カテゴリ:親業実践
昨夜、母と話しているとき、
「どっちないと(広島弁で、どちらでも)」「なんだったら」を多用された。 前に書いたことがあるけど、私はこの言葉が苦手。 苦手、というか激しく混乱する。 私の過去の傷に密着している言葉なんだと思う。 「どっちないと」(どちらでも好きなようにしなさい)、 と判断を私に預けたようでいて、『どちらが正しいかは分かるはずよね?』と試される。 放任したようで居て、実は二択の命令形。 「なんだったら」も曖昧にしただけの類似形。 母はこの二つの言葉がとても好きで、口癖のように使う。 私は、そのたびに混乱する。 混乱する、ということが自分で把握できるようになったから、 酷くなる前に舞台を下りるとか、出来るようになっただけマシだけど、 混乱することには、変わりない。 というわけで、どちらか一つを使われただけでも混乱するのに、 それを多用された昨晩、混乱しないわけが無く(笑 席を蹴立てるように、娘を背負って実家を去った。 背負われた娘は、私の様子がおかしいのに気付いたらしく、 実家のあの部屋へ戻りたい、とごねる。 それを半ば無視して、家路を急ぐ。 娘、半泣き。 けど、途中で話をしてみた。 私:あのね、おかあさん、おばあちゃんとケンカしちゃったんだ。 娘:いつ? 私:さっき。 娘:なんで? 私:お母さんね、おばあちゃんとお話しててね、 わかって欲しかったのに、おばあちゃんに分かってもらえなかったの。 でね、とっても悲しかったのよ。 娘:うん 私:だから、おばあちゃんトコに居るの、イヤだったの。 娘:おかあさん、悲しかったん? 私:うん、とっても悲しかったの。 娘:悲しかったから、イヤだったん? 私:うん、悲しくて、イヤだったの。 だから、ハナコちゃんの言うこと、聞いてあげられなかったんだ。 娘:(安心したように)うん。 娘は、私が話し始めたトコで、ちゃんと聞いてくれた。 親業では、マイナス感情を持っていることを、「問題がある」と言うけれど、 この話を始めた時点では、娘も私も問題を抱えていた。 娘は、お母さんに分かってもらえない、という問題を。 私は、母に傷つけられた、という問題を。 でも、私は「わたしメッセージ」で私の気持ちを話してみた。 娘は、私の問題を能動的に聞いてくれた。 娘が能動的に聞いてくれ、分かってもらえた、と思った私は、 さっきまでの混乱が嘘のように解消し、あたたかな気持ちで自宅に着いた。 娘は、私の行動に理由があったことを知って、問題を昇華させた。 親業の始まりには、行動の四角形がある。 マイナス感情を抱いているのは誰か、を見極める作業だ。 転んで泣いている子どもが辛いのか、泣いているのを見る親が辛いのか、という問題だ。 「転んで痛い」という問題を持っているのが子どもで、 「転んだくらいで泣く子に不快感を感じる」という問題を持っているのが親だ。 転んで泣く子と、それを見て不快感を感じる親は、同じに見えて、 実は別の問題をそれぞれに持っているのだ、ということに気付くのが最初だ。 でも、これを長年一緒にしてきたせいで、そこから脱するのは、なかなか難しい。 だから、最初はまず、「問題を抱えているのは誰か」を始終考えることになる。 慣れればなんてことないけれど、これがもう、大変なのだ。 けれど、娘はそんな小難しい理論ヌキで、私と娘の問題を区別した。 自分自身が問題を抱えていたにもかかわらず、私の問題を優先して能動的に聞き、 それを理解することで、間接的に自分の問題を昇華させた。 親業の実践だ。 私の親業はまだまだ未熟だ。 けれど、私の親業は、確実に子どもに伝わっている。 私のことを気遣ってくれた娘の優しさも、 無意識のうちに親業を学び取ってくれたことも、とても嬉しかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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