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北杜夫さんが集めた昆虫標本の展示会が開かれているというニュースを見た.戦争で標本が焼失してしまって,もう昆虫を集める意欲をなくしたと書かれていたような記憶があるが,映像で見る限り結構な量のコレクションである.
昆虫採集をする人のことを仲間うちでは「虫屋」と呼ぶ.いや俺は虫屋だけど昆虫採集はしないよ,という人もいるかもしれない.そもそも昆虫採集とはどういう行為かという定義の問題もある.まあ厳密に定義しなければ話が進まないというものでもないので,アバウトに考えてください. 北杜夫さんの著作の中で,ひとつ記憶に残っている記述がある.それは,虫屋はシャイであるということ.私は昆虫採集をやってますと宣伝しているような格好を見せない.立派なアゲハチョウがいても知らぬ顔.ところが道ばたに小さな蝶を見つけると,突如として変身.いずこからともなく網を取り出して手早く捕獲する. きちんと記憶していませんが,まあそのような話だったと思う.この話を読んで私は,うーん確かに,と納得してしまった.私自身じつは虫屋のハシクレで,私の基本的な行動パターンが,まさに北さんが書かれている通りだったからです. で問題は,なぜ虫屋はシャイなのかということ.私自身よく説明できない部分もあります.虫屋が社会的少数派であることは確かだけど,それなら「~の愛好家」は大抵は少数派である.たとえば「クラシック音楽の愛好家」は社会的に多数派とはとても言えないけれど,「昆虫の愛好家」よりは立派な肩書きとして通用するのでなかろうか. 北杜夫さんの話は,遠い昔,昆虫採集が今より一般的だった時代のことである.その頃も今と同様,昆虫採集はあまり社会的に認知された趣味でなかったことが窺える.「何をしてるんですか?」「虫を集めてどうするんですか?」というような好奇心あふれる質問ぜめに合ったりする.そういう好意的なリアクションならまだしも,怪しい奴あつかいされることもある.諸事情を考慮するなら,自分は昆虫採集をしているなどとアピールしない方が身のためと考えても不思議ではない.お断りしておきますが,これは日本中を昆虫採集バッシングが吹き荒れた,あの時代より以前の話です. さて,1970年前後のことだと思うけれど,昆虫採集という行為が,ひどく社会的に攻撃されたことがある.残酷な趣味だと言うのである.生きた虫を殺す.そして針に挿す.それを並べて観賞する.そのような行為を学校教育で奨励するなぞ,もってのほかではないか. おまけに,と一部の野鳥愛好家は言っていた.虫屋が虫をとるので,昆虫の数が減る.昆虫は野鳥の餌であるから,虫が減れば野鳥も減る. 冗談だと思うかもしれないけれど,言ってる本人たちは真剣なんだから始末が悪い.科学的な根拠のない議論は自然保護にとって大きなマイナスです.昔もそうだったし,もちろん今もそうです. 話をもとへ.そういうわけで昆虫採集は学校から敬遠というか忌避された.この影響は深刻で,今でも学校教育の中で昆虫採集はあまり復活していない.仏文学者の奥本大三郎さんとか勇気ある虫屋さんたちが,昆虫採集の復権をめざして華々しい言論活動をされたこともあって,今でこそ昆虫採集は社会的に許容されるようになっている.捕虫網を片手に山道を歩くとき,行きかうハイカーたちの視線が,昔に比べ優しくなった.しかし,それでも昆虫採集は,やはり特殊な趣味という見方が一般的ではなかろうか. なぜ虫屋はシャイであるか.その理由は多分,昆虫採集という行為が,やはり社会的によく理解されていないことと関係しているように思う.自然保護の必要性,自然に親しむことの重要性がかしましく喧伝されている昨今の事情を考えるとき,昆虫採集のこういう扱われ方は,いささか不本意でもある.だから自然史博物館の関連で,少し昆虫採集の話もせねばと考えている. 話はまだまだ続きそうだけど,今日はこれでおしまい. お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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