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高知に自然史博物館を [全253件]
ミミズの放射能汚染が話題になっています.そこで,この問題と関連しそうな記事を,ブログ「へなちょこ自然保護」から転載しています.今回は昨年9月17日の記事を転載します. (以下転載) ========================== 除染の限界 福島県の原発事故で,放射能が撒(ま)き散らされた.そのため人が住めなくなった町もある.これを「死の町」と呼んでマスコミの反発に会い,辞任させられた大臣もいる.たしかに, 自分の故郷が「死の町」などと呼ばれたら,良い気はしない.戻って住みたい人もいるだろう.心ない言葉だと思う.もう少し言葉を選ぶべきだったと思う. しかし人や動物が生きていけない環境という意味では,ウソを言ったわけではない.住みたいから,復興したいから,だから「死の町」ではない,と言いたいのであれば,もっと現実を直視すべきだと思う. 「死の町」からの復興のため最近キーワードのように使われているのが「除染」である.放射能汚染の元凶は,空から降ってきた放射性の微粒子である.その微粒子,つまり放射性降下物が,地表や建物や立木の表面に降り積もっている.これらを除去すること,つまり「除染」作業によって,環境の放射能を減らすことができる. 確かにその通りだと思う.しかし,「除染」には限界もある.土の表面をはぎ取って放射性の層を除去した場合,はぎ取った土をどう処理するのかという問題が1つ.最良の案は放射性の土その他は東京電力の敷地に捨てることだと私は思うけれど,大方の賛同を得られそうにない. もう1つは,山林をどのように「除染」するのかという問題.林床の落ち葉を取り除いたら,かなりの放射能が除去される,などという研究もあるらしい.これは,にわかに賛成しがたい案である. 森林の落ち葉や土の中に,どれほど多くの生物がいるかを,みんな知っているだろうか? 知らないのなら自分で確かめてみれば良い.用意するものは軍手.これは落ち葉や土を両手でかき集めるのに使う.そして目の粗い「ふるい」と,ふるった土を受け止めるための白いバット. 落ち葉や土をふるってバットに落ちてきたものを観察する,それだけの作業である.1つかみの土や落ち葉の中にも,たくさんの生物がいることがわかると思う.この方法で観察できるのは,目に見える大きさの生物(動物)だけである.土や落ち葉の中には,目に見えない微小生物,線虫類,菌類,バクテリアもいる.自然が「生きている」とは,そういうことだ.その生きている自然を「除染する」などと,事もなげに言わないで欲しい.自然を破壊しないで欲しい. 除染をめぐる議論の中で,あまり指摘されてないことは,上記のような土壌生物の存在である.以前の記事: http://henachokosizenhogo.blog.so-net.ne.jp/2011-06-02 でも書いた通り,降り積もった放射性降下物はミミズやその他の土壌生物の働きで,土の中やエリアの外に拡散して行く. もっと大きな循環に目をやると,植物体は土から物質(放射性物質を含む)を吸い上げる.植物体の一部は動物に食べられて,遠くに運ばれる.最初は放射性降下物にまみれていた木の葉も,やがて地表に落ちる.落ち葉はやがて土となる.そして落ち葉や土は上記の通り,生命活動に満ちみちたミクロワールドの舞台となる. それが自然界の営みである.ところが多くの人は,降り積もったものは人が手を加えない限りずっとその状態でいるかのようなイメージで考えているように見える.都市部ではそうかもしれない.しかし自然が息づく山林では,まるで違う. 放射能汚染に対処するには,人間にとって最良の方法は,「死の町」を離れることだと思う.「除染」してでも住み続けたい人は,そうすれば良い.しかし「除染」作業は学校や住居,道路,町の中の公園など,人が日常的に利用する場所でやって欲しい.山林を「除染」することは不可能だし,やってはいけない事だと思う.
