カテゴリ:日記
命という言葉を考える時期あると思う。
私の経験からしても、思春期の頃が自分の命を妙に不思議さを他者と比べ自分を軽く感じていた。 それと、どういう訳か17歳で死を迎えることに美学を感じたことも思い出す。 当時アイドルの少女が自殺したことの影響もあったのかもしれない。 それから、この50歳を今年迎えるが自分が車椅子生活を受け入れる頃にも命を軽んじたこともあった。 誰でもそうであると思うが、何の不満もなく順風な時は命などそう考えることもない。 大病や大失敗が自分の身に降りかかった時に、命という自分とを見つめてしまう。 そういう時は、心も塞ぎ込んでいる為周りを見ることが出来ない。 心に余裕すらもない。 こういう私も50歳を過ぎると、車椅子ということから人並みの年齢までは生きられないと思えるから徐々に死を受け入れなければならなくなる。 今は、有難い事に仕事を得ているからそういったことは心の隅にあるだけだが・・・・何れ時間を経て、社会から遠のくと自分でも制御出来ない心が生まれくるかもしれない。 天命を全うしたい。 されど、心の病になってしまうと健全な心も病むのだから・・・・・・。 よく、残された家族が可哀想だというが・・・・これまた、病んだ心ではそういったことも考えられないのである。 思春期の死は、親不孝と思う。 今の親は、自分達の子育ての結果はさて置き「いじめ」という言葉で他者に要因を向けそこを追求する傾向にあるようだ。 それまた、そうでもしないと親の心も持たないのかもしれない。 命は地球より重いといった人物がいたが・・・・誰だったか? よど号事件の当時の総理大臣だったか? 命を軽んじてはいけないが、命を盾に何かを要求してもいけない。 命は自分も他人も自然も宇宙も全て平等である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年11月10日 01時24分57秒
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