ブログを作る※無料・簡単アフィリ    ブログトップ | 楽天市場
005904 ランダム
在宅で自動車を比較する一括ボーイ… (そのほか)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
在宅で自動車を比較する一括ボーイ
ホーム 日記 プロフィール オークション 掲示板 ブックマーク お買い物一覧

PR

Rakuten Profile

設定されていません

Archives

Freepage List

たしろ46の日記 [全8件]

Jan 08, 2010楽天プロフィール Add to Google XML

立つにつ  (1)

当初平家方はわざと、いかにも貴人が乗っていそうに見える目立つ船を
おとりにし、実際の要人は小さな船に乗せるという目くらまし戦法をとってい
ましたが、これも時間が立つにつれバレてしまい、源氏はターゲットを間違え
ないようになってきました。


Last updated Jan 09, 2010 00:41:49 AM
コメント(1) | コメントを書く



Dec 12, 2009

合戦と  (2)

目指す郡内へは結局またまた離反
により入れず、栖雲寺の近くで敵勢に囲まれる中自刃して果てました。これを
栖雲寺の山号をとって天目山の合戦といいます。これにより武田家はあっけな
く滅亡し、その所領の大半が徳川家康に帰しました。


Last updated Dec 12, 2009 0:45:52 PM
コメント(2) | コメントを書く

Nov 14, 2009

力士隊を結成

日本の初代総理大臣・伊藤博文は天保12年(1841)9月2日、
長州藩で貧農の子として生まれたとされています(但し捨て子だったのを父が
拾ったという説もある)。幼名利助。父の十蔵が藩の下級武士・伊藤直右衛門
の家に奉公に出ている内に、主に気に入られ、ちょうど直右衛門に子供が無か
ったことからその養子となります。このため、利助も武士の身分を得ることに
なりました。

やがて松下村塾に学び、高杉晋作らと一緒に討幕運動に参加。若い頃はかな
り過激な活動をしていたようです。文久3年(1863)に渡英しますが、ロンドン
に着いたとたんに下関砲撃事件の報をきいて急遽帰国、英仏米蘭との和平交渉
で通訳として活躍しました。

その後、高杉らとともに力士隊を結成。長州藩を従幕から反幕に転換させる
ことに成功します。そして維新後は新政府の参与に就任し、特に語学能力を
買われて、初期の明治政府に貢献しました。

明治4年には岩倉使節団に副使として参加。アメリカ、ヨーロッパ各国を歴訪
します。帰国後はそれまで対立していた大久保利通と和解し、彼を助けて活動
しますが、明治11年に大久保が暗殺されるとその後継者として内務卿に就任。
大隈重信らの急進派を追放して、政府の実権を握りました。

明治15年には3度目の渡欧。特にドイツの憲法制度を学び、それを元に日本の
憲法の作成に着手。明治22年に「大日本国憲法」として制定にこぎつけます。
それに先立ち、明治18年、内閣制度を発足させて、自ら初代の内閣総理大臣に
就任しています。


Last updated Nov 14, 2009 0:33:22 PM
コメント(0) | コメントを書く

Oct 17, 2009

ぜるだの  (5)

梵字の先頭であり、密教で阿字観などというのも行なわれますが、万物
の根源であると考えられます。これに対してウンは通常阿シュク如来の種子
として知られ、また理趣経の中に突然のようにこの文字が出てくる所があり
ます。そして、この文字は能満願・大請願の意味を持ちます。ということは、
もしかしたら、アが全ての根源を表わすとともにウンが成就を表わしていて
両者一対で万物の生成と完成を表わしているのでしょうか。

と、ここまで考えた所で、私は弘法大師空海の「吽字義」という文書を知る
ことになります。この文書は空海が「吽」という1文字だけについて詳細に
解説したものです。対の文書で「阿字義」というのもあるそうですが未見です。



Last updated Oct 18, 2009 00:57:02 AM
コメント(5) | コメントを書く

Sep 19, 2009

石田浮気恋人離婚  (2)