福島県川内村のミミズから,1キロあたり約2万ベクレルの放射性セシウムが検出されたという. http://mainichi.jp/photo/archive/news/2012/02/06/20120206k0000m040113000c.html これは大変だ,という論調が目立つが,私はむしろポジティヴに考えている.つまりミミズなど土壌動物の働きを通じて,放射性物質が拡散され,次第に薄められていくのは,むしろ良いことだと思っている.除染,除染とシャカリキになるよりも,できれば自然の成り行きに委せるほうが良い.「自然」を破壊するのは人である.そして人が破壊しない限り,自然は極めてタフにできている. それはそれとして... ブログ「へなちょこ自然保護」に,関係しそうな記事を書いたことがあるので,その1つをここに転載する.昨年6月2日に書いた記事です. (以下転載) ===================================== 放射能は土中に拡散する 内部被曝をひき起こすものは放射活性(放射能)をもったホコリである,ということを前回書いた.このホコリの性質をしっかりイメージしておくことが,被曝を防ぐことに役立つと思う.そこで今回は,このホコリ(死の灰)の性質について,もう少し書いてみたい. 次々と登場するインチキ専門家が「安全神話」を垂れ流していることで有名な国営放送が,朝の番組でこういうことを言っていた. 1.放射能を測定する機械(計数器?)がビルの屋上に設置されているのは不適切という意見がある.たしかに,あまり高い所は不適切なので,地上1メートルぐらいのところで測定するのが良い. 2.放射性物質は土の表面近くにあって,土中深くしみ込むことはない. 「ホントならマル,ウソならバツをつけよ」という試験問題なら,私なら1にも2にもバツをつける.1は言い方が微妙だが,人の(特に子供の)内部被曝を問題にするのなら,測定すべきは地上1メートルでなく0メートル,つまり地表の放射線量でしょう. で,今回特に書いてみたいのは2についてです.地表に降り注ぎ,土に付着した放射性物質は,土中深くしみ込むことはないだろうか? 土は人が耕さない限り上下が混ざり合うことはない,と一般にイメージされているかもしれないが,それは違う.なぜなら土の中には生物が住んでいる.そういう生物の活動が活発であれば(つまり「自然」が生きていて,豊かに息づいていれば),土は常に「耕されて」いる状態にある. かの進化論の元祖チャールズ・ダーウィンは,ミミズの働きに注目した.ミミズは土を食べる.そして糞として土を排泄する.この働きが土を「耕す」.表層の土と深部の土は,こういう土壌動物の作用で常に混ぜ合わされている. 歴史はなぜ「発掘」されるのだろうか.どうして過去の遺跡は土の中に埋もれているのだろうか.それはミミズの働きなのだ,というふうにダーウィンは考えた. クソミミズという名のミミズがいます(この日本語名,変えられないものでしょうか).芝生などで地面に小さな穴があいていて,その穴の周囲に乾いた土が盛り上がっているようなら,それは多分クソミミズの穴です.このミミズの働きは明快です.土を食べる.そして地表に糞をする.結果として土を下から上にいつも運んでいることになります.ミミズが食べない成分(たとえば遺跡)は年数を経るごとに土中に沈み込んで行きます. 放射能を含む土も,ずっと地表にあるだろうとは考えにくい.土壌生物の働きで土は自然に耕され,混ぜ合わされるので,放射能もあちこちに散らばります.そして全体としての平均的な結果は,最初は地表にあった放射性の土は,放射性の「層」として,次第に地下に沈み込んで行くだろう,と考えられる. 学校の運動場なら表面の土を除去することができる.しかし死の灰が降り注いだエリアには森も畑もある.除去されなかった放射能は土に混ぜ込まれて行く. そういう場所で耕作や宅地造成をしたら,どういう事になるんでしょうね.
