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わたしのブログ

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続きです。

翌日、レントゲン室に連れて行かれた。その帰りに個室に入れられた。蚊帳がっってある。そこに寝かされることになった。これは確実にマラリアの宇多外を掛けられていると思った。
 ある日、良く眠っていたら、チクッと耳に痛みを感じた。驚いて目を開けるとすぐ側に白い白衣を着た看護婦さんがいた。「アッ痛かった?」と言いながら「今、血を採ったところょ。」良く見るとソバカスの人だった。「起こして悪かったわね。」「何か悪い病気かね。」「マラリアが無ければよいのですが、・・・。多分大丈夫でしょう。また明日ね。」と笑いながら出て行った。
 三日後のことである。病名が判り、両側肺浸潤兼脚気と診断された。内地送還のノ予定、これを聞いて心の中で実に嬉しかった。この日から私は何があっても死ぬものかと決心した。
 森もりれと元気が出てきた。自分のみは自分で守り必ず帰ると誓った。個室には半月くらいいたことになる。毎日のように熱が出ていたので注射をしてくれた.元の部屋に戻ったときは今までの人は二人しか残っていなかった。おおかたマラリアにかかったのだろう。
 八月も待つにかかった頃熱も出なくなった。目も治った。その上に飯は上手い。独歩患者とはこのことを言うのだろう。一人で歩きまわれる。もうもこっちのものだ。庭を散歩していたら「片山さぁん。」と声がした。ソバカスの看護婦であった。
「マラリアでなくて良かったわね。マラリアだったら個室から出られないのょ。顔色も良いわ。この分じゃあ。今度の内還組みね。大阪の陸軍病院のようよ。」と話してくれた。側にいた同質の奴が「看護婦に名前を覚えさすとは対したもんだ。」変に勘ぐってきた。漢口では腰抜けだった私が、上海では大きな顔をして院内を歩き回っている。要注意患者が三ヶ月で見違えるほど元気になった。
 まもなく内還組の名前が張り出された。もちろん、私の名前も入っていた。
「こんなに早く変えれるとはなんと幸運なことだ。」と喜んだ。昭和19年9月5日だったと思う。


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