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中世宗教劇 Ⅰ 宗教劇 宗教劇を、たんに宗教をテーマにした戯曲ととるならば、近代の劇作家の中でも、とくにカトリック的なクローデル、モンテルラン、とくにプロテスタント的なストリンドベリ、バルラハなどの名があがるだろうが、ここでは中世の宗教劇を中心に記述する。 キリスト教化された中世ヨーロッパではギリシャ、ローマの演劇遺産は異教文化としてわすれさられ、演劇は完全に消滅し、わずかに大道芸などにその跡をとどめるだけとなった。だが、キリスト教信仰から、復活祭劇、降誕祭劇、受難劇、聖史劇、原罪劇、預諸劇、道徳劇など、さまざまな内容と形態の宗教劇がヨーロッパ各地で生まれた。 II 典礼劇の誕生―復活祭劇、降誕祭劇 10世紀初頭にスイスのザンクトガレンの修道院で復活祭に交誦(こうしょう:tropus)がおこなわれた。キリストの墓に遺体を清めにいった3人のマリアが遺体がなくなっているのでおどろいていると、彼女たちの前にあらわれた天使がキリストの復活をつげる対話部が、交互の掛け合いでとなえられたのである。この部分はすでに劇的な所作をともなうもので、復活祭劇の起源となった。キリストの受難から復活までの事跡をあつかうのが復活祭劇である。 これに対して、キリストの降誕をいわうクリスマスの儀式から降誕祭劇が生まれた。これはキリストの誕生前後の出来事をあつかうもので、東方の三博士の来訪(→ 東方三博士の礼拝)も、所作をまじえてしめされるようになった。 キリスト教会の儀式(典礼)から生まれた復活祭劇と降誕祭劇は、典礼劇とも総称される。 III 教会から民衆の手に―受難劇、聖史劇など ラテン語を理解しない大多数の信者にとっては、典礼劇は聖書の内容を視覚化してくれるので有益であった。だが、教会内でおこなわれていた典礼劇の担い手は、やがて教区の信者にかわり、野外で大規模に上演されるようになる。そして、もちいられる言葉もラテン語ではなく、それぞれの国の民衆語になった。 こういう大規模な劇は、ドイツでは受難劇(Passionspiel)と総称され、イギリス、フランスでは聖史劇(mystery,mystêre)の語がつかわれる。英仏での聖史劇は、キリストの受難(→ イエス・キリスト)だけでなくアダムの物語(→ アダムとイブ)や聖人伝説などをあつかう劇もふくむ大概念であるのに対して、受難劇はキリストの受難が中心であり、「受難の聖史劇」という言い方をする。 IV 世俗化、娯楽化した宗教劇 一般市民が中心となった大規模な聖史劇や受難劇の上演は、14~15世紀にはヨーロッパ各地でおこなわれるようになり、台本もいろいろな都市にのこっている。たとえば、古いものではスイスのムリの復活祭劇(1250)、演出台本ののこるフランクフルトの受難劇(1350)、ドナウエッシンゲン受難劇(1485)などがあり、さらには、ボルツァーノ(現イタリア)の受難劇(1514)は、7日間つづいたといわれる。また16世紀にはいると、フランスのバランシェンヌの大規模な聖史劇のように、作家の名がのこっている例もある。 1 広場での上演風景 こうした町の野外劇では、たいてい市庁舎をかこむ町の中央広場を上演会場とし、そこに、キリスト受難の各場面をしめす、マンシオ(留:りゅう)とよばれる舞台がならんでいた。たとえば、エルサレムに布教におもむいたキリストが神殿から商人を追放し、既成宗教の聖職者たちの恨みを買い、ユダが銀貨30枚で買収されて主を裏切り、イエスが最後の晩餐(ばんさん)で弟子のひとりの裏切りを予言し、オリーブ山でとらえられ、ヘロデ王に鞭(むち)うたれ、ローマ総督ピラトの前にひきだされて、扇動された民衆によって磔刑を宣告され、みずからの十字架を負ってゴルゴタの丘にむかい、磔刑にあうまでの受難の過程が、それぞれのマンシオで順々に演じられていくのである。 十字架からおろされたイエスの遺骸(いがい)を聖母マリアが腕にだいてマリア哀歌をとなえる場面は、ピエタ像として視覚的にも有名である。天使による復活告知の場は復活祭劇の原点であるが、この場の前におかれる、3人のマリアがイエスの遺体につける香油を買いにいく場面では、香油商人が大道芸のような滑稽(こっけい)を演じることが多かった。この場面から、商人の女房の姦通(かんつう)をあつかった喜劇「ロバンとマリオンの劇」(13世紀。アダン・ド・ラ・アル作)が派生しているほどである。 復活したイエスが、地獄でとらわれている魂を悪魔から解放する場面も、スペクタクル的にえがかれたらしい。イエスの昇天は、広場正面の市庁舎に設定された天国でしめされるのが通例であった。付言すれば、この内容は現在の人気ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」とほとんど同じである。 2 壮大なスケール この広場での野外劇は、今日の劇場とはことなった原理で上演された。現在の舞台では場面がかわるときには舞台転換が必要になるが、広場という演劇空間に最初からいくつもの場面がセットされている場合、転換は必要なく、観客が次の場面にうつっていけばいいのである。この原理を同時並列舞台(アンシオ)とよぶ。