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第二章:十七条憲法についての考察 聖徳太子と言われて最初に思い出されるのは十七条憲法の制定ではないだろうか。 先に冠位がなぜ十二階とされたかということについて述べたが、やはりこの十七条憲法にも「十七」にした理由というのが存在したと筆者は考えている。 なぜ、「十七」なのか、やはりここにも太子の思想に道教の強い影響があったことが窺える。 だが、ここで注意しておかなければならないのは、ここで言う道教というのは純粋な老子の思想だけではないということである。太子の思想の中心はやはり「仏教」である。筆者が言いたいのは、聖徳太子の頃に日本に伝わっていた仏教そのものにすでに「道教」の思想が含まれていたということだ。つまり、仏教も道教も渾然一体となって、ほぼ同時期に日本につたわったのである。 そして、道教と仏教の思想が渾然一体となって形作られているのが、まさにこの十七条憲法なのである。 十七条憲法の内容は、憲法とはいうものの近代の憲法や法律規定とは異なり、むしろ一般的な訓戒を述べたものと言える。国民全体に対して発布されたものではなく、朝廷に仕える諸氏族の人々に対して、守るべき態度・行為の規範を示した官人服務規程に近いものである。 これ以前の朝廷官僚がどのような常識を持っていたのかはわからないが、少なくとも、ここに新たに記された十七の項目が当時としてはひどく目新しい価値観であったてあろうことは想像に難くない。 では太子は、なにを拠り所にとしてこの十七条憲法を書き上げたのだろうか。近年の研究では、詩経、尚書、孝経、論語、左伝、礼記、管子、孟子、墨子、荘子、韓非子などの諸子の書や、史記、漢書などの史書、仏典など多岐にわたる書籍の語句を数多く利用して書かれたとされているが、筆者はその中でも最も多大な影響を与えているのは『老子』だったのではないかと考えている。 『老子』は、古代中国の周の王室に仕えたとされる老子という人物が、国を離れるとき関所の尹喜という人物に請われて書き残したと伝えられる書である。上下篇五千余語の書物で、上篇は主として「道」について、そして下篇では「徳」について記されている。 そう、太子が冠位の最上位に置いた「徳」である。 十七条憲法には、「仏・法・僧を敬え」と仏教を重んじるようにと述べている箇所があることも事実だが、全体を通して見ると仏教色より道教思想が色濃く見えるような気がして仕方がない。 では、十七という数字は何処から来たのか。筆者はここにも仏教と道教の合一を見る。 先にあげた五行配当図をもう一度見ていただきたい。五数の欄で西と東に相当する数を見ると、西が九、東が八に当たることがおわかりいただけるだろう。ここに「仏法東遷」という仏教思想を合わせると、9+8で「17」という数字が現れるのである。 聖徳太子の業績は、これまで仏教との結びつきの中で語られることがほとんどであったが、真実の太子像を導き出すには、仏教だけではなく道教にもその枠組みを広げて見ていくことが必要なのではないかと思っている。
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最終更新日
2011.04.25 00:49:46
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