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カテゴリ:奈良の歴史と文化
奈良.法華寺北.海龍王寺
この場所には、飛鳥時代より毘沙門天を祀った寺院があり、藤原不比等が邸宅を造営した際にも取り壊されることなく屋敷の東北に取り込まれる形で存続していましたが、光明皇后の御願により天平三年(731)新たに堂舎を建立して伽藍をあらためたことで、海龍王寺(隅寺)としての歴史を歩むことになったのです。 海龍王寺本堂
海龍王寺が建立されたのは、第八次遣唐使として唐に渡っていた玄坊が、一切経.五千余巻と一切経に基づく新しい仏法を無事に我国にもたらすことを願ったのと、飛鳥時代から北の方角を護る毘沙門天が祀られていたところに海龍王寺を建立し毘沙門天を祀ることで、平城京の東北(鬼門)を護るためでした。 海龍王寺が建立されてから三年後の天平六年(734)十月、唐から帰国の途中、玄坊らが乗った四隻の船団は東シナ海で暴風雨に襲われ、玄坊が乗った船だけがかろうじて種子島に漂着することが出来、翌天平七年(735)三月、帰京を果したのです。 この時、玄坊が持ち帰った五千余巻の経典の中に、海龍王経(かいりゅうおうきょう)という経典が収められており、東シナ海の狂乱怒涛に漂いながら一心に海龍王経を唱え、九死に一生を得て貴重な多数の経典をもたらした玄坊は、その功績により僧正に任ぜられると同時に海龍王寺初代住持に任ぜられたのです。 海龍王経を唱え、九死に一生を得て無事に帰国を果したことから、玄坊が起居した海龍王寺において海龍王経を用い、遣唐使の渡海安全の祈願を営んだことで、聖武天皇から寺号を海龍王寺と定められ勅願を賜りました。 鎌倉時代の嘉禎二年(1236)西大寺を中興した叡尊が当寺に起居したことで叡尊との関係が深くなり、正応元年(1288)三月に殿堂坊舎を修造と経蔵の建立、七月には舎利塔を造顕しており、同時代に製作された仏像仏画も多く伝えられています。 本尊.十一面観音立像(重文.鎌倉時代)
これらのことから、真言律宗の筆頭格寺院となった海龍王寺が律法中興の道場として栄えていたことは、西金堂内の五重小塔を戒壇とした受戒の儀式の次第を詳細に記した指図からうかがい知ることが出来ます。 また、鎌倉幕府から関東御祈願三十四ヶ寺の一ヶ寺に選ばれ真言宗の特長である加持や祈祷も盛んに行われていたようです。 西金堂(重文.奈良時代)
西金堂内の五重小塔(国宝.奈良時代)
玄坊の坊の正式な字が機種依存字のため坊にしています。 次は奈良.秋篠町.秋篠寺です。
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Last updated
2010.04.15 08:50:51
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