世界的に(主にアメリカだが)見た自動車産業の成立やその発展について見てきたが、それではわが国ではいつ自動車が走り出し、産業として形を成したのだろうか。そして、いかにして先進自動車国の中で最後発だった、わが国が現在のような自動車大国になりあがったのだろうか。本章では日本における自動車産業の成立、発展そして先進国への挑戦についてみていきたい。

?.馬のない馬車が走る

1898年1月、一人のフランス人が「パナール・ルヴァッソール」を日本に持ち込んだことより日本の自動車史はスタートした。そう、以外にも早くに日本自動車が上陸しているのである。しかし、当時の日本では人力車や鉄道の方が便利だと思われていたため、車の登場は大衆には大きな驚きではなく、新聞記事の扱いも極々小さいものだったという。それでもその後、1904年には山羽虎夫氏が日本製初の蒸気自動車を製作に成功し、1907年には内山駒之助等によってガソリン自動車が誕生している。このように自動車の試作も早かったが、自動車産業の基盤が現れるのはずっと遅れている。理由は色々あるが、基本的には鋳造、機械加工、プレスなどの技術水準等が低かったことが挙げられる。そのため、自動車の製作に挑戦した人は多かったが、本格的な国産化は遅れることとなった。このような日本において自動車に対する興味を沸かせることとなった2つの出来事があった。くしくもそれは戦争と災害によるものだったのだから歴史とは分からないものである。1917年のシベリア出兵時、政府は運送手段としてトラックを活用する欧米軍への遅れを痛感したという。急きょアメリカからトラックを輸入し、また国産化を意図した「軍用自動車補助法」を制定した。そして、1923年に起きたあの関東大震災で東京の市電や鉄道が壊滅したため、フォードT型トラック1000台あまり輸入しそれを改造した「円太郎バス」が東京の一つのシンボルとなって活躍した。この2つの出来事より、日本での自動車に集まる関心は急速に高まっていった。

この「円太郎バス」を皮切りにフォード、GMが日本進出を果たし、後にクライスラーも現地生産を始め、当時の世界差高品質の大衆乗用車を日本で組み立てたことは、日本の自動車事情に大きな影響を与えた。これに対し国産車は値段、品質、信頼ともに輸入車の足元にも及ばず、政府の補助金を差し引いても相手にならないものだった。この頃に現れた新興企業トヨタ、日産、いすゞも乗用車の開発に力を入れたが、戦時体制化のため政府指名のトラックの生産が主だった。しかし、政府の意向で外資との競争から保護され、戦時体制下の需要急増に支えられた自動車メーカーは、トラック、バスを中心に生産を伸ばし1938年には3万5千台余りと世界第六位の生産国となり、順調にその生産台数を伸ばしていった。一方、日本に自動車産業をもたらしたビッグスリーは関税などの諸問題で翌年を最後に日本での生産を中止した。しかし、戦時体制のもとでトラック中心の国産化体制を整え、生産台数を増やした日本自動車産業だが、乗用車生産技術や精密部品の技術でまだまだ遅れたまま来る戦後を迎えることになる。


Last updated Sep 19, 2009 1:53:22 PM
コメント(2) | コメントを書く

Aug 29, 2009


涙は~~

いつでも~~

でるんやで~~


Last updated Aug 29, 2009 1:06:28 PM
コメント(0) | コメントを書く

Aug 01, 2009

ケミカル

ケミカルって最近ききません

むかしはケミカルってよく聞いたけど

なんでだろう

死語?


Last updated Aug 01, 2009 1:13:18 PM
コメント(0) | コメントを書く

一覧

Let's link!

>お気に入りブログに追加
ブログが更新されると
メールでお知らせします

Calendar

February 2012
SMTWTFS
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
26272829   
<backthis monthnext>

 

Powered By 楽天ブログは国内最大級の無料ブログサービスです。楽天・Infoseekと連動した豊富なコンテンツや簡単アフィリエイト機能、フォトアルバムも使えます。デザインも豊富・簡単カスタマイズが可能!

Copyright (c) 1997-2012 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.