紅夢2006/12/01しょっぱなから痛くて暗いです。 走る。 走る。 走る走る走る。 そうする理由も判らないまま、ただただ背後の巨大な何かに怯え、真っ暗闇を切り、走る。 ひっきりなしに空気が出入りして喉を痛める。肺を冷やす。脇腹が突っ張る。両足の感覚は既になく、勝手に交互に地を蹴っていく。 突然、足の下のものが消えた。勢いのまま全身がぐらりと前に傾ぐ。声を上げる間もなく落下が始まる。両腕が空を掻く。 一瞬ののち、体中の皮膚を襲う衝撃と痛み。顔が下を向いたまま、木の中に突っ込んだようだ。凄まじい音と共に、肌に無数の切り傷が作られる。とっさに受け身を取る為、身を回転させた。その刹那。 ブチブチッと耳障りな音がして、 右腕が本体を離れた。 一拍おいて、大量の血液が、先を失った肩から噴き出す。張り出した枝に持って行かれたのだ。 絶叫する。痛みを感じるよりも先に、声が迸り出る。と、それに呼応したかのような絶妙なタイミングで、手はおろか、全身の皮膚という皮膚が裂け、まるで紅い霧のように血と体液とが四方八方に撒き散らされた。 何も見えなくなった。正確には、視界から紅以外の色が消えた。噴水に似た音は止まらない。生命を維持させる液体が抜けていくのも止まらない。 もはや発声機能を果たしているかも定かではない唇が、ひとつの名の形に歪んだ。 「………さ。おい、起きろ少佐!!」 聞き慣れた声が、素子を現実に引き戻す。 瞼の緞帳を跳ね上げると、程なく両肩の揺さぶりが止まった。 「…………バ、トー」 絞り出した声は自分でも驚くほど掠れていて、義眼の男は寄った眉を更に寄せる。 全身じっとりと汗をかき、動悸と呼吸がけたたましい。本当に全力疾走した直後のようだった。 「…夢、だったのね」 「随分とうなされてたぞ。一体何を見てたんだ」 何か飲むか、との言葉に首を横に振り、右の手の甲で額を押さえた。 「ちょっとね。子供の頃に良く見た夢よ。換装直後だし、ちょっと不安定なのかも」 指の隙間から天井を見る。 窓からの月光に斜めに照らされた、自分のセーフハウス、自分のベッド、自分の体。 2、3度深呼吸し、自らを落ち着かせる。 徐々に早鐘が緩やかになってくると、所在無さげにベッド脇に立っていたバトーは、静かに部屋を出て行った。ぼんやりと開け放たれたままのドアを見つめていると、やがて、湯気を立てる数本のタオルを手にし、戻って来た。 「なぁに、それ」 「蒸しタオル。これで汗拭け」 「別に風邪なんてひかないわよ」 「ひかなくても、温めてやれば精神が落ち着く」 一歩も譲りそうになくて、仕方なく素子は身を起こした。ほこほこと温かいタオルを受け取り、モンローより余計な上下の下着を避けて肌を滑らしていく。 バトーがもう一枚のタオルで、背中を拭ってくれる。布越しに骨ばった指が判る。それが妙にこそばゆくて、つい唇を尖らせる。 「あなたひょっとして、単に私に触りたかっただけなんじゃないの」 「ま、それもないとは言い切れねえな……そら」 濡れたタオルを離し、パイル地のバスローブを肩から掛けた。タオルと一緒に洗面所脇の棚に入っていたものだ。人の家の勝手に通じてどうするのよ、と言いかけて噤む。 「熱湯で濡らして絞っただけなのに、どうして蒸すっていうのかしらね。 そういえばあなた、どうしてここにいるの?」 尋ねると、彼は一瞬言葉を失い、長く長く溜息をついて呆れたように言った。 「お前……無理やり俺を付き合わせた飲み屋でぶっ潰れた挙げ句、セブロ突き付けて『家まで送れ』とか言ったこと、全っ部忘れてんのか?」 「あらそう、それはお疲れ様」 「ったく……換えたばかりのプラントに想定以上の負荷かけやがって。おまけに部屋に入った途端、前触れもなくぱっぱと服は脱ぎ散らかすし」 「………念の為聞くけど、何もしてないでしょうね」 「俺が五体満足でここにいるのが証拠だな」 「それもそうね」 再び横たわって天井を見る。脇でバトーが律儀に使用済みのタオルを畳む。 ふと、夢の最後を思い出した。 私が叫んだのは、一体誰の名だったのだろう。 ぼんやり視線を彷徨わせていると、彼が立ち上がった。 「さて、と。今から帰るのも面倒だし、今日は泊まらせてもらうぜ」 「朝まで五体満足でいる自信があるなら、別に構わないわよ」 「タオルなら、いくらでも用意するぞ」 「そうね。………でも、今夜はきっともう大丈夫よ」 部屋を出て行く彼の後ろ姿を見送って、素子は瞼を閉じる。 「いざとなったら、箱舟の夢でも見るわ」 それ以上、呟きは零れなかった。 <了> bateau(川船、箱舟)から思いついたSS。 TVシリーズだとバトさんの綴りはBATOU、もしくはBATOHですが、GISの英語字幕では↑こうなってました。意味深。 時間軸はSAC中盤。体の関係には至ってないのを希望。私が書けないだけですが^^; -△- ジャンル別一覧
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