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カテゴリ:音楽
モノ心ついた頃からラジオやテレビそして東宝映画のモスラを観聴していた昭和の大アイドル・スターザ・ピーナッツの姉エミ さんが71歳という若さで旅立ってしまいました '12年6月15日(死因や死亡場所などは不明)に逝去されました。(文中敬称略) ザ・ピーナッツ双子の姉、伊藤エミさん死去 ↑ 1960年代に「恋のバカンス」「恋のフーガ」などのヒットを次々と飛ばし、日本歌謡界の創生期を支えた双子デュオ、ザ・ピーナッツの伊藤エミ(いとう・えみ、本名・沢田日出代)さんが15日に亡くなったことが27日、分かった。71歳だった。関係者によると数年前からがんを患い、療養中だったという。葬儀・告別式は親族の意向で近親者のみで執り行われた。 ♪ため~息の~でるような、あな~たのく~ちづけに… 1963年のヒット曲「恋のバカンス」などで一卵性双生児の妹、伊藤ユミ(本名・月子)さん(71)と魅惑のハーモニーを響かせた姉、エミさんが、ひっそりと天国へ旅立っていた。 関係者によると、エミさんは数年前に腎臓がんを患い、入退院を繰り返すなど療養中だったという。最期は歌手、沢田研二(64)との間に生まれた一人息子の長男(33)やユミさんら親族が看取ったようだ。 エミさんは59年にザ・ピーナッツとしてデビュー。きっかけは、妹とともに伊藤シスターズとして地元・名古屋市のナイトクラブで歌っていたところを、渡辺プロダクションの渡辺美佐相談役(当時副社長=84)にスカウトされた。 2人は1メートル52、B83W62H82、足のサイズも22・5センチと一緒で、唯一の識別方法はエミさんの目の横にあるホクロだった。が、デビュー後はユミさんもつけぼくろをして、うり二つだった。 美しいハーモニーで和製ポップスの第一人者としての地位を確立する一方、61年には映画「モスラ」に出演。61~72年まで人気バラエティー「シャボン玉ホリデー」で司会を務め、同じ渡辺プロ所属のクレイジーキャッツと並び国民的人気を誇った。当時を知る関係者は「大スターにもかかわらず、自慢やおごりは一切なく、気さくでスタッフや後輩から大変尊敬されていた」と振り返る。 人気絶頂だった75年4月、2人は「引退はキレイに、カッコよく」との思いから芸能界を引退。エミさんは同年6月、同じ渡辺プロの沢田と交際7年目で結婚。79年に長男を授かるも87年に離婚した。慰謝料は18億1800万円で当時の芸能人カップル最高額と話題になった。 73年のインタビューでエミさんは恋愛について「私は男にほれても妥協しない。ひとりになっても、なんとかやっていける自信がありますから」と発言。その言葉通り、一人息子を女手一つで育て上げた。離婚後も沢田姓を名乗っており、関係者は「沢田への愛情がまだあったのかも知れないが、それよりも長男のことを考えての判断だったのでは」と語る。 離婚後の生活について関係者は、沢田からもらった東京・世田谷区内の自宅で独身のユミさん、長男(33)と同居し、エミさんは長男の父母参観にも積極的に参加していたという。悲報が流れた27日、自宅には親交の深かった歌手、田辺靖雄(67)、九重佑三子(66)夫妻が弔問に訪れた。 エミさんの最後の“公の場”は75年7月、比叡山山頂で行われた沢田のライブ中、ツーショットで結婚報告した際で、それ以来、姿は見せていない。長年にわたり、ファンや業界関係者からはカムバックを望む声が上がっていたが、かなうことはなかった。 歌手、ペギー葉山(78) 「テレビを観ていて知ってびっくりしました。私自身もおしゃれな独自のファッションが楽しみでカラー時代の草分け的な存在でした。子供さんが生まれたときにはお祝いを持っていったら、『ありがとうございました』と言ってとても喜んでくれました。もう一回カムバックしてほしいとずっと思っていたので、とても残念です」 歌手で俳優、ミッキー・カーチス(73) 「ザ・ピーナッツは、当時名古屋のクラブで歌がうまくて評判の子たちで、(渡辺)美佐さんに一緒に見に行ってくれって言われて見つけた子たちなんだよ。ヒットパレードの時はずっと一緒で、双子だからか、何を聞いてもユニゾンで返事するくらい仲良かったねぇ。またあの歌声を聞きたかったねぇ。寂しいよ」 歌手、園 まり(68) 「テレビを観ていて知ってびっくりしました。私自身もおしゃれな独自のファッションが楽しみでカラー時代の草分け的な存在でした。子供さんが生まれたときにはお祝いを持っていったら、『ありがとうございました』と言ってとても喜んでくれました。もう一回カムバックしてほしいとずっと思っていたので、とても残念です」 歌手、小柳 ルミ子(59) 「すごくショックを受けております。新人の時にドレスをくださったり、ザ・ピーナッツの解散コンサートにうかがったとき、『私たちの分まで頑張ってね』と大変かわいがってくれた大先輩です。とても残念です」 音楽評論家、伊藤 強 「戦後の日本の歌謡曲で、きちっとしたデュエットを歌った最初の人。双子ならではの声質を生かし、素晴らしいハーモニーを聴かせてくれた。その後に同じようなグループが何組も出たが、2人の美しい歌声にはかなわなかった。編曲などを担当した宮川泰さんも、しっかりとトレーニングしたのだろう。日本のポップスの幅を広げた先駆者だった」 ザ・ピーナッツについては、←のウィキペディアで。 ザ・ピーナッツっていえば、何たってこれ↓だ!よ! ↑ 「ザ・ヒット・パレード」 ↑ 「シャボン玉ホリデー」 そして、小学時代に観た、怪獣映画「モスラ」の↓ ↑ 「モスラの歌」 シングル盤(全ていいんだけども)だと、想い出深いのは、この6枚! ↑ 「ふりむかないで」 ↑ 「ウナセラ・ディ東京」 ↑ 「恋のフーガ」 ↑ 「恋のバカンス」 ↑ 「ガラスの城」 所有している音楽関係資料↓のお宝の逸品だよ! そして、最後は、ジュリーが創った ↑ 「しあわせの誓い」 ザ・ピーナッツの伊藤 エミ さんのご逝去の報に接し心からお悔やみ申し上げます 合掌 日本最大のクリック募金は、文字数オーヴァーにより割愛しました。 探しています。 ゲストの皆様で、須藤 薫のデビュー・シングル盤の「やさしい都会」若しくは、第8弾目の「涙のステップ」そして、13弾目の「つのる想い」のレコード・ジャケットをお持ちでしたら、お譲り下さいますようお願いいたします。 東京の天気は、朝から曇天で気温が若干高かったので少々蒸し暑かった向暑の1日。 P.S.: 今回のブログは予定を変更したよ! 以下文字数オーヴァー(1000文字内)で割愛 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年06月28日 21時10分52秒
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