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南大沢日記 ポルトガル フランス [全108件]
オーベール・シュル・オワーズの教会
芸術家のいた風景 6 ゴッホの麦畑 パリから北西に30キロ離れたオーベール・シュル・オワーズ。 1890年5月、ゴッホは医者の勧めで南フランスのサン・レミから移り住み、自らの命を絶った最後の地でもある。 オーベールを訪れた日は曇天で時おり小雨がぱらつく不安定な天候だった。木々の緑に囲まれた自然豊かな町の様子とは裏腹な空模様だった。あたかもゴッホとの因果を象徴するかのように思えたものである。 ゴッホにとってはサン・レミとは違って、ここの暮らしは別天地のように思え、70日間に80点もの絵を描き上げる程の意欲的な制作活動を展開した。しかし、人間としての自己を考えた時、ジレンマの日々が続いた。そして再び閉ざされた心境に陥っていった。 小川国夫著「ゴッホ」(平凡社刊)によると、ゴッホは弟テオ宛に手紙を送ったという。「混迷する空の下にどこまでも広がる麦畑。僕は悲しみと孤独を極みまで描こうとした。僕の目に見える田舎の『健康なもの』『人を強めるもの』そういうものを君たちに物語るに違いない」と。彼は兄を気づかう弟テオのためにも常人に戻りたいと願ったのだろう。
ゴッホの麦畑 しかし、ゴッホは、手紙をしたためた直後に希望を見出すはずの麦畑で胸を打ち抜き自殺した。今、その麦畑は一面のエンジ色の野の花に覆われていた。 長崎新聞1997年9月7日掲載 奥村勝之著「絵のある風景」より抜粋
文・吉田千津子 写真・奥村森
ラ・ルーシュ
芸術家のいた風景 5 芸術村「ラ・ルーシュ」 久しぶりに訪れたパリは経済至上主義のあおりから、近代建築が立ち並ぶ商業都市へと変貌していた。古き良き時代を懐かしむ者にとっては物足りなさを感じる。あの頑固なフランス人気質が影を潜めてしまったのも寂しい。 今回の旅は画家がモチーフとした風景を撮影するのが目的だ。時代の軌跡をめぐる旅でもある。感傷に耽るのも程々に、まずは初心に帰るべく、エコール・ド・パリ時代の画家を多く輩出した芸術村、15区ダンチッヒ通りにあるラ・ルーシュを訪ねてみた。 ラ・ルーシュは1900年のパリ万国博覧会後、画家の卵が制作に没頭出来るようにと、彫刻家・アルフレッド・ブッシュが万博で使用したギュスタフ・エッフェル建築事務所の建物を買い受け再築し、安価な家賃でアトリエを提供したのが始まりだ。ラ・ルーシュは、フランス語で「蜂の巣」の意味である。 建物の入口には重い鉄製の門扉があり、住人しか中には入れないようになっている。仕方なく外から建物を見ていると庭に人影が見えた。そこで私達は取材のために日本から来たむねを告げると、彼は「入りたいのなら入れてあげるよ」と内側から鍵を開けて招き入れてくれた。おまけに、管理人まで紹介してくれたのである。 管理人は長年ここで制作活動を続けている画家、ベン・ドーブ女史を紹介してくれた。彼女のアトリエは庭を一望出来る3階にあった。油絵具の香りが全盛期を彷彿とさせる。ラ・ルーシュも老朽化し、新施設に立替える動きが急浮上している。だが、アトリエを利用する画家達が猛反対して小康状態を保っているとのことだ。
制作中のベン・ドーブ女史 ドーブ女史は話を転じ「古典と現代芸術のプロセスを軽んじ、価値を曖昧にしているのが日本の芸術界」と指摘する。日本ほど急激ではないにせよ「フランスも時代に流され、徐々に過去の財産が失われつつある」との危惧が込められていた。 長崎新聞1997年8月24日掲載 奥村勝之「絵のある風景」より抜粋
文・吉田千津子 写真・奥村森
シャルトル大聖堂
ステンドグラス
