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小言幸兵衛の「徒然日記」
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老いたる熱血老人の叫び [全201件]

2009.01.22楽天プロフィール Add to Google XML

天下取り狙っていた異色の戦国大名、伊達政宗(2)

政宗は秀吉、家康、秀忠、家光に仕えた。長寿であったが故の実績である。この間、秀吉の北条攻め、関が原の合戦、大阪冬、夏の陣等の歴史に残る合戦があった。秀吉には疎まれていて、臥薪嘗胆の苦労の末、手中にした会津若松を召し上げられ、岩井出山に封じられた。しかし先見性のあった政宗は異を唱えず、むしろ秀吉に接近し無謀な朝鮮征伐にも参戦したのである。家康の代になると、より密接な関係を持った。勿論関が原の合戦でも家康側についた。直接近江には出兵しなかったが地元にあって西軍の上杉景勝を牽制し彼をして関が原への参戦を挙止した。戦後家康の側近である土井利勝、本多正純、柳生宗短等と親しく交わり徳川への忠誠を誓った。娘の五郎八姫を家康の息子松平忠輝に嫁がせ、姻戚関係を作った。然し家康は生涯政宗の謀反を警戒していた。それだけ恐れられていた。
政宗は支倉常長を自前の大船でスペインに派遣した。かの国から戦艦を借り受け幕府を崩壊させるためと噂されたがスペインがイギリスとの戦いに完敗し、政宗の夢は叶わなかった。このほか居城を仙台に移し未墾の土地を開拓し合計で100石を越すようになった。江戸への太平洋ルートを作り20万石以上の米を江戸に送ったといわれている。兎も角、思慮分別に優れ
大局を見る目は確かでしかも実行力が抜群であったらばこそ、あの複雑怪奇な戦国時代を自由奔放に生き大往生をとげたのである。癌性腹膜炎が死因であった。幕府は外様大名の
取り潰しを積極的に行い、福島正則、最上義俊、加藤清正等が改易された。とかく謀反の噂のあった伊達家が幕末まで安泰でいたことは政宗の抜群の政治力によるものと思う。加賀100万石の前田家さえも家光の弟、忠家の謀反に組したと疑われ取り潰し寸前ま
で行ったが、利家の老妻、春が人質になって難を避けた程、外様の改易は厳しかった
1060年から始まったNHKの大河ドラマは50作近くなるが最高の視聴率を得たのは
1987年に放映された渡辺謙主演の独眼竜政宗である。38%ちかい視聴率であった。無名に近かった渡辺謙はこの作品によって一躍スタアーダムに登った。原作は山岡荘八の「伊達政宗」である。幕末における伊達家の禄高は62万石であったが、実質は200万石といわれた。
今の政治家は与野党共に全てが陣笠議員としか思えない。渡辺喜美ではとても政宗には程遠い。今直ぐとは言わない。少なくとも100年以内に政宗級の政治家が出なければ日本の将来は暗澹たるものである。世の若者の奮起を促したい。



Last updated 2009.01.22 15:11:25



天下取り狙っていた異色の戦国大名、伊達政宗(1)

