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カテゴリ:奈良の歴史と文化
写真上:頭塔北面 石仏(弥勒仏) 奈良検定体験学習10月23日(日)の旅その3 「奈良高畑.頭塔(ずとう)」
「奈良時代の争乱を検証する」バスツアーの一番目は、奈良高畑にあります頭塔(ずとう)です。 ここは東大寺の大仏殿から真っ直ぐ南にあります。 すなわち東大寺.大仏殿の本尊.盧舎那仏(るしゃなぶつ)をご案内する入口に当たるのです。 東大寺.大仏殿と頭塔との位置関係 頭塔には石仏が配置されています。 ピラミッドの一番上は、やはり盧舎那仏(るしゃなぶつ)です。 東大寺は南都仏教.華厳宗大本山で本尊は 盧舎那仏(るしゃなぶつ)です。 頭塔は版築された土の表面を石で覆い、階段状に石を積み上げた七重塔です。 神護景雲元年(767)に東大寺の僧.実忠が建立したものです。 実忠といえば東大寺の二月堂の修二会(お水取り)の創始者です。 一辺約25メートルの方形で、高さは約8メートルあります。 奇数段の四方には44箇所の仏龕が設けられ、それぞれに石仏が納まるが、確認されているのは27尊です。 偶数段には全面に屋根がかけられ、築造当初は木塔を圧縮したピラミッドのような形でした。 頭塔は古来より奈良時代の高僧.玄坊の首塚と伝えられてきたのです。 玄坊は吉備真備と共に18年間唐に留学し、帰国後は橘諸兄(たちばなのもろえ)に重用されました。文武天皇の皇后.藤原宮子(聖武天皇の母)の長年の病を治癒するなどの功績もあります。 ところが対立する藤原一族の一人、広嗣(ひろつぐ)が「玄坊と真備を除け」と(740年)九州で兵を挙げたのです。 失敗に終わりましたが、行基が大僧正に任じられ、玄坊は法界の第一の座を奪われています。 そして、橘諸兄の対立者、藤原仲麻呂(恵美押勝)が勢力を伸ばしてくると、諸兄側の玄坊は、筑紫の観世音寺に左遷され、746年にその地で亡くなったのです。 奈良町の伝承によれば、憤死した玄坊の身体はバラバラになって奈良に飛来し、頭が落ちたところが頭塔町、眉が落ちたところが眉目山町(現.大豆山町)、腕が落ちたところが肘塚町(現.貝塚町)となっているようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.10.28 19:17:06
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