20世紀に入って、1つの舞台空間に多場面を設定するようになったのは、この原理の転用である。 イギリスでは、各場面を設定した山車が順々にうごいて観客の前にあらわれる形式もとられた。とくに、天地創造から最後の審判におよぶ大規模な聖史劇はサイクル・プレー(cycle play)とよばれ(中世宗教劇の時代にはまだドラマの概念がなかったから、劇はplayという言葉であらわされた)、ヨーク、チェスターフィールドなど4都市にその台本がのこっている。 上演時間の制約はなく、数日間におよぶ上演もまれではなかった。古典劇1本はふつう2000行前後だが、残存する宗教劇の台本の中には5万行に達するものがあることをみても、その長さが推察されよう。旧約聖書の天地創造からはじまる劇は、時間的なスケールも桁(けた)違いである。受難劇も、いわばイエスの生涯の年代記であり、本来は劇的というより叙事的な主題である。 しかし、イエスの受難と復活の段階をしめす劇の構造は、20世紀初頭の劇作家たちに影響をあたえた。ストリンドベリが自己の魂の救済をえがいた「ダマスカスへ」(3部。1898~1901)という作品で、幕の代わりに留(ステーション)をつかっているのは受難劇を意識してのことであろう。ステーションは、表現主義の作家が自分の新しい人間に生まれかわる過程をえがいた劇にもつかわれた。 V 宗教劇の消滅 中世の宗教劇は、宗教的というより、町という共同体が組合をつくって町全体の催しをおこなうという性格が強くなった。そうでなければ、あれだけ大規模な上演がおこなわれたことの説明はつかない。16世紀にはフランスで、聖史劇があまりに豪華になりすぎて、当の教会当局から禁止されたこともあった。 これほど隆盛をきわめた宗教劇が急に姿をけしてしまうのは、宗教改革によって、ヨーロッパを統合していたキリスト教が分裂したことも原因のひとつであろう。具象化をきらう新教(プロテスタンティズム)勢力の強かった北ドイツでは、とくにはやく消滅した。こういう伝統が遺産として継承されなかったのは、西欧の日本とちがう特徴のひとつといえよう。 南ドイツの小村オーバーアマーガウの受難劇は、今日観光としても有名だが、中世の受難劇とはいえない。17世紀にペストが流行したとき、この山村がおそわれないように祈願をこめて神に奉納した受難劇で、10年に一度かならず再演するという誓言をまもりつづけて今日にいたっているのだが、17世紀にはすでに同時並列舞台の理念はなくなっていたため、舞台上で場面を転換する通常のかたちをとっている。ただし、村全体が一丸となり、配役も選挙できめるというような、共同体の演劇の側面はのこしている。第2次世界大戦中に一時中断され、1950年に再開された。ティロル地方のエルルでも受難劇の上演がある。イギリスでも、同50年からサイクル劇のゆかりの地ヨークとコベントリーで、数年おきに上演がある。 VI 受難以外の題材 イエスの受難以外を題材とするものには、マリア哀歌から発展した劇、聖体行列から生まれた聖体祭劇、原罪劇(アダム劇)、マタイによる福音書にある寓話(ぐうわ)をあつかった「10人の処女の劇」、世界終末劇、アンチクリスト(贋(にせ)キリスト)劇、預言者劇、聖人劇などがある。また悪魔と契約した司教テオフィルスの劇、女性の身で悪魔と結託して教皇になったユッタ夫人の劇などもある。 1 道徳劇 イギリスもしくはオランダに由来するといわれる道徳劇(morality play)は美、富、善行、知恵、力、死、徳などの抽象概念を擬人化した、教訓的な劇である。 もっとも有名なのは、エブリマン(everyman)を主人公として、だれの身にもおこりうることを描いたエブリマン劇である。ストーリーは、おもしろおかしく日をおくっていたわかい裕福な男が、突然、死の召喚をうけ、死後の裁判の準備をまるでしていないので狼狽(ろうばい)するというもので、常に死をわすれず、神の掟(おきて)をまもって生きよとおしえる。 この劇はルネサンスに人文学者によってラテン語に訳されたために、ヨーロッパじゅうに流布した。ホフマンスタールが現代化したエブリマン劇「イェーダーマン」(1911)は現在、ザルツブルク・フェスティバルで毎年かならず上演されている。 2 謝肉祭劇 謝肉祭は、ゲルマン時代からの非キリスト教的な春祭の習慣が四旬節前の無礼講とむすびついたものである。ドイツでは職人階級の間で、この謝肉祭で演じる独特なかたちをもつ謝肉祭劇が発達した。内容は宗教とは関係がなく、きわめて民衆的で、祝祭性にとんだ茶番劇であった。謝肉祭劇の作者としてはニュルンベルクのハンス・ザックスが知られるが、17世紀には消滅した。 3 宗教改革と演劇 宗教改革の時代には、人文主義者たちがプロテスタント、カトリックの両側にわかれて、ラテン語で宗教論争を展開する宗教論争劇を書いている。しかし上演とはあまりむすびつかない、論争のための劇であった。むしろ反宗教改革側にたつ教団、とくにイエズス会では、16~17世紀に布教の武器として演劇を利用し、大いに成果をあげた。人間の思い上がりや虚栄をいましめたヤーコブ・ビーダーマンの「パリの博士ツェノドクスス」(1602)などは傑作といってもよい。 → 演劇の「中世の演劇」 |