ゲームにすること,ゲーム化,というような意味合いの言葉である.1月25日のNHK「クローズアップ現代」は,この言葉に焦点を当てていた. http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3147&html=2 ゲームは人を熱中させる.仕事に熱心になれない人も,ゲームには熱中してしまう.だから仕事をゲームのようにして,ゲームを楽しむことイコール仕事をすること,とすれば良い.たとえば仕事の内容をポイント制にして,ポイントを貯めることを楽しんでもらう.こういう「ゲーム化」の工夫が,企業に活気をもたらすのだと言う. この手法の欠点についてはどうだろう? NHKは何も言わなかった.良いことずくめであり,いま世界中で注目されている手法であり,皆さん大いにこの手法を取り入れましょう,と言わんばかりの扱いであった.遊び感覚で仕事を楽しめて,成果も上がる.いったい何が問題なんですか? こういう「ゲーム化」は,じつは日本では既に取り入れられていて,しかも大規模に実施されている.それは大学入試を頂点とする日本の教育制度である.試験の問題は学術的な考究というよりはクイズ,パズルに近い.そういうクイズでの生徒のパフォーマンスをポイント化し,君はクラスで何位,全国で何位,と告げる.より高いポイント,より高い順位の獲得が,学習へのモチベーションとなる.生徒に「競い合う楽しさ」を教えるのだ,と豪語した文部大臣もいた. そして文部省(文科省)とか,多くの教育関係者の努力の賜物かどうかは分らないけれど,最近は「得点」や「勝負」を肯定的に描くTV番組が多い.もちろん,点取り競争をゲーム感覚で楽しんでいる人たちに対し,第3者がとやかく言う問題ではない.しかし何でもかでも「ゲーム化」して,これぞ最良の方法と賞賛するような風潮には,警戒を呼びかけたい. 教育は多くの人にとって身近で,制度も古くからある.だから,「ゲーム化」の欠点も日本人なら容易に想像できるのでないだろうか.というわけで,もったいをつける訳ではないが,ここで様々な事例を検討することはしない.ただ1つのことを指摘したい.それはself-motivatedという概念である. 「本学の自慢はself-motivated studentsである」と,英国ケンブリッジ大学の先生が言ったそうだ.他から何の働きかけがなくても,うちの学生は勝手に自発的に勉強する.それが本学の自慢である,と. この「self-motivatedという属性」に,欧州の古い大学は特別な価値を置いているように思う. これと正反対なのが日本の文科省がめざす制度である.点数を比較し,より高得点を得るように競わせることで,その「競う喜び」をモティベーションとして勉強するように仕向けるわけだ. 「ゲーム化の何がいけないか?」に対する私の答もここにある.ゲーム化には多くの弊害があるが,最大の弊害は,ゲーム化はself-motivetedという観点に重きを置かないことだ.またはself-motivatedな学生がいることを仮定しないことだ.そういう学生を駆逐してしまう可能性すらある.この損失の大きさを文科省は省みるべきである. 思い切り卑近な例を1つ... いろいろな団体がテント店を出してそれぞれ何かを展示するというスタイルの行事が時々あり,私もそれを手伝うことがある.われわれの展示は好評で,立ち寄った人は熱心に見て行ってくれる.ところが,あるイベントに出店したとき,この時は「客」の性質がまるで違っていた. この日は,主催者がイベントを盛り上げようとして,スタンプラリーを実施したのだ.われわれのテントに立ち寄った人たちは,展示に興味を引かれたからではなく,スタンプを押して欲しかったのである.なるほど客は,いつもより多くのテントを訪れただろう.つまり主催者の目からすれば,イベントは大成功であった.しかし「展示品を見て何かを感じて欲しい」という私たちの意図からすれば,この試み(スタンプラリーというゲーム化)は完全にハズレであった. ということで,繰り返しになりますが... 少なくとも教育に関しては,いま必要なのは学習過程のゲーム化ではなく,ゲーム化してしまった学習過程を,本来の真摯な,まっすぐな情熱の世界に引き戻すことである.
