千人同心の基本的な性格は、緊急時の対応にあるようです。大きな役目は、先ほども触れたように八王子城落城後の治安維持、いわば落城により不安定となっている人心を安定させることであったようです。
しかし、実際には、極めて軍事的に使われたようです。天正19年(1591)には、奥州九戸の乱の平定に駆り出されています。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、家康の警護を行っています。文禄元年(1592)は、朝鮮の役にも出兵していますし、元和元年(1615)の大阪の陣では、大阪城の本隊と直接戦っているのです。また伏見城や江戸城の営繕や、家光の日光参拝の警護といってみればうまい具合に利用されているといった感じさえあります。
ところで、そういった千人同心たちの暮らしはどうだったのでしょうか。
拝領屋敷地の組頭の家は、周辺の農家と比べると広くありませんが、式台付きの玄関などは、格式の高さを示しています。実際の総数は平同心が800人で、多摩周辺の郷士となった上層農家が多かったのですが、100人いた組頭は八王子市千人町付近に拝領屋敷のある30表一人扶持の士分でした。さらにその上に200石から500石取りの千人頭が10人いて、組頭と同じく千人町付近に屋敷がありました。
基本的には世襲制でしたが、病気や怪我などで公務につけなくなった時は、同心株を他家に譲り渡すということもあり、多摩や相模まで広がっていった背景を持ちます。
身分は武士なのですが、通常は高持ちの百姓として、耕作にあたっていました。兵農分離のもとでは、士族身分と農民身分をあわせもつ、きわめてまれな団体的農兵でした。同心は御家人として幕府から米が支給されるのですが、同時に農民として年貢も納めるという極めて特異な形態と言えます。日本の屯田のはじまりとさえいわれているのです。

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