学びの泉 ~五目スパゲティ定食~

学びの泉 ~五目スパゲティ定食~

第85号

2006. 5.19 ご登録読者数 1391 名様

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前回このメルマガを私が担当したときには、長野では桜はまだ咲い
ていなかったのに、あっと言う間にもう初夏の気配です。

先週は30度を超えた日もあり、そうかと思うと10度近くまで下
がったりして、着て行く服に悩みます。

来月はたぶん梅雨のまっただ中...。気温の変化の激しい日々が
続きます。皆さんも体調管理には十分注意してくださいね。


さて、言葉の意味をじっくり考えるシリーズの第2弾、今回から
「歴史」に入ります。

歴史は専門用語の宝庫ですね。覚えなければいけない言葉の量にう
んざりしている人も多いのでは?


本当の意味もわからず丸覚えするのでは、味気ないことこの上ない
し、すぐに忘れてしまうでしょう。大元の意味を漢字も含めてしっ
かり理解していきましょう。



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   <用語の意味を掘り下げる(その2:歴史(1))>

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0【 歴 史 】

まずは「歴史」という言葉そのものから紐解いてみましょう。

「歴」は作物を次々と並べて取り入れた様子を表している字で、そ
こから「順序よく並ぶ」とか「人々が次々と仕事を経てきた跡」と
いう意味が生まれてきました。

「史」は元々は「記録を記した竹札を筒に入れて立てている記録役
の姿」を表していて、それが「記録を司る役目」「記録を残した書
物」という意味に転じました。

教科の「歴史」は社会科の一部で範囲が限られていますが、すべて
の学問や人々の生活に歴史がありますね。「数学史」や「文学史」、
あるいは年を取ってから人生を振り返る「自分史」なども立派な
「歴史」です。

つまり過去の出来事や思いを記録に残したものが「歴史」なんです
ね。


“何のために記録に残すのか?”、それはもちろん、それまでの仕
事の経緯や成果を後世に伝えるためです。

学問にしても言語にしても、我々の生活はすべて、まず今までに積
み上げられてきた歴史を吸収するところから始まります。これまで
に正しいとわかっていることを、まず知識として身につけるわけで
す。

もしそれがなく、何百年も前の人と同じ知識で数学や科学を学び始
めるのだとしたら、社会はいつまでも同じレベルにとどまり続け、
発展はしないでしょう。より良い社会を作るために人々が残してき
た記録、それが歴史なんですね。


教科としての「歴史」について、よく「昔のことを勉強して何にな
るんだ」という疑問の声を聞きます。そんなこと学んだって実生活
の役に立たないと思っているんですね。

それは大間違いです。

時代や場所などの具体的状況は変わっても、人間は古今東西(ここん
とうざい)を問わず、同じような考え方、行動をしてきているものな
のです。

過去の出来事を参考にして、同じ過ちをくり返さないようにする、
また自分の考え方や行動の指針とする、つまりより良く生きるため
に「歴史」をしっかり学ぶ必要があるのです。

いつまでも縄文時代や鎌倉時代の人と同じ失敗を重ねているようで
は情けないですよ...。



1【 倭 ・ 大和 ・ 日本 】

この3つの言葉は、どれも日本の国のことを表しています。

「倭」は紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域および
その住人を指す際に用いた呼称です。

今は「日本」という国名ですが、昔は「倭」「倭国」と呼ばれてい
ました。「魏志倭人伝」や「漢倭奴国王」の金印でもおなじみです
ね。


「倭」は「わ」とも「やまと」とも読みます。元々あった「やまと」
という言葉に、漢字文化が入ってきたときに「倭」の字を当てたよ
うです。

ところが「倭」の字には「小さい人」という意味があり、中国・朝
鮮側が侮蔑的に使っていたのでは?という説があるのです(必ずし
もそうとは言えないという説もありますが...)。

