
■倉本聰の「優しい時間」、田向正健の「優しい時代」、鈴木慶一の「優しくて骨のない男」、これらはわたしにとって優しい三部作と言ってもいい作品たちなのだが、「優しい」ほど都合の良い形容詞はない。
■誰にでも優しいなんて、なんか誰にでも真剣に向き合っていない証拠みたいに見えるし、身体に優しいなんてのも、何の刺激も素っ気もないもののように見えて試してみようとする気にもならないんだな。
■思うに優しいという感じには何か下心みたいなものが見え隠れしていて、無条件にあなたをきっと守りますなんていう仏様みたいな見返りのない慈悲みたいなものとはちょっと違う気がしてしまうのだ。
■瀬尾まいこの小説にはそんなほわんとした優しさが多く含まれているように思う。すごく読みやすく、後味だってどれもこれもけっして悪くはない。普段小説なんか読み慣れない人だって、待ち合わせの時間つぶしや電車の中での退屈な時間についパラパラとページをめくってしまえば、おそらく最後の方まで読み進めてしまえそうな優しい文章だと思う。
■でもこの人の描く世界には実はかなりいびつな人間関係が含まれるということに関しては意外に読み落とされてしまうことが多いのではないだろうか。不倫相手の娘を一日預かってしまう女、公園で暮らすホームレスのおじさんを(同棲相手には無断で)家に連れてきて一緒に生活を始めてしまう女。当然のことのようにこの人はそんな物語を語り出すわけだが、よく考えれば、そんなことありそうでいてありえないでしょ。
■例えば角田光代のそれと比べれば、瀬尾まいこの小説に出てくる人物たちにはとげとげしさや辛辣さが削ぎ落とされているように感じる。文章に人当たりの良さ悪さも無いだろうが、同じ嫌な性格の女性を書くにしても、この人の描く人物には読み手が共感しやすい要素が(意識的に)そこいらじゅうに散らばっている。それは心情描写によるところが大きいのだと思う。いくら心の中でも彼女の小説の女主人公はけっして(角田のような)罵詈雑言を吐かないもの。
■本来的には優しさは滲み出るものなんだろうなって思っている。それでも手段として優しさを用いるという方法だって生きていくためには必要でもある。角田光代も瀬尾まいこもきっと結論は同じ所に行き着くのかもしれない。でも両者が(小説のうえでは)天と地ほど違った性格のように見えるのはその語り方の違いなのではないかと思う。優しい音楽は疲れた身体を癒してはくれるが、優しい小説家に身も心も委ねてしまうのはちょっと考えものかもしれない。
PS
■文庫本巻末の池上冬樹氏の解説文は解説大賞ノミネート。素晴らしい分析でござる。