伊達政宗は永禄10年に生まれ、寛永13年に69歳の生涯を閉じている。今NHKの大河ドラマ「天地人」の主人公「直江兼続」は永禄3年に生まれ元和5年に60歳で鬼籍に入ったが、ほぼ同時代に生きたことになる。関が原の合戦を挟んで正に戦国時代のド真ん中を駆け抜けた事になる。彼らが生まれた永禄年間は織田信長が桶狭間で今川義元を討ち取ったのが永禄3年であるから、正に戦国時代の大混乱の時期であった。政宗が生まれた永禄10年には織田信長による天下統一が殆んど終っていた。よって政宗は自分の誕生が20年遅かったと常々口にしていた。信長や秀吉と同時代に生まれていたら天下取りは夢ではなかったと言っている。織豊時代には全国に有力武将があまたいた。長曾我部、鍋島
武田信玄、上杉謙信、斉藤道三、今川義元、後北条、毛利,浅井、朝倉、六角、島津、伊達、最上、南部、佐竹、細川、徳川等、何れも崩壊寸前の足利幕府に代わって天下を治めんと、虎視眈々と機会をうかがっていた。周囲を強国に囲まれていた小国尾張の信長が天下を手中にし得たのは強敵武田信玄の病死という突発的な事故による。歴史に若しはない
が、もし西上途中の信玄が病に倒れなかったら、信長は鎧袖一触で潰されていたであろう。
信長が本能寺で倒れると秀吉が次の天下人になった。最後まで秀吉に抵抗していた小田原北条が秀吉の雲霞のような大群に包囲され降伏すると、秀吉の目は奥州に向けられた。政宗は奥州の雄として簡単には秀吉には屈しなかたが、秀吉にせよ、家康にせよ自分よりは
遥かに高齢ゆえ、いずれは先に死ぬと考え臣下の礼をとったのである
奥州伊達家はその祖は藤原氏で政宗は16代の当主である。奥州第一の名門の嫡子として
生まれた。幼名梵天丸、出羽三山の一つ湯殿山の万海上人の生まれ変わりと信じられていた
政宗は3歳の時、疱瘡で左目を失った。その醜さ故に実母の義姫に疎んじられ、毒殺寸前の経験をしている。幸い政宗は口に入れて食べ物の異な味に気づき直ぐに吐き出し、もっていた解毒剤を飲んだ為一命を取りとめた。実母の義姫は次男の小一郎を偏愛した。ために政宗は、弟の存在がお家騒動の元凶になると考え実の弟を葬った。義姫は伊達家を去り実家の最上家に逃げ帰った。政宗との再会は実に38年後のことで、そのとき最上家はお家騒動の責めを幕府に弾劾され改易されていた。(続く)



Last updated 2009.01.22 15:07:57

2009.01.17

北条早雲と小田原城

 昨年の8月末、箱根塔ノ沢温泉に遊んだ。甥が我々老夫妻を車で温泉に招待してくれたのである。宿は江戸時代から続いている戦前からの名旅館「一の湯」、道をへだてて、和宮が湯治、療養し、薬石効無く32歳の若さで世を去った環翠楼が当時のままの姿で建っている。
 小田原城の事は凡そは調べてはおいたが旅から帰って、印象の新たなうちに関係の本を探した。運良くオークションで司馬遼太郎の
「箱根の坂」を手にする事が出来た。上中下3冊の読み応えのある歴史小説であった。北条早雲の一代記である。これを読み日本の戦国時代に関する歴史観が大いに変わった。
小田原城は1417年に大森頼春によって築城された。天守閣は1633年の建築である。下戸駆除によって大森氏を滅ぼした北条早雲はこの平山城を大改革し、小田原の町を殆んど取り
込んだ総延長9kmの土塁と空堀で囲んだ大城郭を作った。戦国後期、この城を責め滅ぼした秀
吉はその壮大な設計に驚愕したという。
小田原城は徳川の手にわたってから城主は度々変わった。阿部氏、稲葉氏、そして大久保氏が幕末まで藩主を勤めた。小田原は東海道の重要拠点であり、かつ箱根の関所の管理を任されていた。明治4年廃城令によって城門の一部を除いてすべてが棄却された。現在の天守閣は1960年に再建されたものである。御殿や櫓、回廊等は皆無であるが、天守閣からみる小田原市内、そして広大な城跡を眺めていると千軍万馬の雄たけびが聞こえそうであった。私が特記したいのはこの城の基本を構築した北条早雲こそが戦国時代の魁であったことである。彼は若き日、足利幕府の官僚として足利義視に仕えていたが、その後駿河の今川氏を頼り、東下し、下克上によって城を構え領土を持った。当時は足利将軍家が全国の大名に領土や石高を与えていたが、自力によってそれを切り取ったのは早雲が始めてといわれている。山岡荘八、司馬遼太郎。海音寺潮五郎、吉川英治等の大作家が一生かかっても読みきれない作品を書いている。夫々の作品はそれを読む世代によって受ける感銘が変わってくる。特に吉川英治や山岡荘八の小説には作者の哲学、人生観、宇宙観等が豊富に内臓されているため、読むたびに大いなる感銘を受ける。今日は3回目の山岡荘八の「伊達政宗」6巻を完読した。次は久しぶりに吉川英治の「宮本武蔵」を読むつもりである。