高知に「科学館」ができる. 高知県と高知市がそれぞれ持っていた図書館を合体させて,1つの新図書館を造る.その最上階を「科学館」とする,という計画だ.長い時間をかけて「基本構想」ができたらしい.先日(1月20日)はその「説明会」を聞きに行った.要望したいこともあるし,いろいろな話が出ることを期待した. 結論から言うと,「説明会」というのは形ばかり.「説明会を開いた」というアリバイ作りのための「儀式」のようなものだった. 事前に質問内容を紙に書いて渡さねばならない.質問できるのは1人2つまで.発言できる時間は1人3分まで.そして発言できる人数は10人まで.あとは教育次長だかの陳腐な独演会.あまりにアホくさい儀式であった. 市民県民に対する行政の「説明会」というのは,ここ数十年,まず例外なくこういう儀式に終始している.ご意見をうかがいますと言うけれど,意見を言ってどうなるというものでもない.役人のほうは「意見を聞いて,それに回答した」というアリバイができる.こうして粛々と事業を実施する.土木部あたりの常套手段である. しかし,これは見かけ以上に深刻な問題である.今回は土木部の説明会ではなくて,教育関係の偉いテさんとか,図書館長とか,そういう人たちによる説明会なのだ.こんな顔ぶれの人たちが,こんな手法で,高知県や高知市の「教育」を指導しているのだ.これでは高知県の教育は救いようがない. この人たちは,何を恐れているのだろう? 新しい図書館を作ろう.科学館を作ろう.そういう会ではないか.皆が自由に発言して,おおいに夢を語り合う会ではいけないのだろうか.楽しいはずの集まりではないのか? 主催者側は仕事だろうけれど,参集した県民市民は自発的に集まった人たちだ.皆それぞれに高いモチベーションを持っているはずだ.そういう人たちを相手に,ここまで儀式化して万事滞りなく会を進行させねばならない理由はない.これでは参加者は,まるでテロリスト扱いだ. 主催者側は今まで何度も会合をもって,計画の隅々まで検討してきたはずだ.生半可な要望や指摘に耐えられない訳がない.この人たちには,そういう自信も自負もないのだろうか.もっと自由な,生き生きとしたやり取りがあって欲しかった. 科学館ができる.あまりに小さいけれど,そういう名の施設ができる.大いに期待したいところであるが,この「説明会」に参加して,期待よりは危機感のほうを強く感じてしまった.
師走である.町の中にクルマがあふれ,至るところで渋滞が起きている. それにしても,と思う.なぜ渋滞は解消されないのだろう? 渋滞を完全になくすことは困難かもしれないが,簡単な措置で緩和できそうな渋滞もある.片側1車線しかない道では,右折車が1台いることで,たちまち後続車が長蛇の列をつくる.車線をじょうずに区切って,後続車が右折車を迂回して直進できるようにするか,いっそ右折禁止にすれば,右折車が流れを妨げることはなくなるだろう. 別の例.青信号で進んだら,すぐ次の信号が赤になる.信号機のタイミングを同調させれば渋滞はずっと減る筈だ.そもそも,この小さな町に信号機の数が多すぎるし,信号の待ち時間が長過ぎる. 等々,簡単な工夫で渋滞を緩和することができるのに,当局は何の手も打とうとしていないように見える.車線や信号機や「右折禁止」などの措置を担当しているのは,どういう人たちなのだろう. 道路の速度制限を設定するのは,全国的な基準があると聞いたことがある.時速50キロで走行しても何の問題もなさそうな道路が,40キロ制限になっていたりするのは,そういう「基準」に従って制限速度を決めているからであるらしい.それとの類推で考えれば,車線の引き方も,信号機のタイミング等も,同じように全国基準に従っているのだろうか.だとすると,渋滞は起きるべくして起きていると言うしかない.クルマの流れは町ごとに違っている.個々の事例に応じてキメ細かく対応すべき所を,全国一律の基準に従っていたのでは,問題は解決する訳がない. 話はコロリと変わる. 古山明男「変えよう!日本の学校システム」(平凡社,2006)は日本の学校教育のシステムが抱える問題点を的確に指摘している.その中で古山氏は日本の学校システムを「中央集権無責任体制」と呼んでいる.教育関係と交通関係では組織機構の形も違うと思うけれど,1つの共通点があるのでないだろうか.それは個々の部署が,「上」の意向を気にして,自分で独自の政策を打ち出せないような仕組みになっているらしい,という点だ. 日本のお役人社会では近年,タテの関係が著しく目立つようになっているらしい.そういう中で個々の部署は,うかつに独自の措置をとりづらくなっているのでないだろうか.管理強化の中で各人がとり得る最良の策は,何事も自分で判断しないで「上」からの指示に従うことだろう.古山氏はそのあたりを,次のように表現している. (以下引用) 官庁に雇用されている人たちは,後で責任を追及されることを怖がる.官僚機構の中では,指導に従って失敗しても責任は自分にない.指導に従わずに成功しても上は喜ばない.指導に従わずに失敗したときは,目もあてられない.だから従うのである. (引用おわり) それは教育関係の話である.交通関係では,そういう事はない,というのであれば,結構な話である.ただ,市街地での交通渋滞の現状を見るにつけ,「この渋滞を何とかしたい」という熱意をもって交通整理を担当している人たちが,はたして実在するのだろうか?と思わざるをえない.