芸術家のいた風景 4 コローが描いたシャルトル大聖堂 フランスが誇る文化遺産シャルトル大聖堂。青い空に向かって突き刺すように伸びる二本の尖塔は左がゴシックで右がロマネスクと異なる様式ながら、不思議に調和しているのが面白い。 ジャン・バティスト・カミーユ・コローは1830年、「シャルトル大聖堂」と題して作品を描いている。コローは1796年、パリで婦人装身具店の息子として生まれた。ルーアンで教育を受けた後、パリに戻り洋装店に奉公した。 26歳頃から画業に専念、ミシャロン、ベルタンの門下に入り古典的伝統画を学んだ。1830年以降は、テオドール・ルソー等とフォンテンブローやバルビゾン付近の森や田園風景を描き、バルビゾン派の七星の一人と称されている。 「人生の目的は風景画を描くこと」と決意しただけあって、自然を描いた作品が多い。初期の作風は古典的、優雅で細密な表現が際立つ。晩年はロマン的で詩情豊かな作風となった。
街の風景 パリの南東90キロ、人口4万の小さな古都を車で訪れた。遥か遠くから望むことが出来る大聖堂は、中世を偲ばせる風情がある。街中は20数年前に訪れた情景とは一変して観光用の駐車場が設置されるなど、現代社会の縮図が顔を覗かせていた。 コローが描いた大聖堂は、正面から描いたオーソドックスな構図である。しかし、後世になって軒並み建てられた土産店やレストランによって、同じ位置から大聖堂を眺めることは出来なくなっていた。 コローの「シャルトル大聖堂」は重要な記録資料としても絵画の付加価値を教えてくれた。 長崎新聞1997年10月26日掲載 奥村勝之著「絵のある風景」より抜粋
文・吉田千津子 写真・奥村森
モネの家入口
芸術家のいた風景 3 モネの睡蓮の池 パリから西北へ約90キロ、セーヌ川の支流と緑豊かな小高い丘に囲まれた小さな村ジヴェルニー。ここにクロード・モネが43歳から移り住んだ家がある。 以後、モネは光の変化の瞬間を精力的に捕えながら絵を描き続け、生涯をこの地で過ごした。 モネは、広重の浮世絵「名所江戸百景・亀戸天神境内」に強くひかれ、自宅に日本庭園を造った。それを描いたのが有名な「睡蓮の池」と題する作品だ。 モネは浮世絵師が描く花鳥風月に深い関心を抱いた。洗練された感覚で表現される四季の変化と余分なものを省く大胆な構図に魅せられたからだ。しかし、興味を抱いて単なる模倣に終始するのではなく、独自の境地を表現しているからこそ、印象派の巨匠と呼ばれる由縁なのだろう。 ジヴェルニーに移った頃、モネは絵が売れず、経済的に極めて貧しかった。最初の妻は次男を出産した翌年に亡くなり、やがてアリス・オシュアと再婚する。アリスの連れ子と彼の二人の子供を合わせ、一挙に子沢山となった。生活はより厳しさをましたに違いない。 ジヴェルニーを取材に訪れた5月中旬は、晴れたり曇ったり雨が降ったり止んだりと一日の内に目まぐるしく天候が変化する。 写真撮影には最悪のコンディションだ。しかし、モネならモチーフを凝視し、一瞬の移ろいも見逃すまいと脳裏に焼き付けたに違いない。「その粘り強さこそがモネの本領ではなかったのか」とさえ思えてくる。
モネの池に架けられた太鼓橋 モネの池の中央には太鼓橋がかけられ、そこには鈴なりの観光客が写真撮影に余念がなかった。橋のほとりに植えられた藤の花が美しく咲き乱れていた。 睡蓮の花が咲いていなかったので池の監視員に何時頃に開花するのかと尋ねると「6月の初旬には咲きますよ」と教えてくれた。睡蓮の時期には少々早すぎたが何時も絵でしか見たことのないモネの池を目の当たりにし、モネの素晴らしい絵画が、なぜこの家で誕生したかを感じることが出来た。 長崎新聞1997年9月21日掲載 奥村勝之著「絵のある風景」より抜粋
文・吉田千津子 写真・奥村森
ラヴィニャン通り
