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高知に自然史博物館を [全151件]
鳩山政権が華々しく実施している「事業仕分け」.前政権から惰性で続くムダを点検するという趣旨で,確かに意義ある作業だと思う.前政権下でのあきれるばかりの利権の構造があぶり出されて,唖然とすることも多い.ただ,それはそれとして,やはり貧困対策,景気対策,経済政策を急いで欲しいとも思う. それに,ムダだと断定することで,切り捨てていけないものを切り捨ててしまうという過誤を犯す可能性は大いにある.過去には小泉という男がそれをやった.その同じ轍を踏まないよう,くれぐれもお願いしたいものである. そう心配していたら,こんな記事を見てしまった. - 漢方に保険が適用できなくなる?事業仕分けでの大いに首をひねる結論 http://ameblo/garbanzo04/entry-10387885612.html これは Like a rolling bean さんの記事である. 同様の趣旨の声が,あちこちから上がっている.たとえば「ふじふじのフィルター」: http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/ の11月15日の記事とか, 「広島瀬戸内新聞ニュース」: http://hiroseto.exblog.jp/11593387/ とか, etc. etc. 漢方を保険適用からハズす.これは愚挙である.医学の進歩をマスコミは華々しく報道しているけれど,その陰にかくれて不治,難治の病気で苦しんでいる人たちもいる.結局のところ現代医学は,一般にイメージされているほどには万能でないのだ. この,現代医学ではカバーしきれない箇所を鍼灸,漢方,民間療法などがカバーしている.しかし保険がきかなかったため,高額の治療費に苦慮する患者や家族も多かった.漢方などの,いわゆる代替療法の有効性に気付いた臨床医たちの強い訴えで,やっと一部の療法に保険適用がされるようになったのは,それほど昔のことではない. 西洋医学は直截的で明快である.それに対し漢方医学は思考が哲学的というか,あまり科学的に聞こえない.しいて現代科学で類似の発想を探すとすれば,多変量解析のような思考だろうか.とにかく漢方医学では,複雑なシステムである人体のあり様を,少数のパラメータに還元し,それらのパラメータの1つ1つが極端に偏らないようにする,というような手法であるらしい.本当はよく知りません. そのような理論に基づく医学であるからして,薬効を統計的に実証しようなどという現代医学の手法とは,はなはだ相性が悪い.それに華々しく展開しつつある「最先端」の分野と違って地味であり,研究費も人材も不足がちではなかろうか.となると,保険適用にこぎつけるためのデータ集めも,なかなか大変なのでないかと推測する. しかし病気は待ってくれない.漢方療法への保険適用の開始は,患者にとってはひと筋の光明であっただろう.その光明を断ち切ることに対しては,極めて慎重であって欲しいと思う.
どしゃ降りの雨.そして季節は一気に冬へ.そんな中,本ブログは今日も相変らずの雑談でゴマカそうかと目論んでいます.さて: エリザベス女王が, He is taller than me. と言ったのだそうだ.かれこれ20年ほど前の話である.そういう記事をたしか朝日新聞で読んだ(記憶あやふや).彼は私より背が高い,と. 日本の英語教育は米語が主流である.お墨付きの好きな日本人らしく,米国人のネイティヴ英語を有難がる人もいる.しかし英語は今や国際語であって,さまざまなバリエーションがある.米語だけが「正しい」英語で,他はオーソライズされない「方言」だなどとは,とても言えないのが現状だと思う. お墨付きというならば,本家である英国の英語もある.しかし,広大な国土全体で比較的バリエーションの少ない米語に対し,英国は狭い国土に方言がひしめいている.英国英語の標準といえば私などはBBCの英語を想像するが,これは感情表現に適さない人為的,機械的な言葉であるとして敬遠する現地人もいる. そういう人為的な言語でなく,実際に英王室で話されている日常語なら,まさに生きた英語かもしれない.日本ではQueen's English とか言うらしい.英国の王室で話されているオーソドックスな英語,というふうな意味だろうか.これこそ正真正銘のお墨付き英語かも. というわけで最初の話に戻る.エリザベス女王の上記の発言がなぜ日本でニュースになったのか? それは,この表現が文法的に「間違って」いるからです. He is taller than I (am). というのが,文法的に正しい英語であるそうな. Queen's English は由緒正しい英語である.