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2011年06月24日
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なぜ現象世界が造られたのか

自分がいないのにいると勝手に思っていますから、人間が本当に救われるということは、大変なことです。
自分が間違っているということが、なかなか分からないのです。間違い方がどの程度なのか、まずそれに気づくことが大変です。
まず見当違いの方向に歩いていたことに気がついて、別の方向に向き直るとしても、その向き直り方が不十分な場合は、それを又、修正する必要があるでしょうけれど、とにかく間違いに気がつかなければ向き直ることはできないのです。
日本人は本当に因縁の悪い国民です。どこの国民でも、どこの民族でも、すべて国家主義的な考えを持っています。どこの国の人でも、自分の国が一番いいと思っているのです。そう思っているからこそ、国のためにという気持ちがあるのです。
又、個人個人も、人よりも自分がいいと思っているのです。民族的な誇りは、集団的な自惚れです。自分が人よりも偉いと思うのは、個人的な自惚れです。
人間はうぬに惚れるという妙なことをするのです。犬や猫は絶対にうぬに惚れません。第二うぬということを知らないからです。人間はうぬを知っていて、うぬに惚れるのです。女の人はちょっと鼻が低いと言われると、とたんに気分を悪くするのです。
人間は人間との関係だけで生きているのです。人と自分との関係は、どうでもいいのです。神との関係、縦の関係が良くなるために、横の関係(人と自分の関係)があるのです。横の関係は参考のためにあるのです。参考のためというのは、なくてもいいのです。縦の関係さえよくなれば、横の関係はなくてもいいのです。
自分はいるはずがありません。全くいないのです。生まれたいと思って生まれたのではありません。生まれた年代も、国も、良心も、性別も自分で決めたのではありません。生きていたいと思う間、生きていられるのではない。自分の体をいつまでも若く保つ訳にはいかないのです。ですから、自分はいないのです。本当に自分がいるなら、すべて自分の思うとおりになるはずです。
ところが、もっと知識を得たい、自分が救われたいとおかしなことを考えるのです。自分が幸せになりたいと思うのです。幸せになりたいと言っても、幸せとはどういうレベルなのか。何を幸せと言うかです。
神と自分との関係さえ分かればいいのです。それだけでいいのです。救われなくてもいいのです。救われるとか救われないというのは、人間が勝手に考えることです。
神と人との関係がまっすぐに、筋が通ればいいのです。筋が通るということを聖書の用語でいいますと、御霊を受けると言います。御霊とは大自然のエネルギーのことです。御霊に満たされるというのは、生きていることはすべて御霊の働きだということが分かることです。
間違いが分かることが第一です。御霊に満たされると、間違いがもっとはっきり分かるのです。間違っていない人間になればいいのであって、救われる必要はないのです。救われようと思うことが、もう間違っているのです。
皆様が幸せになって何になるのでしょうか。幸せになったと、自分が思っているだけです。幸せとは、神の喜びを喜びとして生きることです。自分が喜んでも仕方がないのです。
自分の喜びは、生きている間は通用しますが、死んだら通用しないのです。
人間がこの世に生まれてきたのは、自分の命の筋を知るためだけなのです。他に何か意味があるのでしょうか。神を信じることの他に何があるのでしょうか。
人間がすべき仕事は、神を信じることだけです。他の仕事はどうでもいいのです。できなければできないで、すむことばかりです。
どんな仕事でもいいし、仕事をしなくてもいいのです。ところが、神を信じることだけは、絶対にしなければならないのです。これだけが人生の目的です。他のこと、例えば家を建てるとか、貯金をする、不動産を購入するということは、してもいいですし、しなくてもいいのです。神さえ分かれば、他のことはしなくてもいいのです。自分が間違っていたことがはっきり分かるほど、神に近くなるのです。
すべての働きは御霊によるのです。風が吹くことも、雨が降ることも、太陽が輝き、地球が自転公転することも、すべて御霊の働きです。御霊とは自然のエネルギーの働きです。
人間は御霊の作用をいつでも目の前に見ているのです。目の前どころか、腹の中、各器官の働きはすべて御霊の作用です。体は御霊の働きでつまっているのです。足が動くことも、手が動くことも、皆御霊の働きです。自分が生きているのではない。全部御霊の働きだということが分かつて、それを生活できることを、御霊に満たされるというのです。これは分かりやすいことです。
神は人間が見てあると思えるようなものを造ったのです。これが肉(物質的現象体)です。これはあるように思えるだけであって実物はないのです。何のためにものがあるように思えるものを造ったのかというと、万物があると思えなければ、神が分からないからです。
神は霊(非現象)なるお方です。霊なるお方が肉(現象)と思えるものを造った。なぜか。天使長が現象がなければならないと強く主張したので、天使長を満足させるために、天使長が受け取れるような形でものを造ったのです。
天使長とは何か。神は直接に天使を治めることをしません。多くの天使の中からある特定の天使を選んで、天使長に任命したのです。これがルシファー(輝けるもの)といわれる大天使です。
