学びの泉 ~五目スパゲティ定食~

学びの泉 ~五目スパゲティ定食~

第93号

2006. 7.14 ご登録読者数 1400 名様

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☆トップクラスに入る勉強法! 第93号☆

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私の自宅は信州の田舎にあるので、まだまだ自然が豊かです。真夏
には家の中でミヤマクワガタを発見することも珍しくありません。

毎年この時期はオオムラサキが玄関先に舞ってきて、目を楽しませ
てくれます。どうも裏山に餌になるエノキがあるようです。初めて
目にしたときには感動しました。

さすがに国蝶だけあって、オスの美しさには気品があります。形も
大ぶりで飛び方も優雅。

静かな山の中ではゆったりとした羽音さえ聞こえてきます。

東京を離れて田舎暮らしを始めて13年。田舎ゆえの煩わしさもあ
りますが、こういう小さな出来事一つで来てよかったと思えます。
今では一番好きな蝶になりました。



さて、用語の意味を掘り下げて考えるシリーズの第4弾、今回は主
に平安時代です。

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<用語の意味を掘り下げる(その4:歴史(3))>

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1:「荘園」

天皇中心の公地公民制では土地も国のものであり、「口分田」とし
て人々に貸し与えていました。ところが人口が増えたり、重い税負
担を逃れるために耕作をやめる者が増えたりしたため、口分田が不
足してきました。

そこで最終的に、自分で開墾した土地は永久に自分のものにしてよ
いという「墾田永年私財法」が出されました。公地公民制が完全に
崩れたのです。この私有地が後の「荘園」の始まりです。

「荘」の字は「倉や納屋」、転じて「田舎の家、農村の集落」など
の意味があります。「園」は「畑や庭」の意味ですね。

山林や原野を田畑として使えるように開墾するのは大変な作業です。
いくら自分たちの土地が増えるからと言っても、家族や親族単位で
耕す分にはたいした面積にはなりません。ところが裕福な貴族や寺、
神社などは、人を雇って大規模な開墾を始めました。

その結果、彼らは広大な土地(=荘園)を所有するようになり、力
をつけていきます。本来は開墾した土地は私有地とは言え、税を納
めなければならなっかたのですが、貴族や寺社はやがて、それさえ
免除される権利まで得るのです。

税の負担が重い農民は、彼らに土地を寄付し、その下で働くように
なりました。荘園は国家権力の及ばない場所になり、やがて貴族が
政治の実権を握る時代になったのです。

さて、荘園はいつまで続いたか知っていますか? 鎌倉時代にも
「地頭」のところで登場しますね。正解は豊臣秀吉の「太閤検地」
まで。これによって荘園は完全に廃止されました。


2:「摂政・関白」

どちらも天皇の代わりに政治を行う役職ですね。天皇が病気や幼少
の時などに全面的に代わりを務めるのが「摂政」、天皇が成人して
からその政務を助けたり、ときには代行するのが「関白」です。

漢字の意味を見てみると、「摂政」は「政治を摂(と)る」という
意味の熟語。「摂る」は今では栄養などを「とる」場合に用います
が、もともとは「多くの物を取りまとめて手に持つ」という意味で
す。「兼ねる」とか「代行する」という意味もあります。

一方「関白」は天皇の言葉に対し「関(あずか)り白(もう)す」
という意味。簡単に言えば天皇に助言をしたり意見を述べるという
ことです。なお、この言葉は「摂政」より遅れて、平安時代になっ
て初めて登場します。

日本における摂政の第1号は、推古天皇の時の聖徳太子とされてい
ます。推古天皇は女性でしたが、すでに立派な大人で有能な人だっ
たようですから、このときの太子の役割はむしろ天皇を補佐すると
いう、後の「関白」的なものだったのでしょう。

「摂関政治」で有名な藤原氏は、自分の娘を天皇に嫁がせて皇子を
産ませることで親戚になり、摂政や関白の地位を独占して権力を握
って行きました。当時は今に比べて寿命も短かったので、まだ子ど
もが幼いうちに天皇が亡くなることも多かったでしょう。

