キリストはいつも身近に
キリストはいつも身近に 氏家富緒 私は、ブッディストであり、仏教を深く研究しているし、また日本人として、神道の勉強も続けている。 そのような宗教の研究の中で、キリスト教にも触れているのだが、この宗教はなかなか難しくて理解できない。 それはともかく、 「霊」は目に見えず、重さもなく、時空を超越した存在であります。 「霊」は父なる神の本質であり、それを意のまゝに操ることができるのは、神のみであります。 神は霊(=聖霊)を通して人間に働きかけて現実に力を及ぼし、様々な歴史を作って来ました。 霊にはこのように力がありますが、一番パワーがあるのは、勿論神の霊即ち聖霊であります。 次に力があるのがサタンの霊即ち悪霊であります。 サタンは元来ルシファーという名の天使長でありましたが、神の怒りに触れて下界に墜とされたと言われております。 その悪霊は変幻自在で、創世記第三章1~6節では神の留守を見計って、蛇となってエデンの東の楽園に忍び込み、人類の祖アダムと妻エバに「禁断の木の実」を食べさせています。 このように、悪霊の力は強く人間の霊に働きかけ、安々と悪の道へと誘惑します。 人間の霊は、霊魂と言われ、死後も肉体から遊離して存在し続けますので、動、植物を生かしている「生命霊」と異なり、「自由霊」と言われています。 悪霊より力が弱い爲に、悪霊のさまざまな誘惑には陥り易く、聖霊の力に頼る以外に助かる方法がありません。 以上、「霊」の概要を述べさせて戴きました。というように、キリスト教は、(聖)霊の宗教なのである。 神の実態は霊であり、神は聖霊であるイエスを人間界に遣わした。 イエスは旧約聖書に書かれている予言通りに、肉的姿にてこの世に送り込まれました。 人類は、その祖アダムによる原罪、ご先祖様から受け継がれて来ている罪なる性質、善悪の判断が出来るにも拘らず我々が犯す個々の罪、これら三重の罪のもと、飽くなき欲望を追求し、もがき苦しんでいる状態です。 これは、昔も今も変りなく、国家間の対立、部族間の対立、個々人の対立等様々な対立を生じさせております。 神は断じて罪を大目に見たり、罪と妥協したりすることをなさらないお方です。 「それ罪の拂う價は死なり、然れど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くる永遠の生命なり」(ロマ書第六章23節)とありますように、罪人は凡て火の池(ゲヘナ)に投げ込まれる運命にあります(ヨハネの黙示録第20章15節ご参照) しかし、慈しみ深い神は、人類救済の最後の方法をお示しになりました。 それは、神の獨子イエスを肉的姿でこの世に送り込まれたことであります。というようにである。 つまり、神もイエスも(聖)霊なのである。 肉体の目では見ることができない。 だから神は肉的姿にしたイエスを遣わした。 そして奇跡を起こさせた。 それらのことが縷縷書かれているのが聖書というわけだ。 ここのところ、つまり、霊的部分がブッディストには難しすぎるわけだ。 そこを超越した人が、クリスチャンになっているということなのだろう。