ゲーム理論(ゲームの理論)というのが流行ったことがあった.今も広く受け入れられている理論なのかどうかは知りません.本日は突然この理論のことを思い出したので,それについて書いてみる. ゲーム理論の概略はウィキペディアとかで調べられると思うけれど,話のいきがかり上,とりあえず説明します. まず,ゲームのような場面を想定する.ゲームの相手は「人」でも良いし,自然現象のようなものでも構わない.自分がどういう行動をとるか,その選択肢がm通りあるとする.対してゲームの相手がどういう行動をとるかの選択肢がn通りあるとする.そうするとm×nの表ができる.その表のマス目1つごとに,自分の「利得」を書いてみる. たとえば集団でバスを借り切ってバードウォッチング大会を計画したとする.君はそのリーダーである.前日になったが,天気が崩れそうな雰囲気がある.それでも大会を実行するかどうか,それを決定せねばならない.中止する場合,夕方5時までに連絡すれば,バスのキャンセル料は少額で済む. いま君の眼前には,5時までに中止を決めるか,このまま実施に向けて突っ走るかという,2つの選択肢がある.一方,相手(翌日の天気)には「雨が降る」「降らない」の2つの選択肢がある.こうして2×2の表ができる. 次に「利得」を考える. 大会を実施する・雨は降らない の組み合わせを10ポイントとしよう. 大会を実施する・雨が降る の組み合わせは最悪.参加者はがっかりするし,しかもバス代を払わねばならない.がっかりプラス支出で「利得」は -5ポイント. 注釈その1.「利得」と呼ぶけれど,負号がついているから,じつは5ポイントの損失です. 注釈その2. 雨が降ると双眼鏡が使えないのでバードウォッチングは不可能に近い.さまざまな野外活動の中で,とりわけ雨に弱い行事です. 続けます. 中止を決める・雨は降らない の組み合わせなら,-3ポイント程度かな. 中止を決める・雨が降る の場合は,-1ポイント. というふうにして2×2の表が完成する.さて大会を中止すべきでしょうか? 1つの判断基準としてミニマックス原理というのがある.君の眼前にある選択肢の1つ1つについて,「最悪の結果」を考える.それらを比べて,最もマシな結果となる行動を選択する. 上記の場合だと,大会を実施した場合の最悪の結果は -5ポイント.中止を決めた場合の最悪の結果は -3ポイント.後者のほうが,よりマシな結果であるから,この場合は「中止を決める」のが正解. というのが,ミニマックス原理が示す答である. もっと現実に即して言うと,雨天になる確率が,たとえば70%だったとする.そうすると「利得」の期待値は, 「実施する」場合. 10 × 0.3 + (-5) × 0.7 = -5 「中止する」場合. (-3) × 0.3 + (-1) × 0.7 = -1.6 となる.つまり「中止する」ほうが利得が大きい(損失が少ない)ので,この基準から見ても「中止する」のが正解となる.もちろん雨天になる確率の数値によっては,実施するほうが正解となる. というのが「ゲーム理論」です.学生時代に少しかじった程度の知識なので,あまり信用しないでください. さて,問題は「利得」の数値だ.何ポイントとか簡単に言ったけれど,実際には様々な要素が関係しているだろう.それらを考慮に入れて,最も妥当と考えられる数値を設定せねばならない.上記の例では,(1) 参加者の満足ないし失望の大きさと,(2) バス料金またはキャンセル料,の2つを考慮してポイントを設定した. ゲームの理論は,もっと大きな問題を扱うこともある.しかし基本的な手法は同じである.可能な選択肢のそれぞれについて,予想される利益や損失,リスク,必要な経費,などをまとめて「利得」のポイント数が設定される.妥当な数値が設定されたら,どの選択肢を採用すべきかは自ずと明らかになる. ところで,私の理解不足かもしれないけれど,その事業を進めるために「今までにかかった経費」は,ポイント換算は難しいと思う. 実社会では,少なくとも日本では,「今ここでやめたら,今までの努力(出費)は何だったんだ」という議論をよく耳にする. 「ここまでやった以上は,最後までやり通すべきだ」. 「今までの努力(出費,犠牲)を無駄にしてはいけない」. そうだそーだ,と思わず同調したくなるが,冷静に考えて欲しい.続行か中止か,どちらの選択肢を選ぶべきかの判断は,ゲームの理論では,予想される「利得」によって決められる.その判断に際し,「過去の投資」はほとんど何の意味も持たない.「ここまでやった以上は~」という議論は,精神論としては理解できるが,エコノミスト的には全く無用の雑音でしかない. というふうに思ったわけです.八ッ場ダムの建設続行を決めた人たちは,どういう根拠でそう決めたんでしょうね.