芸術家のいた風景 2 モンマルトルが育てたユトリロ モーリス・ユトリロの住んでいたラヴィニャン通りを訪れようと、地下鉄を降りて階段を上がり、アールヌーヴォー時代に創られたギマールのアーチをくぐる。駅前のベンチには昼間から飲んだくれて寝ているホームレスが目に入った。 モーリス・ユトリロは母、シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として1883年パリに生まれた。ユトリロの姓は、美術評論家ミゲル・ユトリーリョが彼を養子として籍に入れたことに由来している。 不幸な出生遍歴からだろうか、若い頃から異常な飲酒癖が災いして、1900年にはアルコール依存症で入院を余儀なくされた。医師は彼の母に「熱中するものがあれば、酒量が減るのでは」と絵を描くように勧めた。しかし、飲酒癖は一向に治らず入退院を繰り返した。 それでなくとも、独学で絵を描きアカデミックな教育を受けていないユトリロは画壇から疎外されがちなのに、飲んだくれる日々は益々彼を孤立化させていった。 そんな気持ちを表現したのか、哀愁に満ちたパリの街角などモンマルトルのアトリエから見える身近なモチーフを数多く描くようになっていった。パリ芸術の中心がモンパルナスに移ってからもモンマルトルに住み、秀作を描き続けたのである。
モンマルトル ユトリロが頻繁に題材として描いたタルトル広場やラヴィニャン通り近辺は夕暮れ時ともなると多くの観光客で賑わう。しかし、人気が無くなると、今でも画家の心情を伺える光景が其処かしこに存在する。 孤独な人間が呼吸することのみ許される容赦なき街。その地獄から不死鳥のごとく這い上がった強かさ。亜流から本流画家に成り得た力は、医者にもおよばぬモンマルトルの逆療法環境に頼るところが大きい。1935年、コレクターの未亡人と結婚、晩年は絵ハガキをもとにパリ風景を描きながら裕福な生活を送ったと云われている。 長崎新聞1997年10月11日掲載 奥村勝之著「絵のある風景」より抜粋
文・吉田千津子 写真・奥村森
サン・ポール・ド・モーゾール修道院
芸術家のいた風景 1 サン・レミのゴッホ ゴッホは1853年、オレンダのズンデルトで牧師の子として生まれた。そして、画商店員、教師、伝道師の仕事を経て1880年から画家を志した。「ひまわり」「医師ガッシュ」などの代表作で知られている。 1888年、アルルで精神病発作から左耳を切るという事件を起こした。現地の精神病院に入院したが間もなく、重度の患者を受け入れるホスピスで精神病院でもあるアルルから北東へ32キロ離れたサン・ポール・ド・モーゾール修道院に移された。
糸杉の見える風景 サン・レミの町は、南側にオリーブ畑と糸杉並木が広がり、今世紀初頭には古代グラヌム遺跡が発見された場所である。ゴッホは、この病院で寝室の他にアトリエも与えられ、気分の良い日には看護人と共に外出して絵を描いていた。 モチーフは、鉄格子の窓から見える糸杉、麦畑、果実園、プロヴァンス風景などであった。こうして描かかれた油彩デッサンは150点にも及んだ。ゴッホのサン・レミ生活は入退院を繰り返しながら一年間続いた。 病院は今も昔のまま残っていた。ひっそりとした回廊を通り抜け一室を覗き込むと、シスターが患者達に絵の指導を行っていた。彼らの視線が一斉にこちらに向けられた。他人を寄せ付けまいとしていた。
ゴッホ通りの老羊飼い 病院裏にあるゴッホ通りと名付けられた小道に出ると、可愛らしいオレンジ色のポピーの花が一面に咲いていた。偶然にも老羊飼いが数十頭の羊を連れているのにも出くわした。病院の壁から解放された時、ゴッホは安堵を感じたに違いない。 長崎新聞1997年8月31日掲載 奥村勝之著「絵のある風景」より抜粋
文・吉田千津子 写真・奥村森
プロヴァンスの芸術家 3
