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もしこの世の中に、風にゆれる「花」がなかったら、 人の心はもっともっと、荒んでいたかもしれない。 もしこの世の中に「色」がなかったら、 人々の人生観まで変わっていたかもしれない。 もしこの世の中に「信じる」ことがなかったら、 一日として安心してはいられない。 もしこの世の中に「思いやり」がなかったら、 淋しくて、とても生きてはいられない。 もしこの世の中に「小鳥」が歌わなかったら、 人は微笑むことを知らなかったかもしれない。 もしこの世の中に「音楽」がなかったら、 このけわしい現実から逃れられる時間がなかっただろう。 もしこの世の中に「詩」がなかったら、 人は美しい言葉も知らないままで死んでいく。 もしこの世の中に「愛する心」がなかったら、 人間はだれもが孤独です。 「美しく生きる 中原淳一 その美学と仕事」より 中原淳一さんは乙女な塗り絵の画家、という貧相なイメージしかなかった私。 哲学的な文章に加え、対称的に身の回りの暮らしの工夫までを 精緻なイラストと熱のある言葉で綴っている。 驚いた。 昔の人(なんて十把一絡げな表現。でも心からの尊敬をこめてます)は、 きりっと芯が一本通っている。
美術館の展示品の中には、雑誌の付録もあって、これがなかなかに郷愁を誘う。 その反面、女性は今も昔も付録が好きなんだなぁと可笑しくなってしまう。 しあわせは心の中にあるもの、つまり自分がしあわせと感じることです。 どんなに身のまわりにしあわせになることが沢山あっても、もし自分で「ああ、私にはこんなにしあわせがある」と感じなかったら、それは結局どうにもならないこと、その人は決してしあわせになることは出来ないのです。 しあわせになりたかったら、自分の身のまわりのしあわせを自分で感じるような人になることが一番大切だということを知ってください。 (1956年「ジュニアそれいゆ」11月号より) 古い話で恐縮だが漫画「愛と誠」の中で 「早乙女愛よ、岩清水弘はきみのためなら死ねる!」と叫んだ岩清水弘のセリフを 目にしてからというもの、 「好き」の基準が「その人のためなら死ねる」に跳ね上がってしまった。 感受性が強いというか底抜けの直情タイプというか。 でも今ならわかる。 どのくらい好きだったら本当に好きといえるのか。 岩清水弘は「死ねる」ほどだったとしても、みんながみんなそうである必要はない。 中原流に言えば、「自分が好きと感じる」ことができればいいのだ。 私という馬鹿は、こんなシンプルなことに気づくまでモッタイナイほど長い時間をかけてしまった。 (いえ、今気づいたというわけではありません。念のため) 幸福は一度手にとれば一生逃げてゆかないというようなものではなく、毎日の心掛けで少しずつ積み重ねてゆかねばならない。 その心掛けというかテクニックは、気をつけて見ればどこにでもあると思う。 非常に忙しかった1日でも充実感を味わう事ができれば、疲れても幸福な生活を送るためには、ぜひ特別に娯楽の時間を必要とするように考えるのは間違いで、仕事に緊張した時間がほぐれた時おとずれる安らかさの中にこそ幸福があり、その楽しさも大きいのだ。 (1950年「それいゆ」13号より) うんうん。幸せの青い鳥は鳥籠に閉じ込めて一生飼い続ける事ができるものではない。 心の持ちようで安らかさを得られるほど人間ができていない私のような者には それを得られるような演出も必要なのだが、さてどうやって、という答えも見つかりそうな雑誌がジュニアそれいゆ
『十代のひとの美しい心と暮らしを育てる』真っ直ぐなメッセージがすがすがしい。 人間の生き方の中で一番正しい生き方は、自分らしい生き方をすることだと思います。あなたのお母さまが、お母さまらしくなかったり、お父さまがお父さまらしくなかったりしたら、とてもいやなことでしょう。ジュニアは、ジュニアらしい生き方をしましょう。それが一番美しいことなのですから。 (1958年「ジュニアそれいゆ」より抜粋) 髪型にしてもファッションにしても、古さを感じない。 どころか、ドキリとさせられる。 女性は愛情深い人間であってほしいのです。 朝食の支度をするなら、その朝食を食べてくれる人の一人一人に愛情をこめて作ってほしい。窓を開けたら、新鮮な空気を胸いっぱいに吸って幸せを感じ、窓辺の植木鉢にも愛情をこめて水を注ぎたいし、掃除をするなら、そこに住む人にはもちろんのこと、家具や柱とか壁にまでも、愛情をこめる女性であってほしい。 愛する心は、夫や恋人にだけ与えるものではなく、すべてのものに愛情深くあってほしいのです。 (1970年「女の部屋」3号より) 理想の女性像が今とずいぶんイメージが違うのは、戦後の時代なので当然。 でもイメージなどと表面的なものよりも変わらない真実ってあるんだな、と中原淳一が綴った文章を読むと痛感する。 是非はあるだろうけれど。 毎年、スカートが長くなったり、短くなったり、ヘアスタイルもいろいろ変わったり、それから靴のカカトが太くなったり細くなったり、そんなものを身につける新鮮さも嬉しいものです。しかし、最近はマスコミが、人間の生き方や、ものの考え方にまでこれでもかこれでもかと流行を作って、そんな生き方をすることが、また、そういう考え方をする方が、新しいといわれたり、カッコイイ生き方だと考えられたりする傾向があるのではないでしょうか。人生をスカートの長さや、ヘアスタイルのようには考えないで下さい。いま、古いといわれている人間の習慣や生き方の中には、事実、切り捨てなければならないようなものも数多くあるでしょう。しかし、そんなものばかりではないはずです。何千年もの長い年月を生きてきて、その積み重ねから、人間を一番幸せにする基本のようなものが出来上がってきて、それから今日まで続いているものなら、それは、人間という動物の本質的なものだともいえるのではないでしょうか。だから、ちょっとした興味本位な思いつきや、無責任に作り上げられた風潮で「そんなの古い」と片づけてしまえないものも沢山あるはずです。「いつまでも古くならないもの」―それこそがむしろもっとも「新しい」ものだとはいえないでしょうか。 人生はスカートの長さではないのです。 (1971年「女の部屋」5号より) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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