朝日新聞の連載記事「プロメテウスの罠」その第3部にあたる「観測中止令」の内容を紹介してきた.まだ紹介してないのは「観測中止令」(14) だけである.これは11月17日に行なわれた羽鳥光彦・気象庁長官の定例記者会見の内容を伝えている.要するに,この長官は何も知らなかったし,何もしてないし,皆様を信頼しているし... ここに書くだけでもスペースのムダです. さて, 原発事故という大人災に直面し,本当に必要な調査研究が打ち切られ,学術誌への発表が妨害された.これらの事例から,どういう教訓を引き出せるだろうか. 研究費が打ち切られた一因は,原発事故がひき起こした諸問題への対処は放射線関係の予算の中でやりくりすべき,という財務省主計局の判断であった.それを受けて文科省原子力安全課が,環境放射線の観測に必要な予算を停止した.この2つの判断に科学者は関わってない.つまり適切に判断できる知識や能力を持たない人たちが判断を下したのだろう. 論文の投稿妨害のほうは,研究所の所長(加納裕二)の判断が原因である.この人の専門知識のほどを知らないが,学術的というよりは政治的な判断であった.所長が守りたかったのは研究所の存続だったのか,それとも自分の地位だったのか.いずれにせよ,こういう行為は研究所の,学術研究機関としてのレピュテーション(権威・信頼)を傷つける.つまり「この研究所が発信する情報は純粋に科学的なものでなく,政治的バイアスがかかっているのでは?」という疑いに根拠を与えることになる.本当に守らねばならなかったもの(学術研究機関としてのレピュテーション)を,この所長は守らなかったということだ. 研究費カットと論文投稿の妨害.この2つに共通しているのは,とことん役人的な判断が行なわれたことだ.つまり「自分が責任を問われないように」という判断基準である.こういう判断の連鎖が「官僚の支配」(ビューロークラシー)の本質であり,個々人がそういう判断をくだす限り,行政機関はシステムとしてそれなりに機能する. では,何が足りなかったのか? 足りなかった,または不在であったのはリーダーである.実際,森ゆうこ議員というリーダーが登場して,方向が大きく変わった.政治家と役人とでは,関心の持ち方が違う.政治家は理念を実現することに,役人はシステムが円滑に機能することに,主要な関心がある.それが本来あるべき姿である. 私の言葉で言えば,リーダーとマネージャーは違うということだ.リーダーは「正しい」ことをする.マネージャーは「正しく」実行する.マネージャーがいかに正しく仕事をしても,リーダーがいなければシステムは正しい方向に進まない. http://plaza.rakuten.co.jp/tosana/diary/200804240000/ リーダーがマネージャーより偉い,とかいう話ではない.役人の判断基準は「自分に責任がかからない」ようにということだ.森議員は「こうしなさい」と言った.ないし,それに等しい圧力をかけた.役人はそれに逆らったら自分に責任がかかってしまう.だから議員の望む方向に軌道修正した.役人の側からすれば,「責任をとってくれる人」が出現したわけだ.当然それに従うのが「正しい」判断ということになる. 役人の悪口ばかり書いてきた気もするが,気象研の科学者への理不尽な指示の最大の原因は,政治家や「長官」や「所長」など,リーダー的な役割を果たすべき人たちが,なすべき仕事をしなかったことにあるのかもしれない.これらの人たちもまた,「自分に責任がかからないように」という判断基準で行動しているのだとすると,日本というシステムの行く先は暗い. |一覧| |
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