ダニエル・ペルニさんの工房は、田園地帯に垂直に切り立つ岩山の頂上から、1キロほど下った「カテドラル ディマージュ」わきの急斜面にある。 工房は石灰石の大きな岩山をくり抜いた洞窟内にあり、入口には彼の彫刻作品が数点並べられている。柔らかな曲線で表現される作品と豪快な岩山が、妙に調和して見えるのが面白い。 プロヴァンスは芸術を学ぶには便利な場所である。フランス国内は元より、イタリアの歴史ある都市にも容易に訪れることが出来るからだ。 ダニエルさんはイタリア北東部のアドリア海に隣接する都市、ヴェネツィアの文化財修復学校で学んだ。作家活動同様に「僕は何でも創る石職人」と修復師としての誇りを持っている。 彼の重要な仕事の一つに教会の修復作業がある。とりわけ聖堂は神の家として強い象徴的性格が要求される。そのためか、作品には鳥獣顔をした守護像が数多く見受けられる。 ダニエルさんのヴェネツィア留学は技術習得、東方・北方文化とのふれあい、修復作業を通して歴史遺産の重要性など精神を高める貴重な体験となった。 彼は、レ・ボーから北東に約20キロ離れたサン・レミで1959年に生まれた。サン・レミはゴッホが1888年にアルルで精神病発作から左耳を切断する事件を起こした後、入院したホスピスで精神病院でもあった旧サン・ポール・ド・モーゾール修道院がある町として知られている。ダニエルさんは、ゴッホの愛人であったラケルの裸像を作品にしている。 「素材はここで産出する石灰岩を使います。ほどよい硬さが彫刻に適しています。」と説明する。「ラケルの裸像」は円やかな曲線で東洋的エロティシズムが感じられる。郷土の話をモチーフに、地元素材を使ってヴェネツィア的感覚が生かされる。プロヴァンスの恵まれた芸術環境を知るに相応しい作品である。 彼は早朝から夕方まで工房で作業を続ける。仕事場には助手一人しかいないので、営業活動もこなさなくてはならない。彼は妻のシルヴィーさんと三歳になる娘のノエミーちゃんとの三人暮らし、家族の生活はダニエルさんの双肩にかかっている。 昼時になると、シルヴィーさんがノエミーちゃんを伴って弁当を運んで来るのが日課だ。ノエミーちゃんは訪れた異邦人に臆する気配もなく、握手とキスで迎えてくれた。国際性豊かなプロヴァンスならではと感心させられる。 ところが、カメラを向けると突然泣き出してしまう。子供らしいシャイで素朴な一面も覗かせる。「シルヴィーとノエミーのお陰で、安定した気持ちで仕事に集中できます。昼食をとりながら家族団欒の時間を過ごせるのも最高です。もし自分の工房が都会にあったなら、こんな充実した日々をおくることは出来なかったでしょう。プロヴァンスに満足しています」と満面の笑みを浮かべて語る。 彼は夕方になると20キロ離れた自宅に帰る。アトリエの留守を預かるのは愛犬の役目。普段はおとなしい愛犬だが、夜は主人の大切な作品を護る役目をしている。 プロヴァンスは地中海を通じて多種多様の人種や文化を受け入れてきた。その上、芸術コミュニティーを構築し、家族を大切にする土壌がある。やはり、プロヴァンスは芸術家が創作するに必要なすべての条件を満たす「母なる大地」なのかも知れない。
現在、ダニエルさんのVal d'Enfer にある石切場は彼の彫刻アトリエ、工房のほかに石を切りだして創った大きな天井の高い洞窟があり、そこは個人、企業の様々なエンターテインメント・イベント センターとなっている。 収容人員は200人。結婚式、セミナー、絵画個展など、ビデオ投影設備も完備され、白い石灰石の壁に大きく映し出された絵画画像も大変見ごたえがある。 屋外イベントも木々の茂った1ヘクタールもある広い会場で行なわれている。またプロヴァンスに行く機会があったら是非訪ねてみたい。 日経アート1997年12月号 奥村勝之著「天心無心」より抜粋
文・吉田千津子 写真・奥村森 |一覧|おすすめアイテム
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