Last updated 2009.01.17 12:14:50

2008.06.21

四川大地震と三国志

5月12日朝に発生した中国四川大地震は、発生当時は毎日メディヤで報道されたがその後の詳細は発表されていない。オリンピックを控えての中国共産党の報道制限のため、ニュースが途絶えている。日本国内においても凄惨な秋葉原の無差別殺人や、岩手、宮城の大規模な地震、
そして相も変わらない与野党の泥仕合のニュースのため、四川大地震は過去のものになりつつある。私は個人的趣味で中国の歴史に大きな関心がある。四川大地震は推定被害者4616万人以上。うち死者、行方不明者が10万人近くに及んだ大災害である。マグネチュードM=8
直下型逆断層の大地震であった。発生した場所が標高5000メートルのチベット高原が
標高500メートルの四川盆地に急傾斜で落ちこんでいるまれに見る地形であった。
山形宮城地震に比べて10000倍もの被害が出たのは、断層のずれが300kmに及んだ事、急峻な山岳地帯であったこと、そして何よりも学校や家の耐震性が全く軟弱であったことが大きな原因であろう。
 ご承知の様に四川省は揚子江の上流にあり、2000年ほど前は蜀の国と呼ばれ、その首都は今も昔も成都と呼ばれている。高齢者の方は一度は三国志を読まれたとおもう。
今回の地震のあと、吉川英治の三国志を感慨深く読み直してみた。三国志は正史と演義ある。正史は蜀,魏,呉が実際に干戈を交えた頃、陳寿によって書かれたもので、三国志演
義は明の時代に羅貫中らによってより分かりやすく、書かれたもので大成功した。
日本にも三国志は沢山種類が有るが、私は吉川英治の書いたものが大好きである。膨大な
資料が使われたが中心は三国志演義である。有名な赤壁の戦いや、五丈原の戦いは、何れも四川盆地と黄土高原の接するところで戦いが行われた。今度の地震で当時の遺産が多く崩壊したであろう。蜀の劉備玄徳、魏の曹操、呉の孫権、諸葛孔明等が脳漿をしぼって戦った場面が今回の地震で身近に感じた。揚子江には三峡の難所があった。今は三峡ダムの完成によりその絶景は姿を消した。昔は蜀に入るにはこの岩肌に桟道を作って渡った。
玄徳が63歳の生涯をおえた白帝城も水辺近くまで下がったようだ。曹操はは66歳、孫権は71歳で没した。残念なことにこの3人の英雄は優秀な跡継ぎに恵まれなかった。ために三国志の時代は50年ほどで下克上のため、滅んでしまう。
 私が懸念しているのは現在の中国の近未来である。共産党の隠蔽主義、一党独裁、沿岸部と内陸部の経済格差、軍事、政治の不透明さ、これらは必ずマイナスに作用する。
胸襟を開いて世界と向かい合うべきで、何よりも自国の実力を認識すべきでる。IT技術の
異常な発達によって今や世界は完全にリンクしている。中国やイランで問題が起きれば他山の
火事では済まされない。石油で大儲けしている輩も、食料問題と人工増加、水資源の枯渇
温暖化による耕作面積の激減等で、必ずや困難に直面する。5年以内に諸葛孔明のような
聡明で実行力のある指導者が世界の大国に出現してもらいたい。