それは誰あろう,かの女王を中心とするRoyal Family の英語なのだ.日本の英語教育は部分的に,そういう「肩書き」をよりどころとしていた.ところが,事もあろうに女王その人が「間違った」英語をしゃべった.だから日本ではニュースになった. 話題が最初の狙いからどんどん離れて行くので,いきなり本論に入ります. 以下はフタコブラクダさんのブログhttp://futakoburakuda.iza.ne.jp/blog/からの転載です.ドラえもんと,のび太君の会話という形式になっています. (以下転載) ドラえもん: 最近ある人がこんな発言をしたんだけど,のび太君はどう思う? - 私がむしろ心配なのは,次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです.昭和の時代は,非常に厳しい状況の下で始まりました.昭和3年に起ったのが張作霖爆殺事件でしたし,3年後には満州事変が起り,先の大戦に至るまでの道のりが始まりました・・・平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって誠に不本意な歴史であったのではないかと察しております・・・過去の歴史的事実を十分に知って未来に備えることが大切と思います・・・ のび太: これじゃまるで戦前は悪い時代じゃないか! どこの左翼だよ,こんなこと言ったのは? ドラえもん: これは即位20年の会見での陛下のお言葉だよ. (転載おわり)
きょうは学童保育について書いてみようと思う. 学童保育というと dr. stonefly さんとか,その関連ページを思い浮かべる.もとより私はそういう知識もないし,見ている地域も違う.というのは,どうやら学童保育というのは,地域によってスタイルもずいぶん違っているらしいのだ. 学童保育というのは主として小学低学年の児童生徒を対象としている.両親が共働きの家庭などで,子供は学校がひけて帰宅しても誰もいない.だから子供を夕方まで預かってくれる場所が欲しい.そういう要望に対応した仕組みである. もちろん学童保育を利用する子供の全員がそういう同じ事情を抱えた家庭だという訳でもないけれど,説明がややこしくなるので省略. そもそもは,子供を預かってもらう必要を感じた親たちが始めた運動であるらしい.場所は,小学校の中にスペースを構えてもらったり,アパート(マンション)の一室を借りて利用したりと,これも様々.子供の面倒をみる担当者は,誰か手の空いている人に依頼する.まあ最初はそういう具合であっただろう.「高知では私が始めたんです」という人を私は知っている.ちょいと計算してみると,40年以上昔のお話で,つまり学童保育には,それだけの(それ以上の)歴史があるということだ. そして私の知っている例でいうと,かなり最近まで学童保育は,小学校の中では市民権がなかった.学校の敷地内に学童保育などという余計なものがあることを,露骨に嫌う校長先生もいた. ところが今は違う.学童保育の存在は「公」によって認知されている.運営も自治体からの補助金に大きく依存したり,運営主体がNPO法人になったりしている.昨年〜一昨年あたりは(年をよく記憶してませんが)文部科学省が積極的に学童保育のような仕組みを作ろうとしていた.放課後学級とか呼んでいたと思う.学童保育のように放課後に子供を預かる仕組みを文部科学省>教育委員会が積極的に作る.従来の学童保育と違って,そういうサービスを無償で提供する.子供の面倒を見る担当者には,退職した教師を宛てる,などの筋書きがあったらしい. 理由は知らないけれど,このアイデアは今のところあまり実施されてない.名古屋市が実施している「トワイライト・スクール」というのが,それに近いものかもしれない. 従来の学童保育では,担当者(学童保育指導員)の給料を捻出せねばならないので,親はそれなりの月謝を払わねばならない.しかし「公」が主体でやれば,親の財政負担はずっと軽減される.親にとっては朗報であるかに見えるが,果たしてそうだろうか. と,そこまで話を拡げると拾集がつかなくなるので,少し脱線します.とーとつですが,学童保育の先生(指導員)の資格について書いてみよう. 元来「私」のものであった学童保育が「公」化するにつれ,昔なら個人的なツテに頼ってお願いしていた「指導員」も,今は公募されることもある.見知らぬ応募者が適任であるかどうかを判断する「客観的な」基準は存在しないので,人選を委された担当者は,応募者の学歴,職歴,資格などを手がかりとせざるをえない.ここで「資格」として重視されるのは教員とか保育士の免許である.職歴も学校教師や保母としての経歴などが重視されるのでないだろうか. 反発を買うかもしれないけれど,これは変だと私は思う.学童保育は保育園や幼稚園ではない.保育園児と小学生とでは発達の度合いがまるで違う.