アニメもありゃ、庭もありゃ、いちまの縫い縫いもありゃ、和歌もありゃ、能もありゃ、ワインもありゃ・・・と楽しみはいろいろある。 この楽しみはもちろん、人それぞれ。 つまり、これらの楽しみに優先順位をつけるとき、ある小説は一体何位になれるか、ということ。 というか、時間と資金が限られている以上、優先順位をつけざるを得ない。 そのとき、この小説は一体何位? つまり、そういういろいろな楽しみと現代の小説は、否応なしに競争しなけゃいけない、一時でも、こちらに消費者の興味をひきつけないといけない、そんな魅力があるのか? って。 以前、幸か不幸か、文学や小説が特権的な時代があって、小説に関わっている人たちはいまだそんな気分が抜けてないんじゃ?って思えるフシがあるような・・・・そんなのが以前には往々にあった。 競争相手は、同業者の小説や作品ではない、まったく別のジャンルのありとあらゆる楽しみ、っていう、そういう現実を認識してるのかな? って思えるようなものだ。 今回の小説は、とりあえず、そういうスタートラインに立っている、と思える、そこがいいと思った。 それに、すくなくとも 苦役列車のほうは、読んで時間を無駄にしたとか、そういう感じもなかった。(とはいえ、告白しよう、実は途中退屈になって、いくらか読み飛ばしたりした)(まあね、読み飛ばされるのも作家の幸せ、とバルトがプルーストについて語っていたから、気を悪くしないで^^)