Last updated 2008.06.21 15:40:56

2008.05.25

直江兼続 来年度NHK大河ドラマ「天地人」の主役

平成21年度NHK大河ドラマは「天地人」である。作者の火坂雅志は必ずしもメイジャーな作家ではないが、この作品の中心人物に上杉景勝の主席家老直江兼続(写真)をとりあげたのが異色である。変転極まりない戦国時代にあって、越後の上杉に仕え、謙信の養子である景勝を補佐し、抜群の働きをして、大名にこそならなかったが、その人格、学問、戦術武力は優に大名のそれを超えていた。生誕は永禄3年(桶狭間合戦の年)、死没は元和5年12月、享年60歳。正に戦国時代を駆け抜けた勇将であった。直江兼続の若き日の名前は樋口余六という。越後の名門直江家に跡継ぎが無かった為、君命によって直江家に養子として入り直江兼続と名乗った
「天地人」の原作は、川中島の合戦から始まり大阪の陣で徳川が勝利し、国内が統一され、
元和2年家康が死去して3年後、直江兼続は元和5年に世を去る。ここで物語は終わっている。全編に貫かれている作者の意図するものは、謙信から景勝に引き継がれた「義」の精神である。勿論直江兼続の生涯は「義」を重んじたもので、正に武士道の鑑といえる。
戦国時代、越後と甲斐は国境を接していた。ために干戈を交える機会が多かった。ご存知の様に信玄が病死した後、勝頼が巨大な甲斐の軍事力を継承するが、知力、武力、人間性に劣った勝頼は、長篠の戦での大敗後、軍事力の強化が出来ず、織田、徳川の連合軍により殲滅され武田家は滅亡する。日本人の判官贔屓により、甲越の合戦の物語では、どうしても武田側から見た作品が多い。しかし今回の「天地人」は越後側から物語が展開する。
武田が滅亡したのに引き換え、上杉は度重なる存亡の危機を乗り越え幕末まで家名と領地を存続させた。これに大きく貢献したのが直江兼続である。兜の前立ちに「愛」の字をかかげ多くの戦場を駆け巡った。愛は「愛染明王」「愛宕神社」からとったと言われている。
兼続は藩の子弟に対する教育に熱心であり、藩校を作った。これが後の興譲館(現在の県立興譲館高校)で、多くの英才を世に送った。特に戦前の海軍には日本海海戦の名将山下源太郎大将、真珠湾急襲の八雲忠一大将、重慶渡洋爆撃の片桐栄一中将等が此処で
学んだ。民間人、政治家にも著名な人が多い。さきのパイオニヤ社長の石塚庸三氏もここから
旧制弘前高校に進み東京帝大の法学部を出られた。短い期間であったが、私は若き日に
同じ会社で働き薫陶を受けた。古武士然とした立派な方であった。ご冥福を祈る。
秀吉の天下統一に際し、上杉景勝は多大な貢献をした。ために後に五大老に列せられたほどである。秀吉は景勝と直江の功に対し、春日山(上越市)から、会津120万石に封じた。破格の出世である。特に秀吉は直江兼続の働きを賞賛し、自分の部下にと願ったほどである。米沢30万石を直江兼続に与えた、関が原の合戦の際、義を重んじた上杉は
家康の誘いにも関わらず西軍に味方した。直接関が原には出向かなかったが、東軍を多いに悩ました。東軍勝利の後、普通ならば、お家取り潰しであったが家康は会津を取り上げ
米沢30万石に転封した。260年後、戊辰戦争では上杉は徳川に対する義を重んじ、薩長に対し壮絶な戦いを展開した。そして明治時代をむかえる。