扱う対象が違う以上,保育園での経験が非常に役立つと思えない.むしろ経験者は1つのスタイルをもっているし,そのスタイルに自信をもっているので,新しい対象(小学生)になじめないこともありうる. 保育園児と小学生の大きな違いの1つは,小学生は自分の頭で物事を判断するようになるということだ.それまでは誉めたり叱ったりだけで制御できていた子供が,それだけではコントロールできなくなる.子供の社会ができ,親に気を使ったり,策略をめぐらすようになる.その他さまざまな違いがある.学童保育でも小学校でも,保育園とは違う手法が求められる. ならば学校教師なら良いか? 私はこれにも反対である.学童保育は学校ではないからである.正確に言うと,学校であって欲しくないと私は思う. 出発点は「子供を預かる」だけの「目的」だったのかもしれないが,結果的には学童保育は子供にとって,学校から解放される,学校とは違うコミュニティになっている.学校の荒波から隔てられた「安らぎ」の場所である.そういう学童保育を私は知っているし,学童保育のそういう側面をぜひ重視して欲しいと思う.しかし失礼ながら,たとえば退職した先生が学童保育をやったら,学校と同じことをやるのでないでしょうか? それでは子供は救われない. 自治体が運営する学童モドキに話を戻すと,それをお役人コトバで「放課後学級」というらしい.あるいは名古屋では「トワイライト・スクール」と呼ぶらしい.「学級」や「スクール」が当然のように標榜されることが,お役人の発想の貧しさを物語っているようにも思う.
こんな音楽がありました. You can make the monster live again ... ... ... Don't wish too hard Your dreams are china in your hand 怪物をよみがえらせてしまうかもしれない ... ... ... あまり強く望んではいけない 君の夢は手の中の陶器 1980年代のヒット曲です.英国のグループ,t'Pau の "China in Your Hand". なお,たぶん china は「陶器」というよりも,透明感のあるデリケートな「磁器」というイメージでしょう. さて何の話でしょう.そうですね,沖縄の米軍基地です. (<何でそーなるのっ?) 最近テレビでよく槍玉にあがっているのが,基地問題に対する鳩山内閣内の足並みの乱れ.北沢さんはこう言った.岡田さんはこう言っている.福島さんは,鳩山さんは,・・・ 方針がバラバラじゃないか.ハッキリしろ.と,ここぞとばかりマスゴミ様がお叱りになっています.昔の与党や官僚なら,まだ何も決まってないことを理由に,ノーコメントで通すところ.今の閣僚は皆さん正直だな〜と思います. それにしても基地問題.困ったことです. この You Tube を教えていただきました. http://www.youtube.com/watch?v=y9GZ-COUDXU&feature=related (狙われた海〜沖縄・大浦湾 幻の軍港計画50年) 琉球朝日放送の番組だそうです.「ひねもすのたのた」さん,ありがとうございます.この情報も含め,普天間基地の移設問題について,少しなぞってみます.間違いがあればご指摘ください. 1960年代,沖縄では基地反対の気運が盛り上がり,大浦湾に設置したかった基地を米軍は断念した. 時は流れ1995年,米兵による少女暴行事件をきっかけに,基地反対の声が大きくなった.米国側との交渉の結果,時の橋本内閣は普天間基地の全面返還を発表.ただし,その条件として「海上ヘリポート」の設置を米国に対し約束した.そして間もなく,その設置場所として名護市辺野古のキャンプシュワブ沖が有力となる. 辺野古とは,つまり大浦湾である.米軍は最初の計画から30余年を経て,基地を最も造りたかったその場所に,大手を振ってヘリポートを設置できることになった. このヘリポート計画に反対という人は多いと思う.しかし,こういう言い方は反発を買うかもしれないけれど,当時の選挙の結果だけを見ると,名護市民も沖縄県民も,この移設計画に(僅少差ながら)ゴーサインを与えてしまっている.その背景には住民の生活の問題もあっただろう.ダム問題と同質の「補償金」の問題もあったかもしれない.住民はここでも札束で頬をなでるような手法で,基地移転に賛成するよう誘導されたのかもしれない.いずれにせよ,たいへん残念な選挙結果であったと言うしかない. 鳩山さんはどうしたいのかハッキリさせてくれ,と沖縄の知事さんが言っている.これは順序が逆である.沖縄県民は本当はどうしたいのだろう? 思うに1960年代には頑として基地に反対を貫いた愚直な人々,いわば聖人君子がたくさんいた.しかし1990年代ともなれば人々はみんな利口になった.どんなに反対しても大きな力には勝てない.それよりも自分の生活を少しでも良くしたい.