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2011年07月02日
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人間の尊厳性とは何か

言(ことば)が人間の本体です。言が五官の起源になっているのです。言が働き出すと五官になるのです。言が命の実感として働きだすことを、情緒と言います。働かなければ命とは言わないのです。
言をギリシア語ではロゴスと言います。働き始めるとレーマになるのです。レーマとして働き始めると情緒になるのです。情緒が五つに分かれて働くと五官になるのです。
人間の本質であるロゴスがレーマになって働く。これが情緒となり、五官となって活動を始める。この状警魂と言います。生きている実体がリビングですが、これがソール(魂)になっているのです。これがリビング・ソールです。生きている状態が、そのまま魂です。生きていると、人生という一つの直線が措かれていきます。これが霊です。
機能的な働きの原点を魂と言います。魂が霊を造っていくのです。霊があるから魂が働くと言ってもいいのです。そこで人間の霊は魂の働きを記録しているのです。魂とはどういうものかと言いますと、その本質は生ける神の言葉です。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福書l・1)とあります。これが人間の原点です。人間の尊厳の原因です。
人間の尊厳とは人間の尊さです。人間の尊厳性と言いますけれど、その内容が分かっている人は、ほとんどいないでしょう。だれもいないと言ってもいいくらいです。
人間は尊さを知りません。人間がなぜ尊いかと言いますと、その本質が言(ことば)だからです。言は即ち神なのです。言が人間の本質になっている。だから尊いのです。
人間の尊厳はどういうことかと言いますと、神の尊厳の反映です。神の尊厳が具体的な形をなして、人間に映っているのです。
人間存在の実体について、ヨハネは次のように述べています。
「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後ろにも、一面に目がついていた。第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫 びつづけていた。
   『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
   全能者にして主なる神。
   昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」(ヨハネの黙示録4・6~8)。
四つの生き物は、人間の内にある直感、推理、判断、記憶の働きで、人間が思考したり、研究したり、仕事ができるのは、この四つの生き物が働いていることによるのです。
四つの生き物は御座を賛美しています。御座を賛美するとは、もちろん御座にいる方を賛美しているのですが、御座があることが大したことなのです。
御座とは絶対です。そこに座っている人は絶対者です。全能者、創造者です。これが神です。
御座は絶対ですが、この絶対が皆様に影を写しているのです。神に型どって人を造ったとあります(創世記1・26)。型どるとはそのまま移したということです。実物通りに移したのです。神に型どるとは、絶対に型どる、御座に型どるということなのです。
そうすると、人の中に絶対がなければならないのですが、それは何かです。人の中にある絶対とは、人格です。人間の人格は神のペルソナの反映です。人格と神格は同じものです。
神は創造者であり絶対者ですが、人間は絶対者のペルソナの反映です。これが自尊心です。自尊心はその人にとって絶対です。
人間の人格性が、そのまま神の人格性の表現になっている。これが位です。この位に傷をつけられると、自分の命にかかわるのです。だから怒るのです。
神を信じて自分の位を見れば、自分の中に神の位があることが分かります。ところが、自我意識に基づいて見ると、自尊心になるのです。
信仰によって位を見ると、イエスになりますが、自我意識によって見ると人間の自尊心になるのです。これは大変な違いです。
皆様の自尊心の本体はイエスです。生ける神の子です。生ける神の子が自尊心になっている。だから、自尊心と言わずに、生ける神の子と言ったらいいのです。これが人の本体です。
人間の本体は神の言であって、これが位になっている。これを人格と言います。パーソナリティです。パーソナリティは、ペ~ソナが人間的な形で付与されたものです。
自我という立場から自分のパーソナリティを見ると、自尊心がむくむくと頭をもたげるのです。これが悪魔になっているのです。自我意識でパーソナリティを見ると、知らず知らずの内に悪魔になっているのです。自分の立場から見るのは間違っているのです。
だいたい人間の人格は、神の反映としてあるのです。神に型どられたから、人間に人格性があるのです。したがって、神に型どられていることが絶対です。自分に人格があることが、絶対ではないのです。人間は、毎日、袖に型どられているということを経験しています。だから、自我意識を捨てなければならないのです。自分が生きていると思うことが間違っているのです。
自分が生きているのではなくて、人格が生きているのです。神の絶対の反映が生きているのです。位が生きているのです。これを客観的に見ないで、主観的に見ているから、自我意識になるのです。
人間存在を客観的に見ると、世にも尊いものになるのです。これがキリストです。皆様のパーソナリティはキリストです。
人間の自我意識の本体はキリストです。これを自分が持っていると地獄へ行きますが、キリストにお返しすると霊を渡したことになり、死なないのです。そしてキリストの位に座することを許されるのです。
皆様の人格はキリストと同じものです。キリストを信じて、キリストの中に入ってしまうと、キリストの座にすわることができるのです。私の栄光の座にすわることを許すと、キリストは言っているのです。
なぜそうなるのかと言いますと、人のパーソナリティと神のペルソナは、同じものだからです。だから人間完成は大変なことです。死んでから天国へ行くというバカなこととは違うのです。人間は、毎日、神に型どられているということを経験しています。だから、自我意識を捨てなければならないのです。自分が生きていると思うことが間違っているのです。
自分が生きているのではなくて、人格が生きているのです。神の絶対の反映が生きているのです。位が生きているのです。これを客観的に見ないで、主観的に見ているから、自我意識になるのです。
人間存在を客観的に見ると、世にも尊いものになるのです。これがキリストです。皆様のパーソナリティはキリストです。
人間の自我意識の本体はキリストです。これを自分が持っていると地獄へ行きますが、キリストにお返しすると霊を渡したことになり、死なないのです。そしてキリストの位に座することを許されるのです。
皆様の人格はキリストと同じものです。キリストを信じて、キリストの中に入ってしまうと、キリストの座にすわることができるのです。私の栄光の座にすわることを許すと、キリストは言っているのです。
なぜそうなるのかと言いますと、人のパーソナリティと神のペルソナは、同じものだからです。だから人間完成は大変なことです。死んでから天国へ行くというバカなこととは違うのです。自分の尊厳性を持っていたら、ひどいめにあうのです。
 







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最終更新日  2011年07月02日 11時17分19秒
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