Last updated 2008.05.26 09:24:48

2008.05.11

肝付尚五郎と小松帯刀 関連天璋院篤姫

目下放映中のNHK大河ドラマ篤姫に、準主役の様に登場しているのが尚五郎である。念願叶って、江戸に出て斉彬に仕えたのもつかの間、斉彬に帰国を命じられる。師と仰いだ薩摩の小松清猷が琉球で急死したため、小松家存続のため養子になるためである。
尚五郎は肝付家の3男として生まれた。肝付家は戦国時代、大隈半島北部を領した戦国大名であった。したがって家格からすると、西郷や大久保よりはるかに上席に位置していた。
小松家に入った尚五郎は名を小松清廉と変えるが、通称は小松帯刀である。強い意思と明晰な頭脳をもった立派な政治家として名を残す。
明治維新は薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の桂小五郎、土佐の坂本竜馬が中心となって進められたが
小松帯刀の存在がなければ、あの強引なクーデターは成功しなかったと言われている。何故なら小松は薩摩に残り、島津久光の信任を受け、28歳の若さで側詰兼家老になり、西郷たちを全面的に援助した。1866年、京都の小松帯刀の屋敷において、有名な薩長同盟が、坂本竜馬、小松帯刀立会いの下で成立した。薩摩からは西郷隆盛、長州からは木戸考允が出席した。また1867年には城代家老に任じられ、坂本竜馬や中岡慎太郎、後藤象二郎、板垣退助とともに薩土同盟を結んだ。後、徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表した時には、薩摩の代表として出席した。
明治維新後は、その交渉能力を評価され、明治政府の参与と総裁局顧問の公職を兼務した。1869年、病のため職を辞し治療に専念するも、薬石効無く大阪にて36歳の若さで病死した。小松帯刀の多大な功績に対して明治政府はその孫に伯爵を送っている。
毎回、ドタバタ劇を演じている与党や民主党の陣笠議員は、小松帯刀の爪の垢でも煎じて飲ましたい。



Last updated 2008.05.11 15:02:02

2008.03.21

上杉謙信、義に生きた戦国の知将

数多き戦国の武将の中で私が最も敬愛し、尊敬する武将は武田信玄と上杉謙信である。判官贔屓の日本人はどちらかというと、武田信玄を応援する。甲信の竜虎に関する歴史書は
信玄に関するものがはるかに多い。信玄が胃癌に倒れ、その子勝頼が、武将として甲斐の優秀な武士団を統率できず、政治的才覚に欠けていたため、天目山にて自害して果てた。ここに武田家は滅亡し、甲斐は徳川の支配下に置かれる。信玄が西上の途中、木曽の駒場で死んでいなければ、信長の天下統一はありえなかった。謙信は川中島の合戦で信玄と痛み分けになったが、その家名を幕府崩壊まで継続させた。上杉が織田、豊臣、徳川の厳しい時代に生き残ったのは、謙信の武略,武勇もさることながら、義を重んじた、優れた人間性と、養子景勝と、彼を補佐した優秀な武士団の力によるものとおもう。
上杉謙信は幼名を長尾喜平次という。彼が長じて関東管領上杉謙信となのるまでには紆余転変があった。とても短いプログでは書き切れない.非常に複雑な経緯があった。
越後の国は南北にながく、片側は日本海に面し、出羽、越中、岩代、信濃、上野に国境を接する複雑な国で今の新潟県と殆んど同じである。戦国の頃の越後は統一されておらず、群雄が割拠していた。北から新発田家、杉原家,宇佐美家、柿崎家、上杉家、長尾家と
勢力が伯仲していた。宇佐美定行に謙信は幼少の頃から文武両道の薫陶をうけた。特に軍学に関しては、六韜をはじめ孫子等の兵法を習ったが、その記憶力のよさは抜群であった。
1969年、NHKの大河ドラマで『天と地と』が放映された。6回目の大河ドラマであり、当時の名優が殆んど出演した。原作は海音寺潮五郎、謙信は石坂浩二、信玄は高橋孝治、その他滝沢修、志村蕎、中村錦之助、宇野重吉、中村玉緒、樫山文江、新珠三千代、有馬稲子等が出演した。
そして謙信は49歳で脳溢血にたおれ、帰らぬ人となった。生前大酒豪で常に馬上杯をはなさず、一人静に酒を飲んだと言う。肴は梅干だけだった。当然塩分の過剰摂取と酒の飲み過ぎが脳梗塞の原因デあったと推測される。
謙信は生涯不犯であった。為に実子はなく、姉の子景勝を養子とし、上杉家を継がせた。この景勝は非凡な武将であった。彼の小姓としてつかえたのが直江兼続である。この主従は秀吉に愛され、越後春日山から会津120万石に大抜擢された。
来年の大河ドラマはこの直江兼続を主人公にした「天地人」である。原作は火坂雅志、時代は戦国後期になるが、今から期待に胸が膨らむ。



Last updated 2008.03.21 10:59:45

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