そう考える「普通の」人間が増えた. ちなみに私も普通の人間です.自分自身に置き換えて考えてみても,命を削ってまでして聖人君子を貫くなんて,とても無理だと思う. もちろん「大きな力」の側はそういうことはお見通しである.だから「普通の」人間の最も弱いところを突いてくる.札束をちらつかせ,人間の尊厳を踏みにじりながら,粛々と事業を進める.それが自民党政権とその走狗である役人たちの手法であった. 鳩山内閣は逡巡している.私はそれで良いと思う.沖縄の基地問題は,何か話をするたびに出てくる「頭の痛い問題」として,くりかえし米国側に認知させることが必要だ.事を急いではいけないと思う. 基地問題は「手の中の陶器」なのだ.事を急いだら,「怪物」をよみがえらせてしまうかもしれない.民主党の主流は憲法改正論者であることを,今ここで改めて思い出しておきたいと思う.
きょうは「高知白バイ事件」について書いてみる. これは2006年3月,高知県春野町で白バイがスクールバスに衝突した事件である.白バイを運転していた警官は死亡,バスの運転手は実刑判決を受けた. この事件については,いろいろ不審な点を指摘する人も多い. 道路の左側にあるレストランの敷地から出て来たバスが,右折して対向車線に入ろうとして道を塞ぐ.その横腹に白バイが衝突した.さて誰が悪かったのだろうか,という問題だ.対立する2つの主張がある. 1.バス運転手が白バイに気付かず(右側をよく見ないで)道路に進出した.白バイは普通に走っていたが,突如として前方をバスに塞がれて,バスに激突した.事故に気付いたバスは急ブレーキを踏み停止した. 2.バス運転手は右側からクルマが来てないことを確認して道路に進出し,右折しようと停止していた.そこに異常な高速で走って来た白バイが突っ込んだ.バスは停止していたのだから,とうぜん急ブレーキは踏んでない. ところで,道を横断して反対車線に出ようというような運転は危険であり,私なら避ける.しかしこの場合は,行為そのものに法的問題はない.レストランからの出口のところで中央分離帯が切れていること自体,そういう行為を容認する道路設計になっている. 実際には現地は道路がカーブしていて見通しが悪い.この点で責められるべきは,このような道路を造った行政(国交省 or 高知県)か,または信号を設置しなかった公安委員会か,だと思う.このことも含め,車の運転者ばかりが責任を問われ,道路の設計者や管理者が責任を問われることがメッタにないのは不合理である. 話をもとへ. 上記1,2の主張のどちらが正しいかを判定するうえで,次の2点が特に問題になったらしい. a.バスは動いていたのか,止まっていたのか.警察側の主張では,バスが急ブレーキをかけたことを示すスリップ痕が,道路上にはっきり残っていたという.このスリップ痕は警察があとから付けた「ねつ造」ではないか,という疑問が提示されている.また,バスの乗客(生徒)は,バスは止まっていたと証言している. b.白バイは著しく高速で走っていたのか,それとも通常の速度だったのか.前者の可能性として,この道路をしばしば白バイが警告灯やサイレンなしに 100km/h 程度で高速走行していたことが目撃されている.一方,後者の可能性として,事故にあった白バイは目測 60km/h 程度で走っていたことを,たまたま対向車線を走っていたという白バイ警官が証言している. そして裁判では1の物語が採用され,2は否定された.バス乗客の証言は,運転手の身内の証言だとして不採用.けれども対向車線にいた白バイ警官の証言は身内であるにもかかわらず採用された.この点で裁判官の判断は,あまりに恣意的・主観的であるように私は思う.なお,白バイ事件について調べている人のレポートが12月上旬に発売予定の「週刊金曜日」に掲載されるらしいので,参考にしてください. まあ概略そういう事件である.以下は蛇足になるが,単車の制動距離について私の知っている一般論を書いておく. ふつう単車では前輪のブレーキを右手で,後輪のブレーキを右足で操作する.路面の状態が良いとき,前輪7に対し後輪3の割合でブレーキをきかせるのが良いとされる.これは初心者には難しい.前輪のブレーキをきかせすぎるとスリップ転倒を起こし易いからである.単車の制動距離はライダーの命に直結する.だから前輪ブレーキだけで止まる練習をしろと勧めている記事を,単車専門誌で読んだことがある. 訓練をつんだライダーは前輪のブレーキを効果的に使って,驚くほど短距離で単車を停止させることができる.仮に停止とまで行かなくても,60km/h 程度の速度から「衝突しても致命的でない」速度にまで減速するのは,白バイ乗員の運転技術なら一瞬である.もちろん路面が滑り易い状態だったとか,白バイが非常識なスピードだったのなら,話は別だ.問題にすべきはバスよりも単車のスリップ痕であるように思う.