天使長は宇宙のすべての天使を治めるすばらしい能力を与えられていました。それによって天使を治めていたのですが、彼はその能力を自分自身のものであると錯覚した。自分がいるという考え、自我意識を発明した。そうして、目に見える現象世界がなければならないと強く主張したのです。その結果天使長が堕落して悪魔になったのです。
天使長を満足させるためには、物があるように見せかけなければならない。神はそれを造ったのです。それを見せておいて、それが間違いであることを天使長に思い知らせると、自分が考えていたことが真っ赤な嘘であることを認めなければならなくなるのです。天使長は人間よりよほど往生ぎわがいいのです。参ったとは言いませんが、黙ってしまうのです。
神はなきものを有るように呼んでいるのです(ローマ人への手紙4・17)。これが物質的現象世界(肉)です。現象はどこにもありません。ないけれども、神が有るかのように呼んでいるので、有るように見えるのです。これを般若心経は色即是空と言っています。天使長は、これにまんまと一杯引っかかったのです。
天使長である悪魔は、非常に頭がいいのです。だから一杯引っかかったのです。この世は非常に不思議なものです。あると思えばない。ないと思えばあるのです。ここは五条の橋の上という歌みたいなものです。ここにいるかと思えば向こうにいる。向こうにいると思えばここにいるのです。
悪魔は頭がいいから、自分の頭で自分が負けるのです。頭がいい人は自分の頭で負けるのです。行いが正しいと思っている人は、自分の行いで自分が負けるのです。欲の深い人は、自分の欲で負けるのです。お金がある人は、自分のお金で負けるのです。
肉体的に存在していると思っている人は、それが罠になって、自分が滅びるのです。この世はじっくり冷静に見れば分かります。ただ冷静になればいいのです。冷静に細かく考えたら、死ぬ自分はどこにもいないことが分かる、のです。ですから、腹を立てることもないし、やきもちを焼く必要もない。いらいらする必要もないのです。この世がこのまま神の国だからです。冷静に考えさえすれば分かるのです。
自分が生きていることが光です。生理作用が神の光です。おなかがすくというのは、生理機能が働いていることであって、その人の中に命が働いている証拠です。命が働かなければおなかはすかないのです。死人はおなかがすかないのです。生きているからおなかがすくのです。おなかがすくというのは光です。光という言い方は短絡的で飛躍的ですけれど、そういえないこともないのです。
おなかがすくのは、言葉の働きです。働きが光になっているのです。神のことばの働きが、現在皆様のおなかの中にあるのです。
ことばは人間が生まれる前の状態です。それが命になって生まれてきたのです。そこで命を感じるようになったのです。肉体的に生まれてこなかったら、命を感じることができないのです。
体の中に神のことばの作用があります。神のことばが命になって働いているのです。これが生理作用になっています。又、心理作用になっています。
考えることも、実は自分が考えているのではない。心理作用が考えているのです。ただ自分に与えられた心理作用を、肉の思いで用いるときには、肉の考えになる。悪魔の思いになるのです。これを偽りというのです。
肉の思いで考えたら、全部偽りになるのです。霊の思いで考えたら、全部まともになるのです。霊の思いで考えると、自分には生理作用と心理作用だけがある。これは神のことばであって、それが命となり光となっているのだということが分かるのです。これが魂です。
魂とは何かと言いますと、普通一般の人、東京都民であるとか、大阪市民であるとかいう肉の思いで自分を見ているのは人間です。ところが、自分の肉はない。生理作用と心理作用があって、これが神の光です。光が働いているから生きていると思える人は、霊に従って見ているのです。その人は魂です。
創世記二章は、霊なる人を述べているのです。第三章以下は肉なる人を述べているのです。第二章で、神は鼻から命の息を吹き込んだ。そこで人は生ける者.(living soul)となった。ここに帰ったらいいのです。
魂が自覚できる人は、霊の思いを与えられた人です。固有名詞の自分は肉の人です。これは役に立たないものだと分かった人は、魂になっているのです。固有名詞から離れて霊に従って生きる人間になっている。これが魂です。
男は女の秘部をとてもみたいと思っています。なぜみたいと思うのかその理由が分からないのです。こういう人間存在の秘密について、仏教は全然説明しません。新興宗教も全く言及しません。キリスト教は恐ろしがってさわりもしないのです。ところがキリスト教の牧師さんは何よりも秘部が好きなのです。なぜ好きなのか全然分からないのです。
これについて聖書は堂々と書いています。ここがキリスト教と本当の聖書の違いなのです。宗教家、道徳家、学校の先生は皆偽善者です。嘘つきばかりです。好きなのに、嫌いなような顔をしているのです。
神は嘘をつかないのです。アダムとエバが前を隠したときに、おまえはなぜ前を隠すのかと、聞いているのです(創世記3・11)。恥ずかしいと誰が言ったかです。恥ずかしいと人間が思っているだけです。人間が勝手に思っていることを罪と言うのです。世間体がありますから、あけっぴろげにして歩くことはできませんが、それを特別に恥ずかしいと思わなくてもいいのです。





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最終更新日  2011年06月24日 19時45分26秒
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