また、元明天皇のときには、国名として漢字2字を使うことが定め
られました。そこで「倭」に通じる「和」の字に「大」を冠し、
「大和」としたわけです。

「大和朝廷」は現在の奈良県にあった王朝ですが、その辺りの地域
名である「大和」が国名にも使われるようになったということです。


では「日本」はいつ頃から使われたのかというと、最初に国名とし
て定められたのは大宝(たいほう)律令(701年)においてとされて
います。意外と古いんですね。

ただ、この頃は読み方はまだ「にほん」「にっぽん」ではなく、こ
う書いて「やまと」と読んでいたと考えられています。

「日本」を正式な国名と定めてからも、室町時代の「倭寇」とか、
第二次世界大戦時の戦艦「大和」など、その後も「倭」「大和」は
いろいろな場面に登場します。

今でも「大和魂」や「洋」に対する「和」(「和食」「和風」「和
訳」...)など、日本を表すときにこれらの表現を使うことは多
いですね。



2【 朝 廷 】

「朝廷」は天皇が政治を行っていた場所です。

鎌倉幕府で武士が政権を握るまでは、天皇を中心とした政治体制だ
ったので、今の政府にあたるのが朝廷だったんですね。

「朝廷」の言葉の由来は、大宝律令が成立し朝廷の政治体制が確立
された奈良時代は、政治や会議等は早朝から始められ午前中に開か
れていたことによるそうです。

「廷」は「平らに地ならしをした所」。「庭」と同じです。そこか
ら「官吏が立ち並んで朝礼をする広い庭や白州(しらす)のある役所」
という意味にも使われています。

朝廷は武士に政権が移ってからも、形式的な支配者として幕府の上
位に位置していました。

江戸時代でも、幕府を含めた全ての大名達は朝廷から律令式官位を
貰い、自己の領土の統治に対する正統性の依り所としていたのです。



3【 豪 族 】

「豪族」って、何となくわかっているようで実はあやふやという人
が多いんじゃないかな?

「豪」という字は「ヤマアラシの背の高く目立った硬い毛」を表し
ていて、そこから「強い、荒々しい、勇ましい」などの意味になり
ました。

「豪快」とか「豪傑」というイメージがあるので、「豪族」と聞く
と髭(ヒゲ)モジャの逞しい大男が頭に浮かぶのではないでしょうか。

同じ音である「賊」の悪いイメージでとらえている人もいるのでは
...? でも「ぞく」は「家族」の「族」ですよね...。


正確には「豪族」とは、「国家や諸侯などの広域政権の領域の内部
に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の
地域的支配権を持つ一族」と定義されます。

あくまでも国家などの枠の中にいて、 地方に土着して勢力を持っ
ていた「一族」をそう呼ぶわけです。

日本の歴史では、古墳時代・大和時代ごろまでの在地勢力を豪族と
呼んでいます。代表は物部氏、蘇我氏などですね。


大和政権は豪族の連合政権と言えるものでしたが、律令制度の導入
以降、豪族は貴族となりました。日本史ではその後も「勢力のある
一族」「有力な一族」という意味での一般的な使用例は出てきます
が、本来の意味での「豪族」とは区別しています。



4【 埴 輪 】

「埴」は「土」+「直(まっすぐに立てる)」で、草木の苗を植え
て増やすのに用いる水持ちの良い粘土のことです。

その粘土で作って素焼きにし、古墳の周囲を囲むように整然と並べ
たので「輪」の字が付いたのでしょう。


初期の埴輪は単なる円筒形のもので、墳墓の崩壊を防ぐ土留めの役
割をしていたとも、聖域を区切る意味があった(立入禁止)とも言
われています。


やがてお馴染みの家や馬、人をかたどった埴輪が多く作られるよう
になり装飾性も高まってきますが、これについても悪霊の侵入を防
ぐためとか、葬送儀礼や生前の祭政の様子を再現したものであると
か、様々な説があるようです。



5【 氏 姓 制 度 】

今では「氏」も「姓」も同じように扱われていますね。漢字の元の
意味も「氏」は「代々伝わる血統」、「姓」は「生まれた血筋」と
いうことでほぼ同じです(「姓」の訓読み「かばね」は骨のこと)。

ただし古代の「氏姓制度」の「氏」「姓」は、本来別のものでした。

「氏」は血縁的結びつきを元にした組織を作った豪族が自ら名乗っ
たもの、「姓」は「氏」の家柄や世襲の職業に応じて朝廷から与え
られたものです。

大和朝廷は、中央の有力豪族に「臣」「連」などの姓を与えて地方
豪族をとの力関係を明確にし、さらにその地方豪族を通じて農業、
漁業、手工業などの生産者を支配しました。

つまり、中央から地方に至る大和朝廷の支配体制の基盤が、この氏
姓制度だったのです。

やがて冠位十二階の制の制定、律令制度の成立などを経て、氏姓制
度は崩壊していきます。


それでも江戸時代までは、朝廷の公式文書には氏と姓を記すのが習
わしで、例えば徳川家康の場合は「源朝臣家康」と記していたよう
です。「源」が氏、「朝臣」が姓です。

では「徳川」は?...これは「名字(苗字)」なんですね。平安
時代末期頃から、氏の中でさらに家族集団を区別するために自らが
称した名字を名乗るようになり、それが一般的に通用するようにな
ったのです。複雑ですね...。


やっと5、6世紀まで来たところで、もう枚数が尽きてしまいまし
た。さすがに歴史はこだわりたい用語が多いですね。次回はどこま
で行けるやら...。では、また来月。



   (執筆:エクセルゼミナール 小林良行…長野市稲葉日詰)


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