NHKの朝ドラ「ウエルかめ」.徳島は「美波町」の「浜本なみ」ちゃんが,沖縄県黒島でカメを研究している「亀園」さんを取材している.これはドラマだから,地名や人物名は「いかにも」らしく作ってある. しかし同じようなことを実生活でもしばしば経験します.そこで今日の話題は,プロフェッション(職業)とノーメン(名前)とは関係がある,という説です. いきなり固有名詞ですみません.ウミガメ協議会でしたか,団体名を忘れたけれど,とにかく海ガメを保護する団体.その会長さんのお名前が亀崎さんだと聞いて,この説を思い出した.ウミガメの保護活動だから「亀」に関係しているし,海だから「崎」と関係している.否応なしに納得させられます. 山と渓谷を愛する会だったか,そういうような名前の会(うろ憶えごめんなさい)の会長さんをテレビで拝見したことがある.この方のお名前はたしか谷山さん,だったかな.「谷」は渓谷.「山」はそのまま. こういう一致は日本人だけではない.ある米国人の先生が,野生哺乳類の研究方法をテーマに講演をした.講演後,野生動物を麻酔銃で眠らせる方法について質問があった.この先生の言うには,自分は麻酔のノウハウについてはよく知らない.麻酔銃の達人に委せているとのこと.その達人の名前を聞いて私は吹き出してしまった.Hunter さんだそうです.なるほど銃の扱いが上手そうなお名前である. かなり以前のことになるけど,英国で羊のクローンを作るのに成功したことがニュースになった.さっそく米国で「子供の欲しい人に.あなたのクローンを作ります」と宣伝する人が出現.この人の名前は Dick Seeds さん.たしかに「生殖」の相談相手として頼りになりそうなお名前です.ペンネームじゃないとしたらスゴい. というわけで,名前と職業には関係があることを示す事例がけっこうある.この現象を,かつて「ニュー・サイエンティスト」誌は,professional nominalism と命名した.もちろん冗談なんだけど,しかし注意していると,上記のような面白い事例によく遭遇することも事実です. ゲルマン系の名前(姓)には職業を表わすものがある.ベッカー(パン屋),シュミット(鍛冶屋),シューマッハ(靴屋)など,短い名前が多い.これに対し長い名前は多分あまり職業と関係なくて,ちょっと意味深だったりします.シュヴァインシュタイガー(豚の小道に住む人),キルヒホッフ(教会の家),ローゼンタール(バラの谷間)など.ロスチャイルド家のご先祖はドイツ語読みでロートシルト(赤い楯)だった.以上,私の「誤訳」の可能性もあるのでご注意を. 日本人の姓は,同じ名前の地名があることが多い.そして地名は,その場所の地形と大いに関係がある.森さんとか山田さんとか言えば,その方のご先祖が住んでいた場所が想像される.また職業と関係ありそうな名前もある.土井さんとか樋渡さんとか言う名前からは,土木関係の仕事が連想される.文系というよりは理系の姓かもしれない. とにかく姓は,ご先祖様がそういう職業であった,そういう場所に住んでいた,そういう事に興味があった,とにかく何か関係があった,というような情報を含んでいる事が多々ある.そういう血筋なのだから,だから人は自分の苗字と関係することに興味をもつのかもしれない. しかし反面,ご先祖の血は世代ごとに2倍に希釈される.子供は両親の一方,多くは父親の姓を受け継ぐ.しかし姓を引き継がれなかったほう(多くは母親)の血も,子供の性質の半分を構成しているはずである.要するに姓に反映されていたご先祖の属性は,何世代もの希釈を経たあとでは,ほとんど残ってないと考えられる.となると,ご先祖はこういう性質の人であったが故にこの名前だったかもしれないが,現在生きている子孫がご先祖と同じ性質を保持している可能性は低い.むしろ逆に,この名前ゆえにこの性質をもつようになった,とは考えられないか? つまりご先祖では性質が名前を決めた.現在では名前が性質を決めている,かも. 少し積んでみた牌をここで一挙に混ぜっ返します. そもそも「名前と職業とは関係している」ことが実証されていないのである.現象の理由を考えるのは,その現象の存在が実証されてからの話でしょう. 実証はされてない.しかし偶然というにはあまりに出来すぎた事例が多い.これは興味深くもあり,また単純に楽しいと思う.むちゃくちゃな考察ですみません.
