初詣の方々の動きを感じながら
2006年になりました。今年も つらつらと 思い感じることを書きとめて行きたいと思います。近くに神社があるので 0時をまわった頃から 車のドアの開け閉めの音、人の足音、話し声がします。いつもは静かな真っ暗なそんな時間です。大晦日 夫と話をしました 依存というものについて私は救いを外に求めている状況が長く、違った・・とは落胆しては次の事を探して歩いていたように思えます。30日に 友人が訪ねてこられました。そして「何を緊張しているのですか?」と私に尋ねました。緊張?緊張をしているとしたら・・・・ずっと自分を感じてみました。12月に行った ワドゥドのワーク そのワークで まだ自分が自分として生きてない 眠っている自分を見つけたからかもしれないと感じました。概念などに押しやられてしまった自分というエネルギーは大人の体つきでまるで胎児のようにまるまってそこに居ました。そのエネルギーは透明で輪郭だけがオパールのように輝いていました。「もういいよ」という声が自分のなかから聞こえているのに、何がいいのか?なになのか ちんぷんかんぷんなのです。「もういいよ」なにが?そして友人に言った言葉 私は私自身を信じきっていないのかもしれない。そして、色々な事柄に対しても最後の一歩でしんじていないのかもしれない。ありがとうございます と 何万回何億回言ったとしてもそれで救われるとは思っていないのかもしれないそして、自分を救うのは自分でしかできなくて、自分を癒すのは自分でしかできないと思っている。だから、案でも間でも妄信的にできないのかもしれない。すべてを委ねる事ができない怖さかもしれない。といいました。自分の生で 自分の人生で自分が生かされるのだとも言いました。夫にこのようなことを 話してみました。色々なことその事柄に依存したりしたとしても 最後は自分なんだと。だから色々な事柄が主人公ではなく 私自身が主人公でこの人生を歩みたいのだと言いました。おごりや高ぶりや傲慢ではなく、その生き方のなかで私は私の中の神聖なる領域を見つけていくのだと感じていることそして、神聖なる領域を感じそして融合したときに すべての事柄に神をみるのではないかな?と感じていることそんなことを話しました。上手く書けませんが、私は私の生を生きたい。生きることは祈りでもあり、喜びでもあると感じています。そこには深い深い愛と慈しみとそして光が息づいていると感じています。人間を生きるということ。肉体を持って生きるということ。そんなことに焦点が合ってきたように思うのです。夫はただただ頷いて聞いてくれました。彼が幸せを私に運んでくるのではなく、彼とともに私が幸せに自分をしていくのだと思い出しました。他力本願ではなくなってきたということでしょうか?言葉は難しく上手にいえなくもどかしいですが、なんとなく そんな感じがしているのです。