そんなとき摂政になった藤原氏は、正に自分たちのやりたいように
政治を行うことができたのでしょう。なんせ天皇の代わりですから、
誰も逆らえません。「この世をば わが世とぞ 思ふ....」と
いう歌の通りの栄え方だったと思われます。

ところでこの「摂政」、もちろん今も制度としてはあるんですよ。
日本国憲法にもちゃんと書いてあります。


※第五条【摂政】皇室典範の定めるところにより、摂政を置くとき
は、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を
行ふ。


3:末法思想

シャカの死後、ある一定期間(千年、二千年など諸説あり)を過ぎ
ると「末法」という時代に入り、シャカの教えを実践する者がいな
くなって社会に混乱が起こるという考え方です。「ノストラダムス
の大予言」みたいなものですね。

この思想が広まった平安時代後期には、飢饉や日照り、水害、地震、
疫病の流行などが相次ぎました。内乱や盗賊の横行、役人の不正な
ども目立ちました。末法の第一年は1052年に当たるとされていたた
め、「やはり...」と恐れおののく人が多かったのでしょう。

人々は救いを阿弥陀仏(人間を含むすべての生き物を救う仏)に求
め、浄土信仰が盛んになりました。これは阿弥陀仏を信じ、死後に
「極楽浄土」(苦しみも悲しみもない浄(きよ)らかな場所)に行
けることを願う信仰です。

つまり現実の世界に失望した人々が、そこから逃避して死後の世界
に希望を求めたのが浄土信仰なのです。

「浄土教」の教えでは、念仏さえ唱えればその願いが叶うとされて
いましたが、それだけでは不安な人々は阿弥陀堂を建てたり、阿弥
陀来迎図を掲げたりして熱心に信仰しました。
その流れは鎌倉時代になって浄土宗、浄土真宗、時宗などに発展し
ていきます。

今でもよく「世も末だ」という言い方をしますが、これも末法思想
のなごりですね。極悪な事件が毎日のように起きる最近の世の中を
見ていると、まさに「末法」のまっただ中に差し掛かっているよう
な気がしてなりません。


4:清少納言・紫式部

枕草子でおなじみの清少納言ですが、皆さんこの名前、どこで区切
って読みますか?「せいしょう・なごん」と読んでいる人が多いの
では...?正しくは「せい・しょうなごん」なのです。

「清少納言」というのはもちろん本名ではありません。「女房(にょ
うぼう)名」です。「女房」と言っても妻のことじゃないですよ。
「女官(にょかん)」のうち地位の高い人をこう呼んだのです。

では「女官」とは何でしょう? 簡単に言えば、皇室や貴族などの
身の回りの世話をする女性のことです。当然、宮廷にはたくさんの
女官がいました。

清少納言は中宮(ちゅうぐう:天皇の2番目以降の妻)定子(てい
し=藤原定子)のもとに、女官(女房)として仕えていたのです。
そのときの呼び名をそのままペン・ネームにしたわけです。

「清少納言」の「清」は本名の姓である「清原」から取っています。
「少納言」は律令制の役職の名前の一つなので、親族がその職にあ
ったことから付けられたのでは?と考えられていますが、真実はよ
くわかっていないようです。

もう一人、紫式部は中宮彰子(しょうし=藤原彰子)の女房でした
が、女房名は「藤式部」でした。自身も藤原家の出身だったので、
その「藤」と、父親が「式部省」の役人だったので「式部」をくっ
つけたようです。

その「藤」の部分がいつ頃から「紫」になったのかは定かではあり
ません。一説では、源氏物語が「紫のゆかりの物語」などと呼ばれ、
最も理想的な女性として描かれた「紫の上」から作者も「紫式部」
と呼ばれるようになったと言われています。

なお、2人とも本名の下の名前はよくわかっていません。名前にま
つわる謎は多いですが、この両者が日本の女流文学の先駆けになっ
たことだけは間違いないですね。

そう言えば、女性として日本のお札に初めて載ったのは紫式部でし
た。2千円札、最近全然見かけませんが...。



では、また次回...。


   (執筆:エクセルゼミナール 小林良行…長野市稲葉日詰)



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