今日は自然史と関係ないこともない雑談です. ミズナギドリという海鳥がいる.なぜ「海」鳥かというと,上クチバシのつけ根に,ストローを短く切ったような「鼻」がついている.ものの本によると,この「鼻」からは濃縮された海水が排出される.つまり,こういう「鼻」をもつ鳥は,海水から水分をとることができる.水分補給に関し,陸と全くつながりを持たなくても生きていける.そういう鳥である.近縁の鳥としてフルマカモメというのもいる. フルマカモメは日本近海ではかなり北に行かないと見れないが,英国の離島には普通にいる.船で離島に渡るとき,港にはカモメがいる.陸を離れてしばらくはカモメがついてくる.やがてカモメは姿を消して,フルマカモメが姿を現わす.カモメは「陸」の鳥,フルマカモメは「海」の鳥だということを実感させられる. 話をもとへ. 昔,ミズナギドリの大量死という事件があった.1961年,米国カリフォルニア州モントレー湾での出来事である.この大量死の原因はドウモイ酸(domoic acid)という物質らしい. 以下はドウモイ酸についてウィキペディアからの転載です: (転載はじめ) 1958年、徳之島で駆虫薬として用いられていた紅藻ハナヤナギ(Chondria armata、現地名ドウモイ)から分離・命名された。 (中略) 1987年の11月から12月にかけて、カナダのプリンスエドワード島で養殖のムラサキイガイによる食中毒が発生した。被害者107人中4人が死亡、12人が重度の記憶障害に陥った。中毒を起こしたムラサキイガイを調べたところ、貝 100 g 当たり 31 - 128 mg のドウモイ酸が検出され、(中略)検死解剖などから、海馬(脳の一部)に大量のドウモイ酸が取り込まれてグルタミン酸受容体と結合したために脳細胞が興奮・死滅し、中枢神経が侵されたことが分かった。 (中略) ドウモイ酸は、異常繁殖した珪藻が活動を停止する際に作り出される。生物濃縮によって貝類やカニ、アンチョビなどに取り込まれ... (転載おわり) 図鑑によるとミズナギドリは頭足類,甲殻類,魚などを食べる.海のプランクトンが作ったドウモイ酸が食物連鎖を通じてミズナギドリに大量死をもたらしたというストーリーが,いちおう考えられる.1961年の事件では,鳥の大量死だけでなく,たくさんの鳥が(たぶん方向感覚が狂って)内陸の町に飛来したという話も読んだことがある. 高知県の西部にオオミズナギドリの繁殖地として知られる島がある.夕方,あたりが暗くなった頃,ミズナギドリの群れが沖から戻って来る.ミズナギドリは着陸がおそろしく下手で,空からいきなりドサッという感じで落下してくるらしい.鳥の集団が空から降ってくるわけで,現地にいると身の危険を感じるほどだという. 同じようにして,カリフォルニアの町に飛来したミズナギドリの集団も,人々を恐怖に陥れたのかもしれない.この事件にヒントを得た映画監督が,鳥の恐怖を題材とした映画を作った背景には,ミズナギドリのそういう性質も関係していたのかも,と想像する. その映画,ヒッチコックの「鳥」をNHKが近々放映するらしい. |一覧| |
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